自己紹介

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1946年9月、焦土と化した東京都内にて、食糧難と住宅難と就職難の中、運良く生き抜いた両親の新しき時代の一発目として生を受けるも、一年未満で感染症にて死にかける。生き延びたのは、ご近所に住む朝鮮人女性のもらい乳と父親がやっと手にした本の印税全部を叩いて進駐軍から手に入れたペニシリンのおかげであったらしい。ここまでは当然記憶にない。記憶になくても疑えないことである。 物心がついた頃には理系少年になっていた。それが何故なのか定かではないが、誤魔化しうるコトバより、誤魔化しえない数や図形に安堵を覚えたのかもしれない。言葉というものが、単なる記号ではなく、実は世界を分節し、意味と価値の認識それ自体をも可能にするものであることに気付きはじめたのは50歳を過ぎてからであった。 30年間程の企業勤めの後、現在は知の世界に遊ぶ自称哲学徒、通称孫が気になる普通の爺~じ。ブログには庭で育てている薔薇の写真も載せました。

2018年6月10日日曜日

6月9日(土) ニーチェ『道徳の系譜』④第一論文の十~十一

今日は、ニーチェのキーワード「ルサンチマン(怨恨
ピエール・ドゥ・ロンサール
)」のところ。この概念が道徳の価値と意味、ひいては人間の生きる力とどう関わっていくのか?



ニーチェ 道徳の系譜(1887年)
(ちくま学芸文庫版。新太正三訳)

「 」内は本文引用。( )内は私の補足。★印は私の一言


十と十一
★いよいよ、キーワードの<ルサンチマン>(怨恨)が登場する。ルサンチマンによって、道徳の価値が逆転し、強い・優良<よい>(グート)が<悪>(ベーゼ)に、弱い・劣悪<わるい>(シュレヒト)が<善>(グート)になる。
「すなわちこれは、真の反応つまり行為による反応が拒まれているために、もっぱら想像上の復讐によってだけその埋め合わせをつけるような者どものルサンチマンである。すべての貴族道徳は自己自身に対する勝ち誇れる肯定から生まれ出るのに反し、奴隷道徳は初めからして<外のもの>・<他のもの>・<自己ならぬもの>に対して否という。つまりこの否こそが、それの創造的行為なのだ。価値を求める眼差しのこの逆転―――自己自身に立ち戻るのではなしに外へ向かうこの必然的な方向―――こそが、まさにルサンチマン特有のものである。」
「貴族的人間というものは、おのれの敵に対していかに多くの畏敬の念を持っていることか!・・・これに反し、ルサンチマンの人間が思い描くような<敵>を想像してみるがよい、―――そこにこそは彼の行為があり、彼の創造がある。彼はまず<悪い敵>、つまり<悪人>を心に思い描く。しかもこれを基本概念となし、さてそこからしてさらにそれの模像かつ対照像とし<善人>なるものを考え出す、―――これこそが彼自身というわけだ!・・・」
「こういうわけで、貴族的人間における場合とは事情はまさに逆なのだ!貴族的人間は<よい>(優良)という基本概念をまずもって自発的に、すなわち自分自身から考え起こし、そこからしてはじめて<わるい>(劣悪)という観念をつくり出すのだ!」

★人類の歴史を顧みれば、貴族的種族(ローマの、アラビアの、ゲルマンの、日本の、ホロメスの英雄達、スカンディナビアの海賊達)が異郷に接する段になると、放たれた野獣とさして違わなくなる。彼らの根底には獲物と勝利を渇求して彷徨する壮麗な金毛獣を認めざるをえない。金毛獣に蹂躙された人々が彼らを<悪い敵>として<ゴート人>とか<ヴァンンダル人>とかと名付け、怖れるのは無理もない。だが今日信じられていること、すなわち<人間>という猛獣を飼育して家畜に仕立てることことこそ文化の意義があると言うこと、これが真っ当だとすれば、反動本能とルサンチマン本能こそ真の文化の道具であることになるが、その反対こそ真実であるのは明白である。金毛獣を怖れて出来損ないの者らの吐き気を催す眺めから逃れられない羽目になるよりも、怖れる方(同時に驚嘆もできるとして)を選ばない者がいるだろうか。今日苦しみ悩んでいる<人間>はそうした選択に直面している。われわれの嫌悪をかき立てるものは、ルサンチマンの人間がおのれを<より高い人間>だと自負する権利を持つということだ。
「今日われわれの嫌悪をかき立てるものは決して恐怖では無い。むしろそれは、われわれが人間に恐怖すべきものをもはや何ひとつ持たないということだ。<人間>いう蛆虫がのさばりだし、うようよしているということだ。」

2018年6月4日月曜日

6月4日(月) ニーチェ『道徳の系譜』③第一論文の七~九

今日は、第一論文 「善と悪」、「よい(優良)とわるい(劣悪)」の七~九。お出かけの前に準備していた分を書いてしまおう。
ヒストリー



ニーチェ 道徳の系譜(1887年)
(ちくま学芸文庫版。新太正三訳)

「 」内は本文引用。( )内は私の補足。★印は私の一言


七
★貴族的階級が僧侶的階級にその支配力を奪われることになったのは、無力な者が強い者に勝利する方法、つまり<よい>者が<わるい>者となり、<わるい>者が<よい>者となる、という精神的な価値の転倒による復讐という方法によっているのだ、というのがニーチェの見立て。ユダヤ民族はその事例として挙げられている。人間の歴史をこのように直視することによって、人間の生の力の源を探ろうとしているのだろう。
「騎士的・貴族的な価値判断が前提とするものは、力強い肉体、今を盛りの豊かな溢れたぎるばかりの健康、加うるにそれを保持する上に必要なものごと、すなわち戦争、冒険、狩猟、舞踏、闘技、さらにはおよそ強い、自由な快活な行動を含む一切のものごとがそれである。これに反し僧侶的で高貴な評価法は―――すでに見たように―――、それとは別な前提を持つ。・・・僧侶的民族であるあのユダヤ人は、おのれの敵対者や制圧者に仕返しをするのに、結局はただこれらの者の諸価値の徹底的な価値転換によってのみ、すなわちもっとも精神的な復習という一所業によってのみやらかすことを心得ていた。」

八
★価値転換によって果たした復讐の方法とはつぎのようなものだ。神の子イエスは人類の罪を一身に背負って磔刑に処されたのだという (パウロによる)意味づけがなされ、ユダヤ教からキリスト教への転換がおこり、この転換によって、見かけ上は、僧侶的価値が貴族的価値によって滅ぼされて憎悪と復讐が崇高な愛に変身し、キリスト教徒が世界を征服することになった。しかし、禁欲と憎悪と復讐という僧侶的価値観の根は生き続けている。そうニーチェは言う。
「―――だが、君たちにはこれが分からないのだろうか?勝利をえるまで二千年を要したこの出来事を見抜く目が、君たちにはないのだろうか?・・・ところで、その出来事とは次のようなものだ。復讐と憎悪のあの木の幹から、ユダヤ的憎悪―――理想を創造し価値を創りかえる憎悪―――のあの木の幹から、同じく比類を絶したあるものが、一つの新しい愛が、あらゆる種類の愛のうちで最も深く、最も崇高な愛が生え出たのである。」

九
★民主主義者の自由な精神は、平民の道徳(自由と平等)が勝ったのだから、より高貴な理想のことなど言ってないで、その事実を素直に認めたらどうだという。だがニーチェはこれを認めない。
(自由主義者)「だが、なんだってまだあなたは、より高貴な理想のことなど話すのです!われわれは事実に従おうではないですか。要するに民衆が勝ったのです、―――これを(ニーチェが)あるいは<奴隷>がとでも、<賤民>がとでも、<畜群>とがでも、その他どう呼ぼうとあなたの勝手ですが、・・・<主人>は片づけられてしまい、平民の道徳が勝ったのです。」

2018年6月1日金曜日

6月1日(金) ニーチェ『道徳の系譜』②第一論文の四~六

ピース
今日は、第一論文 「善と悪」、「よい(優良)とわるい(劣悪)」の四~六。


ニーチェ 道徳の系譜(1887年)
(ちくま学芸文庫版。新太正三訳)

「 」内は本文引用。( )内は私の補足。★印は私の一言

四と五
★ここでは、古典文献学者としてのニーチェの語源学に基づいた<よい>と<わるい>の意味の変遷とその理由が述べられる。要点は二つ、一つは、はじめ言葉が表す意味の根拠が事実や客観性にあったものが、主観的なってくると当初の意味からかけ離れた内容に変化すること、もう一つは、近代の西欧政治思想の一つ傾向として原始社会形態への先祖返りが起こっていること、つまり、かっては実力を持った高貴な身分の人々がその内容を失うとともに、賤民であった被征服民族が支配者となりつつある、ということ、とニーチェは言う。

六
★ニーチェには大嫌いなものは沢山あるがとくに僧侶階級が大嫌い。そろそろ<わるい>が<よい>に転倒して憎むべき僧侶階級支配の理論が始まる。禁欲的で非行動的な僧侶階級が精神的優越性を持つようになると、高慢・復讐・明敏・放埒・権勢欲・徳・病気は、より危険となる、とニーチェは表現するが、それは人間の欲望を否定するのではなく肯定することの内に道徳の価値を見出しているからなのだろう。

「最高の世襲的階級が同時に僧侶階級であり、・・・はじめは、たとえば<清浄>と<不浄>が、身分的差別の印として対立する。そしてまた、ここでもやがて<よい>と<わるい>という対立が、もはや身分的なそれではない意味(端的に道徳的意味)において発展してくる。・・・こういう僧侶的な貴族社会の中には、またそこに支配している行動忌避的な、半ば沈鬱的で半ば感情爆発的な習慣の中には、はじめから何かしら不健康なものが潜んでいる。そうした習慣の結果として、いかなる時代の僧侶たちにも殆ど避けがたくこびりついているあの内臓疾患と精神衰弱とが、あらわれてくるのである。」

2018年5月31日木曜日

5月31日(木) ニーチェ『道徳の系譜』① 序言、第一論文の一~三

マルコポーロ

 和光大パイデイアの石川輝吉さんの社会人講座で、ニーチェ『道徳の系譜』の講読が始まった。かなり前に一度読んだのだが、今回は講読の途中経過を「読書日記」に書いておくことにした。一年後にまとめて、別ブログに掲載するつもり。今日はその1回目。
 同時に読み進めている本が六冊あるので大変。でも、それらを日誌に記載していく方法を採用すると大体毎日ネタには困らないことに気づいた。が、はたして実行できるか?


ニーチェ 道徳の系譜(1887年)

(ちくま学芸文庫版。新太正三訳)

「 」内は本文引用。( )内は私の補足。★印は私の一言

序言
★善悪という価値判断の意味と価値を、その起源に溯って、一から考えようと言う宣言。
「かくして問題はこうなる、すなわち、人間はいかなる条件のもとに善悪というあの価値判断を考え出したか?しかしてこれら価値判断それ自体はいかなる価値を有するか?それらはこれまでに人間の成長を妨げたか、それとも促進したか?それらは生の危機、貧化、退化の徴候であるか?それとも逆に、それらのうちには生の充実・生の力・生の意志が、またその勇気、確信、未来があらわれているのか?」

第一論文 「善と悪」、「よい(優良)とわるい(劣悪)」
一
★ニーチェは、偉そうに理屈をこねるドイツ観念論哲学(カント、ヘーゲルなど)よりも、浅薄だが事実を見ようとするイギリスの経験論哲学(ロック、ヒュームなど)の方がまだましだと、そちらにヒントを求めた。
「すなわち、われわれの内部世界の<恥部>をされけだし、人間の知的矜持が極力見られたくないと願っているその箇所に、真に活動的な因子、指導的な因子、発展のための決定的な因子を探り出そうとしている(イギリス哲学者たち)。」

二
★善悪の判断は<よい><わるい>という感性に基づくもの、そして<よい>という感覚の起源は高貴で強い人々自身が感じ取ったもので優良、<わるい>はその反対で劣悪とイメージされるようになり、ここに支配者(優良)と被支配者(劣悪)の対立が起こるという見立て。イギリス経験論・功利主義哲学者は、高級な人々が低級な人々に利益を施す非利己的な行為が低級な人々によって賞賛されることが<よい>の起源であるのに、そのことが忘れられているなどと格好をつけているが、<よい>は自分たちがそう感じていることなのだ。
「<よい>という判断は、<よいこと>をしてもらう人々からおこるのではない!その判断のおこりは、むしろ<よい人>たち自身にあった。すなわち高貴な者たち、強力な者たち、高位の者たち自身にあった。・・・高貴との距離のパトス(その時の感情)、すなわち低級な種族つまり<下層者>にたいする高級な支配者種族の持続的・優越的な全体感情と根本感情、―――これこそが<よい>(優良)と<わるい>(劣悪)との対立の起源なのである。」

三
★ちょっとした挿入箇所。ハーバード・スペンサー(19世紀イギリスの哲学者。「適者生存」という言葉の創始者)の考えを引き合いに出して、イギリス経験論(この場合は自然科学的合理性)の良いところと足りないところを述べている。多分、善悪の判断の起源である<よい><わるい>という人の感性は自然法則では説明できない、と言いたいのだろう。

2018年5月7日月曜日

5月7日(月) H.アーレント『人間の条件』の研究会が始まった

ベルサイユの薔薇
まだ無名ではあるが、H.アーレントの研究者を講師に招いて、仲間と『人間の条件』(ドイツ語からの森一郎先生の翻訳が最近『活動的生』のタイトルで出たので、そちらも並行し読みながら)を読み始めた。
 著者は、残念ながら1975年に69歳で亡くなっているのだが、彼女が政治というものを哲学的にどのように捉えていたのか、その本当のところを知りたいと思ったのがその動機だ。少なくとも西洋の伝統的形而上学的な考え方ではなく、人間の実存からの思考のはずだからだ。
 まだ、第一章まで読んだところだが、アーレントの政治哲学の基盤となっている部分が覗えて先が楽しみだ。人間の知識が己自身を滅亡させるほどの現実をもたらしたこの不安に満ちた現代において、人間の本質を問うのではなく、人間が人間たる条件を問うこと、それがはじめの問いだ。

2018年5月5日土曜日

4月30日(月) 『資本論』完読祝い

良い香りの「芳純」
仲間と始めた『資本論』全三巻の講読会が4月30日に終了した。一人で読むのは続かないだろうと仲間に呼びかけ、はじめは3人くらい集まれば始めるつもりであったが、結局平均7名くらいは継続してくれた。読書会の回数は31回、期間にして3年10ヶ月、回り持ちでレジュメを作って残してある。最後は意地で終わらせた感じではあったが、確かに完読した。現代では人気がなくなったとは言え、その考え方の一部は現代国家の政策にも採り入れられており、やはり名著として読み継がれる価値があると思った。
 私自身のまとめは別途作成し、第一巻については別ブログ「爺~じの哲学系名著読解」に26回に分割して各章毎に、第二巻については「爺~じの「本の要約・メモ」」に一度に、まとめてある。第三巻については一度にまとめて作成中。
 本書を一言で紹介しろと言われたら何と答えたら良いだろう。例えばこういうのはどうだろうか。マルクスは19世紀の西欧において起こっている社会の不幸を目の当たりにして、同じ人間達なのにどうしてこんなことになっているのだろうか、どうすれば良くなるのだろうか、と問い、人間の基本的営みである経済活動の研究を通してその答えを出そうとした。本書は、まず経済学の本である。しかし、富が生み出され、分配され、増殖し、また恐慌が発生して不幸が襲うという現象の説明には、当然のこととして、政治・社会の力関係を理解しなければならないし、将来の社会構想の一部分も述べなければならないことになるから、それらのことも本書には記述してあるが、そのまま現代には通用しないのはマルクスのせいではない。
 人間社会における経済活動は、生活に必要なものをつくり出してお互いに交換し合う(多くは貨幣を媒介して)人間活動の一つ、ということになるだろう。マルクス経済理論の根幹は、大きく捉えれば労働価値説と剰余価値説となる。前者は既に17世紀末頃からは西洋世界で一般に信じられている説なので基本的には新しい考えではないが、後者は、労働から生み出された価値のうち、一部が労働する人のものではなくて労働する人に賃金を支払って雇い入れる側の人びとの手に渡る仕組みとなっているのだ、という説。利子や地代などについても、上記の考えから、一言で言えば剰余価値の分け前として説明される。
 もう一つ、マルクスの考えには次のような前提があると思う。経済活動の生み出したものの内には価値というものが備わっていて、それが経済活動のいろいろな場面でいろいろな形態として目に見えるものとして現れてくる。例えば、商品、貨幣、支払手形、等々。そしてそれらには、元々備わっている価値とは別に、目に見えないある力が備わっている。資本と呼ばれるものである。この資本が社会的諸関係によって様々な形態をとりながら運動しており、そこには法則がある。つまり、一番基本にある概念としての商品に備わっている価値(価格はその表現)は、人が作りだした理念であって、言ってみれば哲学で昔から問題にして生きた、真・善・美のような類なのかも知れない。とすると、いくら科学の装いを纏っても、その部分に関しての経済学としての疑義は申し立てられそうだ。とても難しそうだけど。
 
 
 
 

2018年4月5日木曜日

4月5日(木) アインシュタイン『物理学はいかに創られたか』。これは哲学書である



本書は物理学の巨人アインシュタインと著名な物理学者インフェルトによって著されたものを1939年に石原純先生が岩波新書の上下二冊として訳されたものです。私は1966年に初めて読み、その後カントの『純粋理性批判』を読書中に、物理学の哲学的思考の推移を改めて追ってみたくなり再読した。本文は2004年に感想文として書いたものの改訂版です。
原著の序文には次のような一文が記されている。「私たちの目的とするところは、むしろ人間の心が観念の世界と現象の世界との関係を見つけ出そうと企てたことについて、その大要を述べてゆこうとする点にあるのでした。つまり世界の実在に対応するような観念を科学の名で案出してゆくところの原動力を示そうとしたのでした。」。科学の価値は、結果として得られる事実としての知識だけではなく、より本質的には哲学的な思考にあることが示されている。この本質を理解することなしに科学の知識だけを利用しようとするならば、人間という種は絶滅するだろう。
上巻は古典力学が中心に述べられている。力の概念と関係、運動の概念とガリレオの相対性、物質の属性としての重量質料(重さの指標)と慣性質料(動きやすさの指標)の統合、エネルギー伝達としての波動の概念と力学の関係、何故エーテル(空間を満たしている仮想の実体)という奇妙な概念の導入がなされたか、などなど。それら全てにわたり、自然に対する認識には哲学的思考が必要とされていたことが理解できる。
人が対象を認識するにはその対象を良く観察して本質を洞察することがなにより重要だが、ただ漫然と観察したり想像してみただけでは何も見えてこない。観察したり推論したりするその意識の方向が定まり関心の密度が濃くなっていくことが必要となる。それを可能ならしめるのは、思考実験と論理的に矛盾しない理論的仮説つまり人間の精神が生み出す創造物、及びその仮説の実証行為であると思う。実証行為には必ず条件、例えば実証するための道具(例えば望遠鏡)の種類や性能、数学や計算速度、もっと広くいえば経済力や人間の教育、等々が変化(科学対するそれは進歩と捉えられることが多い)するのだから仮説と実証という人間の営みは果てしなく続く。
下巻は、相対性理論と量子論について語られている。慣性系(普通、人が感じ取っている生活空間における運動を理解するにはこれで十分)における特殊相対性理論が時間と空間が関係していること、つまり、運動しているものは時間の経過が長くなり空間の距離が短くなることが示される。物質とエネルギーの同一性も呈示される。一般相対性理論が慣性系という座標から開放され、ニュートン物理学を完全に包括し、座標に関係のない物理学理論を構築する。日常の世界から離れて、世界の始原と果てに対する問いへの科学的探究がここから飛躍する。エネルギーと物質が等号で結ばれ、物質を構成する究極の構成単位への問いにはエネルギーについてのそれと等号で結ばれ、量子論がその問いに対する科学的探究を飛躍させる。
現代において人びとの日常生活を一変させている人工的な物質や莫大な量のエネルギーや時空を越えた交通・情報伝達サービス等々は、これらの科学およびその応用である技術の結果に依っている。しかしこれらの結果を生んだ科学についての哲学的問いの動機は、せいぜい好奇心ぐらいだろうとしか一般には理解されていないようだ、つまり結果には注目するが根拠には興味が無い。科学に対する好奇心が他のものに対するそれに比べてとても強かったから科学がこれだけの力を持つたわけではないだろう。
精神的存在としての人間は、「観念の世界と現象の世界との関係を見つけ出そうと企てる」ものなのだ、という著者らの洞察は哲学的本質を突いている。そして、世界の始原と果てに対する問い、物質を構成する究極の構成単位への問い、は今でも最先端の科学研究として続いており今後も果てしなく続くだろう。しかし、これらの究極の問いには答えはないことは18世紀末にカントによって著された純粋理性批判に記述されている(アンチノミー)。だが、ここで重要なのは、その「答え」とは何であるのかと、という問いの意味だろう。自然に対するその問いは、人が何かを、例えば世界の果てや究極の物質、を認識するという意味は何であるかという問いに包括される。