自己紹介

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1946年9月、焦土と化した東京都内にて、食糧難と住宅難と就職難の中、運良く生き抜いた両親の新しき時代の一発目として生を受けるも、一年未満で感染症にて死にかける。生き延びたのは、ご近所に住む朝鮮人女性のもらい乳と父親がやっと手にした本の印税全部を叩いて進駐軍から手に入れたペニシリンのおかげであったらしい。ここまでは当然記憶にない。記憶になくても疑えないことである。 物心がついた頃には理系少年になっていた。それが何故なのか定かではないが、誤魔化しうるコトバより、誤魔化しえない数や図形に安堵を覚えたのかもしれない。言葉というものが、単なる記号ではなく、実は世界を分節し、意味と価値の認識それ自体をも可能にするものであることに気付きはじめたのは50歳を過ぎてからであった。 30年間程の企業勤めの後、現在は知の世界に遊ぶ自称哲学徒、通称孫が気になる普通の爺~じ。ブログには庭で育てている薔薇の写真も載せました。

2018年4月5日木曜日

4月5日(木) アインシュタイン『物理学はいかに創られたか』。これは哲学書である



本書は物理学の巨人アインシュタインと著名な物理学者インフェルトによって著されたものを1939年に石原純先生が岩波新書の上下二冊として訳されたものです。私は1966年に初めて読み、その後カントの『純粋理性批判』を読書中に、物理学の哲学的思考の推移を改めて追ってみたくなり再読した。本文は2004年に感想文として書いたものの改訂版です。
原著の序文には次のような一文が記されている。「私たちの目的とするところは、むしろ人間の心が観念の世界と現象の世界との関係を見つけ出そうと企てたことについて、その大要を述べてゆこうとする点にあるのでした。つまり世界の実在に対応するような観念を科学の名で案出してゆくところの原動力を示そうとしたのでした。」。科学の価値は、結果として得られる事実としての知識だけではなく、より本質的には哲学的な思考にあることが示されている。この本質を理解することなしに科学の知識だけを利用しようとするならば、人間という種は絶滅するだろう。
上巻は古典力学が中心に述べられている。力の概念と関係、運動の概念とガリレオの相対性、物質の属性としての重量質料(重さの指標)と慣性質料(動きやすさの指標)の統合、エネルギー伝達としての波動の概念と力学の関係、何故エーテル(空間を満たしている仮想の実体)という奇妙な概念の導入がなされたか、などなど。それら全てにわたり、自然に対する認識には哲学的思考が必要とされていたことが理解できる。
人が対象を認識するにはその対象を良く観察して本質を洞察することがなにより重要だが、ただ漫然と観察したり想像してみただけでは何も見えてこない。観察したり推論したりするその意識の方向が定まり関心の密度が濃くなっていくことが必要となる。それを可能ならしめるのは、思考実験と論理的に矛盾しない理論的仮説つまり人間の精神が生み出す創造物、及びその仮説の実証行為であると思う。実証行為には必ず条件、例えば実証するための道具(例えば望遠鏡)の種類や性能、数学や計算速度、もっと広くいえば経済力や人間の教育、等々が変化(科学対するそれは進歩と捉えられることが多い)するのだから仮説と実証という人間の営みは果てしなく続く。
下巻は、相対性理論と量子論について語られている。慣性系(普通、人が感じ取っている生活空間における運動を理解するにはこれで十分)における特殊相対性理論が時間と空間が関係していること、つまり、運動しているものは時間の経過が長くなり空間の距離が短くなることが示される。物質とエネルギーの同一性も呈示される。一般相対性理論が慣性系という座標から開放され、ニュートン物理学を完全に包括し、座標に関係のない物理学理論を構築する。日常の世界から離れて、世界の始原と果てに対する問いへの科学的探究がここから飛躍する。エネルギーと物質が等号で結ばれ、物質を構成する究極の構成単位への問いにはエネルギーについてのそれと等号で結ばれ、量子論がその問いに対する科学的探究を飛躍させる。
現代において人びとの日常生活を一変させている人工的な物質や莫大な量のエネルギーや時空を越えた交通・情報伝達サービス等々は、これらの科学およびその応用である技術の結果に依っている。しかしこれらの結果を生んだ科学についての哲学的問いの動機は、せいぜい好奇心ぐらいだろうとしか一般には理解されていないようだ、つまり結果には注目するが根拠には興味が無い。科学に対する好奇心が他のものに対するそれに比べてとても強かったから科学がこれだけの力を持つたわけではないだろう。
精神的存在としての人間は、「観念の世界と現象の世界との関係を見つけ出そうと企てる」ものなのだ、という著者らの洞察は哲学的本質を突いている。そして、世界の始原と果てに対する問い、物質を構成する究極の構成単位への問い、は今でも最先端の科学研究として続いており今後も果てしなく続くだろう。しかし、これらの究極の問いには答えはないことは18世紀末にカントによって著された純粋理性批判に記述されている(アンチノミー)。だが、ここで重要なのは、その「答え」とは何であるのかと、という問いの意味だろう。自然に対するその問いは、人が何かを、例えば世界の果てや究極の物質、を認識するという意味は何であるかという問いに包括される。