自己紹介

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1946年9月、焦土と化した東京都内にて、食糧難と住宅難と就職難の中、運良く生き抜いた両親の新しき時代の一発目として生を受けるも、一年未満で感染症にて死にかける。生き延びたのは、ご近所に住む朝鮮人女性のもらい乳と父親がやっと手にした本の印税全部を叩いて進駐軍から手に入れたペニシリンのおかげであったらしい。ここまでは当然記憶にない。記憶になくても疑えないことである。 物心がついた頃には理系少年になっていた。それが何故なのか定かではないが、誤魔化しうるコトバより、誤魔化しえない数や図形に安堵を覚えたのかもしれない。言葉というものが、単なる記号ではなく、実は世界を分節し、意味と価値の認識それ自体をも可能にするものであることに気付きはじめたのは50歳を過ぎてからであった。 30年間程の企業勤めの後、現在は知の世界に遊ぶ自称哲学徒、通称孫が気になる普通の爺~じ。ブログには庭で育てている薔薇の写真も載せました。

2023年12月7日木曜日

ジュディス・バトラー『分かれ道 ユダヤ性とシオニズム批判』の摘み読み感想文

ベルサイユの薔薇
 本書は、哲学的サークル「わっちらす」の第85回定例読書会のテキストとして担当の方が選定したもので、全部で500頁もある。そのため、当日彼女が取り上げた章は「はじめに」を含めて四つ(はじめに、一章、五章、六章)。私の通読した部分もこの箇所だけ。この感想文は、彼女の素晴らしいレジュメの助けを借りて書くことが出来た。

著者は1956年生まれのユダヤ人哲学者で、特にフェミニズムの領域では著名であることは知ってはいたが、今回はじめてその思想に触れてみて、またちょっと無知を埋めることが出来た。折しも、パレスチナで勃発したハマスとイスラエルとの悲惨な戦闘という現実が、「どうしてこんなことになるのだろう」という問いを発生させていたことも、本書読む動機を強めていた。

印象的であった著者のテーゼを私風に書いてみると「ユダヤ性はシオニズムというイデオロギー批判を可能にする」というものだ。この言葉は著者のオリジナルではなく、特にサイードやアーレントの思想を取り入れて発展させているように見える。そして、この発展は時代の現実が要請するものだろう。この現実とは、ナチスのホロコーストが契機となり、西欧近代がパレスチナの地にイスラエルという人工的国家を出現させたことだろう。人は地上で共存するほかはなく、誰と共存するかは選べず、その現実は国家という理念より前にあったのだが。ユダヤ人のディアスポラ(離散)という歴史は、国家より先にあった現実だった。ナルホド。ずっと積ん読になっているアーレントの『全体性の起源』を読破してみるか。