自己紹介

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1946年9月、焦土と化した東京都内にて、食糧難と住宅難と就職難の中、運良く生き抜いた両親の新しき時代の一発目として生を受けるも、一年未満で感染症にて死にかける。生き延びたのは、ご近所に住む朝鮮人女性のもらい乳と父親がやっと手にした本の印税全部を叩いて進駐軍から手に入れたペニシリンのおかげであったらしい。ここまでは当然記憶にない。記憶になくても疑えないことである。 物心がついた頃には理系少年になっていた。それが何故なのか定かではないが、誤魔化しうるコトバより、誤魔化しえない数や図形に安堵を覚えたのかもしれない。言葉というものが、単なる記号ではなく、実は世界を分節し、意味と価値の認識それ自体をも可能にするものであることに気付きはじめたのは50歳を過ぎてからであった。 30年間程の企業勤めの後、現在は知の世界に遊ぶ自称哲学徒、通称孫が気になる普通の爺~じ。ブログには庭で育てている薔薇の写真も載せました。

2022年3月5日土曜日

3月2日(水) 『ぼくが遺骨を掘る人「ガマフヤー」になったわけ』 具志堅隆松 著 2012年

ピース
 本書を知る契機は 三月後半に沖縄旅行を計画しているときでした。沖縄では太平洋戦争末期の1945年3月末から3ヶ月ほどの間に日米両軍による地上戦が行われました。戦死者は日本の戦闘員は9万人程、米国の上陸戦闘員1万2000人、そして民間人が15万人以上といわれています。因みに、日本軍兵力は10万人(内2万人は臨時要員)、上陸した米軍兵力18万人、当時の沖縄県の人口は59万人位でした。

 民間人がこれほど多いのは、沖縄県に配属された日本軍の目的が、日本国民である沖縄の住民の命を守るためではなく、沖縄という場所と住民の労働力を、次に予想される日本本土への米軍の侵攻を止める手段として利用することであったからでしょう。

 日本軍は島の南部の首里に頑強な地下本部を設置し、各地に抗戦の陣地を築きました。そして足手まといになる住民達を島の最南部へと移住させ、圧倒的な物量をもって中央部西海岸に上陸してきた米軍と、絶望的な戦いを行いました。そして最後は、首里の本部を放棄し、最南部へと追い詰められて殆どの兵力を失って敗北しました。

 島の南部に移住させられた住民達は、はじめは自然洞窟内(ガマ)に待避していましたが、敗走してきた日本軍が移動してくるとガマは要塞陣地の代わりとなり、住民はガマの中で兵隊と混在したり、外に追い出されたりしました。その結果、戦闘に巻き込まれて多くの住民がそこでも亡くなりました。

 沖縄出身の著者は、沖縄戦死者の遺骨を1982年以来30年間掘り続けている。遺骨が特定されて家族の元に帰ることを願って。しかも、その殆どの時期は1人で。ボランティアの協力によって行われた遺骨収集事業が那覇市の共催で行われたのは2008年。その名も「平成20年度那覇市平和事業 那覇市真嘉比地区・市民参加型遺骨収集」。本書には著者が遺骨収集で経験してきた、リアルな死が物語る諸事実が記述されている。その内容はここには記載しないが、その代わり、冒頭の「読者の皆様へ」に書かれている文章の末尾を以下に転載します。

「若い人たちに伝えたいことがあります。これからの長い人生、力の強い者についていくのではなく、弱い者に寄り添い、ともに歩んでください。それが社会がよりよくするだけでなく、人生をきっと充実したものにしてくれるはずです。」2012年8月 具志堅隆松