自己紹介

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1946年9月、焦土と化した東京都内にて、食糧難と住宅難と就職難の中、運良く生き抜いた両親の新しき時代の一発目として生を受けるも、一年未満で感染症にて死にかける。生き延びたのは、ご近所に住む朝鮮人女性のもらい乳と父親がやっと手にした本の印税全部を叩いて進駐軍から手に入れたペニシリンのおかげであったらしい。ここまでは当然記憶にない。記憶になくても疑えないことである。 物心がついた頃には理系少年になっていた。それが何故なのか定かではないが、誤魔化しうるコトバより、誤魔化しえない数や図形に安堵を覚えたのかもしれない。言葉というものが、単なる記号ではなく、実は世界を分節し、意味と価値の認識それ自体をも可能にするものであることに気付きはじめたのは50歳を過ぎてからであった。 30年間程の企業勤めの後、現在は知の世界に遊ぶ自称哲学徒、通称孫が気になる普通の爺~じ。ブログには庭で育てている薔薇の写真も載せました。

2018年2月28日水曜日

2月28日(水) フッサールの哲学は、哲学を端的に知るのに最良の哲学

 3月3日から一泊二日で哲学合宿に行く。主なテーマはフッサールのイデーンⅠの講読だ。そこで2005年に書いた「イデーンⅠ」の冒頭に書かれている「あとがき」部分だけの要約を読んでみたら、改めて題記のことが思い起こされた。「イデーンⅠ」という本は普通読んでもわからないが、この「あとがき」部分は、哲学って何だろうと思った人には誰にでも、何となくわかったような気分を生じさせてくれる。この部分の要約は別ブログに掲載した。

 哲学の意味をもっともわかりやすく書いてある名著が最近出版された。といっても哲学の解説書ではない。従来の哲学を一歩踏み越えて著者が提示した哲学書だ。竹田青嗣著『欲望論 第一巻「意味」の原理論』『欲望論 第二巻「価値」の原理論』がそれだ。二冊で厚さ9cmもある大著だが、いつか別ブログにその要約をアップロードしたいとは思っている。

2018年2月19日月曜日

2月19日(月) カント『純粋理性批判』の感想文

『純粋理性批判』の「名著読解」が、遅々として進まず何時できるか判らないので、2008年に書いた感想文を改訂して掲載した。


カクテル
『純粋理性批判』には、ものごとを認識するとはどういうことなのかという問いに対するカントの答えが述べられている。その概要は次のようなものだ。

まず認識には対象があるのだが、その対象の認識は、アプリオリに(経験に先だって、先験的に、生まれつきに)人間に与えられている二つの能力、すなわち感性と悟性によって可能となる。感性は経験がもたらすものによって機能し、悟性は感性がもたらすものによって機能するのだが、人間はもう一つ理性という能力を持っている。理性は、経験を越えて推理するという性質を持っている。

対象の認識は以上のようになされるのだが、対象そのもの自体(物自体)が何であるのかは決して知ることはできない。あくまでも人間のアプリオリな感性や悟性を通したものとしてしか認識できないからである。

感性により与えられた(即ち五感を通じた経験によって与えられた)素材を概念として認識する形式はアプリオリに与えられており、純粋悟性概念(カテゴリー)と名づけられる。悟性の形式は、量、質、関係、様態に区分される。多様な概念が個人の中で総合される形式はアプリオリに与えられてあり、それは純粋統覚と名づけられる。

理性は、カテゴリーの適用する範囲を経験の外にまで拡張して、ある対象を認識することを我々に要求する。理性は、カテゴリー毎の最も根源的問いに対して相反する命題を成立させる。つまり、理性は根源的な問いに対して相互に矛盾する答えを推理することになる。ここれをアンチノミーと言う。根源的な問いとそのアンチノミーは四つある。世界の始まりと果てについての問い、物を構成している根源に対する問い、因果関係の根源に自由が存在するかどうかという問い、世界の原因としての必然的存在者の有無に対する問い、である。問いの答えとしては、前二者は両方とも誤りで、後の二者は両方とも正しいとしている。その理由は、我々が認識できるのは物自体ではなく現象であるからだという。

カントの認識論の理論的枠組みは画期的なもので相当説得性があると思う。しかし、認識対象が自然ではなくて人間の場合には、本書とは別の『実践理性批判』(善悪、倫理、道徳がテーマ)と『判断力批判』(美醜がテーマ)で語られていることを併せて理解する必要があるのだろう。但し、これらの著作も本書によって構築された理論的枠組みを基盤にしているので、本書を読めば人間を対象とした問いに対しても、理性の推理を使って個人的に相当追い詰めることも出来るかもしれない。

 本書で特に面白いと思ったところは、アンチノミーの箇所であった。世界の始まりやその果てはあるのか、物体はそれを構成している最小単位から成るのか、という問いに対しては、「物自体」は決して認識できないのだから、根源的な問いに対する最終的な答えはないことになる。つまり、宇宙論や素粒子論などには最終的な答えがないことになる。しかしこのことは、人間にとって、自然科学の探究の意味を減じるのではなくてその意味を変容させるのだろう。生成の因果を遡ると自由と言う究極原因があるのか、世界の存在原理としての至上なものはあるのか、という問いは、知ることのできない「物自体」に対する問いではなくて、世界の「現象」に対する問いであり、自由や至上なもの(象徴的には神)に対する問いであって、ここから人間を対象として話が進んでいくことが可能になるのだろうと思う。こうなると、後世の哲学書や社会科学書を読むには、カントの本書は必読なのだ。

2018年2月12日月曜日

2月12日(月) ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』新潮文庫

4年ほど前に仲間の文学系読書会で読んだ時の感想文。
芳純:良い香りです

旧ロシア社会の分裂した実存を背景にして描かれた分厚い人間・社会洞察がすごい本だ。一言で言えば、150年程前のロシア事情を背景に置くことによって、人間存在の本質を鋭く抉り出した父親殺し推理小説仕立ての社会派小説。内容が分厚い上に多様なので、読むたびに新しい発見があり、その度に深く考えさせる小説だ。因みに今回は一回目の通読。

日本で言えば幕末の頃、ヨーロッパ後進地域のロシアでは、近代の形式を取り入れつつも、その社会実体は農奴と貴族に分裂し、精神は伝統的キリスト教に支配されていた。そのことは実存の分裂と後の共産主義革命の芽を育んでいたのだろう。欲望、良心、自尊心、嫉妬、絶望、希望、等々人間存在の本質の様々な側面が、親子、村落や宗教の共同体、男女、世代等の様々な関係から抉り出され、それがカラマーゾフ的と言うロシア社会の本質も抉りだしている。

ソ連の崩壊はカラマーゾフ的精神の復活で、ヨーロッパ近代への運動の続きかも。すると、昨今の日本の状況が思い浮かべられてきたりして、やはり優れた古典は、あらぬ想像もかき立てるものだ。