カクテル |
『純粋理性批判』には、ものごとを認識するとはどういうことなのかという問いに対するカントの答えが述べられている。その概要は次のようなものだ。
まず認識には対象があるのだが、その対象の認識は、アプリオリに(経験に先だって、先験的に、生まれつきに)人間に与えられている二つの能力、すなわち感性と悟性によって可能となる。感性は経験がもたらすものによって機能し、悟性は感性がもたらすものによって機能するのだが、人間はもう一つ理性という能力を持っている。理性は、経験を越えて推理するという性質を持っている。
対象の認識は以上のようになされるのだが、対象そのもの自体(物自体)が何であるのかは決して知ることはできない。あくまでも人間のアプリオリな感性や悟性を通したものとしてしか認識できないからである。
感性により与えられた(即ち五感を通じた経験によって与えられた)素材を概念として認識する形式はアプリオリに与えられており、純粋悟性概念(カテゴリー)と名づけられる。悟性の形式は、量、質、関係、様態に区分される。多様な概念が個人の中で総合される形式はアプリオリに与えられてあり、それは純粋統覚と名づけられる。
理性は、カテゴリーの適用する範囲を経験の外にまで拡張して、ある対象を認識することを我々に要求する。理性は、カテゴリー毎の最も根源的問いに対して相反する命題を成立させる。つまり、理性は根源的な問いに対して相互に矛盾する答えを推理することになる。ここれをアンチノミーと言う。根源的な問いとそのアンチノミーは四つある。世界の始まりと果てについての問い、物を構成している根源に対する問い、因果関係の根源に自由が存在するかどうかという問い、世界の原因としての必然的存在者の有無に対する問い、である。問いの答えとしては、前二者は両方とも誤りで、後の二者は両方とも正しいとしている。その理由は、我々が認識できるのは物自体ではなく現象であるからだという。
カントの認識論の理論的枠組みは画期的なもので相当説得性があると思う。しかし、認識対象が自然ではなくて人間の場合には、本書とは別の『実践理性批判』(善悪、倫理、道徳がテーマ)と『判断力批判』(美醜がテーマ)で語られていることを併せて理解する必要があるのだろう。但し、これらの著作も本書によって構築された理論的枠組みを基盤にしているので、本書を読めば人間を対象とした問いに対しても、理性の推理を使って個人的に相当追い詰めることも出来るかもしれない。
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