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1946年9月、焦土と化した東京都内にて、食糧難と住宅難と就職難の中、運良く生き抜いた両親の新しき時代の一発目として生を受けるも、一年未満で感染症にて死にかける。生き延びたのは、ご近所に住む朝鮮人女性のもらい乳と父親がやっと手にした本の印税全部を叩いて進駐軍から手に入れたペニシリンのおかげであったらしい。ここまでは当然記憶にない。記憶になくても疑えないことである。 物心がついた頃には理系少年になっていた。それが何故なのか定かではないが、誤魔化しうるコトバより、誤魔化しえない数や図形に安堵を覚えたのかもしれない。言葉というものが、単なる記号ではなく、実は世界を分節し、意味と価値の認識それ自体をも可能にするものであることに気付きはじめたのは50歳を過ぎてからであった。 30年間程の企業勤めの後、現在は知の世界に遊ぶ自称哲学徒、通称孫が気になる普通の爺~じ。ブログには庭で育てている薔薇の写真も載せました。

2022年2月12日土曜日

岩波講座 日本歴史 第15巻 近現代Ⅰ(2014/2/19)殖産興業政策の展開(神山恒夫)

 このシリーズは、その前のシリーズ「日本通史」の続編・改訂版として刊行された学術的出版物です。15~19巻で取り扱う近現代史については、そういう事情もあってこの「日本歴史」の方で少し詳細な読書メモとして別ブログに連載する予定ですが滞ってます。なので、とりあえず通読の上簡略化してこちらの読書日誌に書くことにしました。

 本メモは、著者の学術的な記述を元に私が「多分こういうことなのだろう」と解釈して、簡単に纏めたものです。

殖産興業政策の展開(神山恒夫)

芳純

 明治維新直後から、帝国議会開設(18901129日に大日本帝国憲法が施行されると同時に開設)間の20年ほどの間、旧封建社会が崩壊し、統一通貨すらなかったなかで進められた殖産興業政策の展開が記述されている。

 その進展は急を要し、政府内における権力争いが盛んななか、政策は年・月単位で刻々と変化していく。でも、統一国家としてのこの政策を遂行しなければならないという意思は揺るがずに進められた。その結果、近代的産業基盤を支える諸企業や金融システム、勧業諸会は、基本的機能と能力を持つに至った。


はじめに

本稿では、明治前期(明治維新-帝国議会開設)の殖産興業政策について、財政・金融政策全体の動向に留意しながら検討する。

 一 直接的勧業政策の重視

 1 明治初期の経済政策

明治維新直後に政府は直ちに殖産興業政策を開始したが、その積極基調の政策は、通貨制度等の経済基盤が未整備であったために、外国貿易も国内経済も目論見通りには進まず挫折した。

1871年の廃藩置県に伴い大蔵大輔に就任した井上馨は、通貨の混乱を解消して長期的な経済発展の基盤を整備するため、消極基調の政策を採り、緊縮財政を展開したが、財政収支均衡による歳出削減が政府内の反発を招き18735月に辞職を余儀なくされて、これも挫折した。しかし、この間においても勧農事業を含む殖産興業の方針は政府中枢組織によって優先的に進められた。

 2 大隈財政と内務省

井上に代わり財政・金融政策を担当した大隈重信は、貿易収支改善には民間産業育成と交通機関や金融制度の整備が必要であると考え、積極財政と通貨増発により積極基調の政策を推進した。大隈財政によって、常用部予算は18731月期歳出額の4600万円から1875年度では6800万円に急増し、財源不足となった1876年度予算は減額されたが、6300万円であった。

187312月に設立した内務省は、大久保利通内務郷のもとで殖産興業政策を実施した。18741月に、大蔵省の一部業務を引き継ぎ勧業寮が設置されたが、勧農政策範囲にある農産加工品が中心であった。12月頃には、勧業寮は新たな事業拡大を図るとともに、勧農寮を新設して組織的な生産、技術の自主的向上を図った。18755月、大久保内務郷は内務省の優先すべき政策構想を提示し、勧業寮の事業拡大や運営内容適正化を図り、民業奨励重視の殖産興業政策が本格的に展開された。

こうして、1876年度までは常用部予算、工部省予算、内務省勧業寮関係予算も拡大して行ったが、1877年に入ると、地租課税率の減額と西南戦争の勃発によって財政事情が悪化し、内務省と工部省との重複解消や事業組み替え等に加え、常用部予算も大幅減額で4900万円となり、殖産興業政策の予算も大幅減となった。

このような状況のなかで、18783月に内務省は、官営開発への華士族の転用、地方への殖産興業資金貸与を提案し、更に殖産興業政策に関する内務省と工務省の予算増額の要求があったため、18783月に起業公債の発行が決まった。

 二 間接的勧業政策への転換

1 大久保没後の政策転換と「勧農要旨」 

西南戦争後も大隈は積極基調-積極財政の積極財政方針を継続したので1880年度の最終予算額は6400万円に達した。ところがインフレが激しくなったので積極基調・緊縮財政方針に変更したのだが、1881年度常用部当初予算額は69000万円であった。

大隈財政末期では、直接的勧業政策の弊害と間接的産業政策への展開が課題となっていた。それが問題として浮上してきた直接契機は、1879年に松方が、殖産興業政策の当事者である勧農局長として示した方針「勧農要旨」だった。

18785月に大久保が暗殺されると、伊藤博文が内務郷になり、18802月に松方が内務郷に品川弥二郎が勧農局長に就任する。こうして大久保内務郷時代に重視された直接的勧業政策の縮小が図られ、間接的勧業政策に重点を置く殖産興業政策が推進された。

2 政策転換の実態

直接的勧業政策から間接的勧業政策への転換は、制度やその運営の不備、政府内の権力争い、財政難、治安維持の必要性、財政資金の民間貸し付けへの批判、等も絡み、個別にはさまざまな経過を辿った。特に、規模も大きく官業払い下げのさきがけとなる富岡製糸所払い下げが却下された件は典型例。

積極基調に基づく積極的な殖産興業資金の供給を維持するために金融機関の整備が模索された。商務局主導での前田正名による「帝国銀行」設立提案(18799月)横浜正金銀行による海外荷為替業務の開始(188010月)、正貨蓄積を重視する点で商務局と方針を異とする松方による「勧業銀行」設立提案など。

三 間接的勧業政策の定着

明治14年(1881)政変で松方が大蔵郷に就任すると、銀本位制を目指して消極基調・緊縮財政方針を取り、直接紙幣消却などで通貨収縮を図り、1882年に開業した日本銀行は銀行紙幣整理を担当したが兌換券発行はまだ実施できなかった。

緊縮財政は、紙幣整理と両立する範囲で運営され、軍拡・鉄道公債は認められたが、初期の収入分は国庫積立とされた。1885年に日銀の銀兌換券発行、翌年は政府紙幣の銀兌換が始まり、銀本位制が成立したことで、松方は積極基調・緊縮財政方針へ転換をした。このような中で、直接的勧業政策を縮小して間接的勧業政策に重点を置く殖産興業政策が定着してきた。

勧業・補助金など産業育成に対する財政支出は交通・通信などの限定し、官業払い下げや農商務省による生産者・商人の組織を通しての財政資金提供ではなく、日銀を中心とする金融機関の整備で対応する方針を取った。しかし、当初は兌換券発行ができない日銀は資金難に陥り金融疎通の効果は上がらなかった。

兌換制度が定着して金融市場が安定すると企業が勃興して資本主義化が本格化してきた。民間資金需要については、民間銀行が株式を抵当に資金を貸し付けることで、日銀は公債抵当金融を中心に国内民間金融を拡大することで対応した。

松方は日銀や民間銀行は短期商業金融に専念させ、長期金融は特殊銀行を設立する構想を持っていたので、日銀の抵当金融拡大方針には批判的であった。しかし、日清戦争で銀行設立が伸ばされたため日銀のこのやり方を認めざるを得なかった。

18893月に準備金による海外荷為替が廃止されたため、同年10月に横浜正金銀行に低利資金を供給して正貨で返済させることで、日銀は正貨貯蓄の責を負うことになった。こうして日銀が金融政策の中心となり財政と金融の分離が進行した。

官業払い下げは、民への条件が厳しく進まなかった。それは、財政資金回収が重視されたからであったが18847月の鉱山払い下げ決定と同年10月の概則廃止を契機に、官業の払い下げが本格化した。

官業は鉄道・電信・兵器などの限定した分野に対して拡充する方針であったため、188512月の内閣制導入に伴い工部省は廃止され、交通・通信を担当する逓信省が設立され(鉄道は内閣直属)、払い下げを受けた政商は鉱工業に進出して財閥に発展する基盤を獲得した。

勧農事業に関する間接的勧業政策は以下のような進展を見せた。1881年に設置された農商務省は地方の府県勧業課などを中心にして勧業諸会の拡充に努めるほか、188411月には、同業者の自主的な合意形成を前提にした恒常的組織として物産改良などを進める同業組合の設立に着手した。しかし実際には、同業組織は監督する府県の裁量権が大きなものにならざるを得なかった実情があった。方向は同じとしても、政府関与の程度に差が生じた。それでも、勧業諸会・商人組織は進展し在来技術改良に効果を上げていた。

前田商務局長35歳)は、間接的勧業政策を進めるべく1885年1月に農商務省改革に着手しこれの手段として興業銀行設立も企画したが、12月に非職となった。直輸出奨励・在来産業育成を重視ていた前田は、正貨蓄積を優先する松方とは興業銀行設立の基本にある金融政策に齟齬があったのである。