自己紹介

自分の写真
1946年9月、焦土と化した東京都内にて、食糧難と住宅難と就職難の中、運良く生き抜いた両親の新しき時代の一発目として生を受けるも、一年未満で感染症にて死にかける。生き延びたのは、ご近所に住む朝鮮人女性のもらい乳と父親がやっと手にした本の印税全部を叩いて進駐軍から手に入れたペニシリンのおかげであったらしい。ここまでは当然記憶にない。記憶になくても疑えないことである。 物心がついた頃には理系少年になっていた。それが何故なのか定かではないが、誤魔化しうるコトバより、誤魔化しえない数や図形に安堵を覚えたのかもしれない。言葉というものが、単なる記号ではなく、実は世界を分節し、意味と価値の認識それ自体をも可能にするものであることに気付きはじめたのは50歳を過ぎてからであった。 30年間程の企業勤めの後、現在は知の世界に遊ぶ自称哲学徒、通称孫が気になる普通の爺~じ。ブログには庭で育てている薔薇の写真も載せました。

2020年12月25日金曜日

12月25日 『バッタを倒しにアフリカへ』前野浩太郎著 2020 光文社新書kindle版

新雪
 子どもの頃にファーブル昆虫記に魅せられてそのまま博士になった学者が、研究と生活維持のためにアフリカのモーリタニアという国の研究所で、バッタ(農作物を全滅させる例のイナゴのことかな)のフィールド研究をする顛末記。

とにかく好きなことをする場合はどんな苦難があろうともそれを楽しくしてしまうと言う原理に則って、日本では信じられないような出来事が日常茶飯事の国において、いつどこで発生するかわからないバッタを捕獲網を片手に追いかけている博士達の日常は、事前の計画とは無関係な偶然に支配される世界、バッタと一緒に生きている砂漠の世界、現代では殆ど失われた驚きと喜びの世界なのである。

もちろん研究目的は農作物の被害を防ごうという崇高なものではあるが、だから公的世界から少々の金銭を得ることが出来るのだが、博士はなぜかバッタが大好きで、おまけに自分を含めた人間が大好きなのであって、むしろそっちが大切なのだ。だからやけに楽しそうなのである。アフターコロナの世界に生きる人の生き方を指し示す本かも。本書の推薦人は哲学や歴史の会の仲間で、落語とジャズとダイビングが好きなキザな爺さん。面白かったよ。

2020年12月20日日曜日

12月20日 『2030年ジャック・アタリの未来予測』(ジャック・アタリ)2017年 kindle版

ピース
  フランスの知の巨人と言われ、ミッテラン大統領以降フランス政権の中枢で重要な役割を担っているといわれている経済学者・思想家・作家であるそうな(wikipedia)ジャック・アタリが2017年に書いた近未来予測の本。

 昔から未来予測は沢山あるので、今から見れば当たり外れがあることはわかっているが、なぜ当たり外れがあるのかはあまり考えたことがない。その手の本をどうして読んだのかについての感覚の記憶を辿ると、予測の理由を知りたいからで結論を知りたいからではなかったようだ。そこで今回はどうかというと結論は以下。

 本書で述べていることの結論は、世界の人びと(とりあえず近代国家的な国民)が利己主義ではなくて利他主義こそお互いのためであることを理解し合ってそれを行動に今すぐ移さないと、2030年!に人類は滅亡する(ような状況が現実化する)、というものである。結構早いのでびっくりするが、この結論に対する感覚には共鳴する。近代になってから二回も世界大戦をして、もう止めようと先進国が合意していろいろか国際機関を作ったりしたたけど、国際社会の状況は変化してそれらの秩序が崩壊してきた現実を直視すればそうなる。

 ではなぜそう言えるのか?については、さすが知の巨人だけあって沢山記述してあって、問題意識は完全に一致し、内容については全然検証していないが基本的に同意できると感じている。資本主義と民主主義に基づいた政治社会構造の行き詰まり、地球資源・環境問題、科学技術のトンデモナイ知の集積のもたらす可能性、先進国群への途上国の急激な参入問題、等々。で、なぜ2030年なのかは、なんとなくナットクする感覚。本書が書かれた時点ではcovid-19問題は出現していないが、この問題が出現してきて益々納得感が増している。

 2030年に滅亡しないための方策は根拠を示して沢山挙げられているのだが根本思想は次のようなものである。まずは、人間が作っている社会の問題は人間自身が解決するほかはなく、その可能性を追求する合意が前提される。それには問題点を共有して解決しようと思わねばならないだろうが、それは強制されるのではなく自分でそう思わねばならない。だから根本思想はこうなる。「現代において自己主義に基づいて自分だけ生き残ると考えても無駄であるという事実を先ず認識しあって、そうかといって自分が大切にされていない世界に生きたいとは考えられないのが人間であることも認識し合って、お互いに利他主義にもとづいた社会を作り合うこと」だ、と。

2020年11月30日月曜日

11月30日 『性欲の科学』オギ・オーガス他著 2012年(kindle版)

ベビーロマンチカ
  人間の性行動について、ホントのところどんなものなのだろうか、という興味はホモサピエンス誕生以来存在したのだろうが、それがホント=客観=科学的、という観念から研究して文字に書き起こされて公表されたもので著名なのは、アメリカの医者Alfred Kinseyが1948年に発表した「キンゼイレポート」だろう。

 しかし、それから70年以上経た今日では、その種の研究手段がインターネットによって与えられたことでより客観的・科学的(ポルノサイトの種類や利用者毎のアクセス数統計など)に可能になった。なるほど、で、その結果は? あらかた予想通りで、特に画期的な状況が見つかったわけではないが、そのこと自体に意味あるという人もいるだろう。私の場合は大して意味を持たなかったのだが。

2020年11月21日土曜日

11月21日(土) 新型コロナウイルスについて少し勉強してみた

芳純
  COVID-19の第三波が襲ってきて、改めてこの感染症について知りたいと思い、『新型コロナウイルス 脅威を制する正しい知識』(水谷哲也著 東京化学同人 2020/5/19)を読んでみた。結果としては主に知識の確認ではあったが、自然科学的知識だけではなくて社会・経済的観点も含めた幅広い視点からの解説によって、改めてこの新型コロナが人類にもたらす影響を考えさせられた。

 最も根本的影響は人間の生き方に係わるもので、それは生命をもつ存在としての人間は他の生命と同じ存在であるということを嫌でも認めねばならない時代になっていると言うことだろう。人間だけが特権的に他の生き物を抹殺できると考えるのは間違っている、と。同じ人類同士が殺し合っている場合ではないことに気づかねばならない。

 人間だけが特権的にもっていると思っている理性は、今こそそれに気づかねばならない。人間に有害なウイルスだけを抹殺することは原理的に出来ないのだ。付け加えれば、一見それが出来たように見えたとしても、そのような生き方を変えないかぎり、この抹殺する作業だけが生きることと同義となってしまうのだ。簡単に言えば、ウイルス疾患は身から出た錆なのだ。

2020年10月25日日曜日

10月23日(金)『チェンジング・ブルー 気候変動の謎に迫る』大河内直彦 岩波現代文庫

ハニーブーケ

  大河内さんの著作で読んだのはこれで三冊目となるが、他の二冊は既にこのブログで紹介している。本書は2008年初出で第25次講談社科学出版賞を受賞している(岩波現代文庫版は2015年)。今回のテーマは書名の副題にあるように「気候変動の謎に迫る」というもので、サイエンスライターとしての著者の主著と言えるだろう(大内さんの本業は学者です)。後に出された二冊は、地球科学に対するもう少し広い領域についてその概要が記されているので、本書を補うための良い参考書になっているともいえる。

 大河内さんの本を読もうとしたもともとの動機は、最近の地球科学の進展具合をやさしく知りたかったためであったのだが、書評サイトHONZ代表の成毛眞氏(元マイクロソフト日本社長)が本書の解説で、著者をサイエンスライターとして激賞しているように、科学的事実や方法だけではなく、そこに至る背景、個人としての科学者が事実を追求するために行う信じがたいほどの生真面目さだけではなく、他者との関係としての人間的エピソードなども挿入されていて、人間の営みとしての科学という側面でも面白い読み物となっている。

 本書の内容については気が向いたら別ブログ(爺~じの本の要約)に纏めておこうかと思っているので省略するが、一言でいってみると、「気候変動の要因については、ここ半世紀ほどの研究によって格段に理解が進んできた。その主な動機は科学者達の探究心に加えて地球環境問題に対する懸念であり、理由は科学技術力と経済力の向上に基づいて可能となったデータの蓄積と高い解析能力にある。分かってきたことのなかで、特に重要なことは、気候変動に人類の活動が関与していることはもはや疑えないこと、気候変動に要する時間は数千年ではなく数十年で十分であったということ、であろう。」本書の記述ではないが、地球史的に見れば、気候変動が数多の生物絶滅をもたらしたことは化石に記録されている。

 付記すると、『地球史が語る近未来の環境』(日本第四期学会、東大出版2007/6)という本があって、2007/6に読んだのだが、今でもこのテーマについて一般人が科学的事実を理解するためにはベストな本だと思っている。サイエンスライター的には書いてないので一般読み物としては取り憑きにくいが、一般人に向けて第四期学会の専門家の人たちが、当時の町田洋会長の下で分担して書いた本なので一読に値する(第四期学というのは、ここ200万年くらいを取り扱う、地球の現代史あるいは人類時代を研究する学問)。因みにこの本は、大河内さんの本書にも、より深く理解するためにと採り上げられている本の一冊に含まれていた。


2020年9月12日土曜日

9月12日(土)『地球のからくりに挑む』大河内直彦著(新潮選書)

  本書の目的は、エネルギー問題を考え直すことだと「まえがき」に書いてあります。環境・エネルギー問題は半世紀ほど前から世の中で認識されはじめて、多くの研究や著作がなされ、国際的なルール設定も試みられていますが、著者が1966年生まれの地球科学者であるということなので、面白そうなところをアレンジしながら手短に纏めてみました「」は本文引用。私の補足や考えなどは(⇒ )で書きました。

ハワイ島の夕日

第1章 地球の定員

 地球上には数千万種の生き物が暮らしているけど、生態学的に見れば、太陽エネルギ-を先ず植物が光合成によって固定し、その植物を草食動物が食べ、草食植物を動物が食べて命をつないでいる。その生命の輪の中の一つの種である人類だけで、そのうちの0.7%を摂取するのは過大でしょうね(⇒過大の説明が必要なことは承知の上で)。現実の世界人口は、人間が開拓してきた農耕地の生産量で規定されている(⇒人間自身で規定している)。

第2章 窒素固定の魔術

 科学技術の知識によって窒素肥料をアンモニア合成で大量に作ることに成功しなければ、現在の世界人口は30億人くらいだろうと言われている。アンモニア合成工場の稼働に必要なエネルギーは大型原発150基分に相当する。食料生産にも莫大なエネルギーが必要となる。

第3章 エネルギーの現実

 世界のエネルギーは、大雑把に言えば80%以上が石油・石炭・天然ガスといった化石エネルギーで占められていて、残りが原子力及び水力などの自然エネルギーとなっている。

第4章 化石燃料と文明

 近代文明は近代科学技術によって支えられ、その科学技術を駆動するエネルギーは主として化石燃料である。

第5章 人工燃料の時代

 液体である石油は固体である石炭よりも、使い勝手が良い。特に兵器の動力源としてはこの差は決定的となる(飛行機の例は分かりやすい)。だから、石油のない国では石炭のガス化や液化が大事な技術開発テーマとなった時代があった(⇒石炭は採取可能量としては圧倒的に多いのは今でもそうだろう)。

第6章 大論争の果て

 石油の由来は有機物か無機物かという論争に決着が付いたのは比較的最近(1970年以降)で、地質学者と天文学者達の間での感情的な対立をはらみながらも、証拠を出し合って対話を続けた結果だった。そしてその証拠とは、微量な元素の同位体分析などの先端技術が進んだことによって得られたものであった。18世紀には有機説、19世紀には無機説が唱えられたが、何れも仮説に過ぎなかった。現在は有機説が正しいと理解されているのだが、この結果だけに注目すると見えるものも見えなくなる。というのは、実は2011年時点においては少量だが無機成因の天然ガスや石油も存在することも認識されている。

第7章 赤潮の地球

 石油は今から一億年ほど前に、100万年ほどかけて海底に積もった有機物のヘドロが熟成されて出来たものだった。このヘドロが長い時間をかけて固まったのが「黒色頁岩」(コクショクケツガン)で、これに水を加えて酸素を絶って300℃で煮ると石油が出来る。このヘドロは、シアノバクテリアというプランクトンの異常繁殖によって生じた赤潮で、それは今でも起こっている(赤潮は、紅海という名前の由来)。生き物であるプランクトンは必ず死ぬから、その死骸はバクテリアによって海中の酸素を使って分解される。だが、死骸が多すぎると海中酸素が消費し尽くされて分解されずにヘドロとなって海底に沈積する。一億年前に発生したこの事件は「海洋無酸素事変」と呼ばれている。この事変をもたらしたのは、突如として発生した桁外れに大規模な噴火活動であった。それは太平洋の真ん中にある「オントン・ジャワ海台」として残っている。この噴火による海の環境の変化は、海面付近の生態系に大きな変化をもたらし、多くの生物が死滅し、その結果シアノバクテリアが異常繁殖したのだ。

 本章では、この「オントン・ジャワ海台」を形成した桁外れに大規模な噴火活動についての説明がかなり詳しく述べられている(⇒というのはこの噴火活動の原因は、現在見られる火山の噴火活動とは違って、今そのようなことが起これば人類文明に壊滅的打撃を与えることは必定に思えるほどの、地球史上の凄まじい現象の一つだったからだろう)。それは、地球のはるか深部から直径数千キロメートルの熱を帯びた物質(マントルプルームと呼ばれている)が、マントルの中をゆっくりと湧き上がってきたことが原因であった。類似の現象の痕跡は地球上の多くの場所で見ることが出来る。マントルプルームが地球の薄皮のような表層に到達すると、そこにある地殻物質を沢山溶かして(⇒ここは、岩石成分と水の化学反応の知識が必要)マグマを生じさせ、桁外れに大規模な噴火活動が発生したのだ。その際には、地球が形成されてから長らく地球の深部に閉じ込められていた物質が噴出した(⇒マントルの主成分であって地殻にはないカンラン岩と一緒に出てきたのだろう)。それらの物質が地球に及ぼした影響の痕跡や、その物質の分析から新たな発見がなされている。例えば、黒色頁岩にほんのわずかに含まれる鉛やオスミウムの同位体比は地表のそれとは違っていた。つまり、黒色頁岩が、地球という星の内部に長らく閉じ込められていた宇宙のかけらの成分元素もふくんでいることの証なのだ。炭素もその一つで、例えば、当時の地球が南極や北極も森林で覆われるほど(⇒地質学的証拠は沢山あるのだろう)温暖化した原因は、地球の深部から放出された莫大な二酸化炭素にあるのだろうと推定されている。

第8章 石炭が輝いた時代/第9章 燃える水 は省略

第10章 炭素は巡る

 地球と宇宙の間では、エネルギーについては開放系(太陽の輻射熱と宇宙への熱放射)だが物質については閉鎖系(隕石は除く)だ。大気を含めた地球の中で循環している主な物質は、二酸化炭素と有機物と酸素と水で、これらは、地球サイクルと生物サイクルの二つのサイクルで循環している。と同時に、この二つのサイクルの間には、二つの架け橋がある。火山活動と堆積岩の地中への取り込みだ。そして人類はもう一つの橋を架け、自らの生存を脅かす環境を作り上げていると言える。

 地球サイクルから生物サイクルへは、火山の噴火による地中からの二酸化炭素の噴出がある。生物サイクルから地球サイクルへは、バクテリアの分解を受けずに固化した有機物由来の堆積岩の地球内部への取り込みがある(プレートの運動に伴って)。人類によるもう一つの架け橋は化石燃料の採掘と燃焼だ。このもう一つの架け橋は、生物サイクル内での物資バランスに変調をもたらし、人類の視点から見れば不都合な現象を生じさせている。つまり大気中の二酸化炭素の増加による温暖化だ(⇒より本質的な不都合は気候変動)。因みに、大気中の二酸化炭素の増加とともに、酸素濃度は年間3ppmずつ減っているのも当然の帰結言える(⇒バクテリアは酸素を使って有機物を分解して二酸化炭素と水にするから、水になった酸素分だけ減ることになる)。1万年後に人類の脳が酸欠状態になる前に電気エネルギーで水を電気分化すれば良いとしても。

 いずれにせよ、大増殖したヒトが地球の自然な営みを攪乱していることには違いはない。問題の本質が、「私達人類の活動」にあることは明白な事実である。

第11章 第三の火

 第三の火とは原子力のこと(⇒第一の火は燃焼、第二の火は電熱線の発熱などのこと。ここでは原子力発電の内容や今日的課題の記載は省略して、それとは関係がないけど地球化学的に面白かった部分を、一点だけ抜粋して記載した)。

 地球内部に由来するエネルギーは、46億年前に宇宙のかけらが衝突を繰り返すことで貯められた熱エネルギーの他に、その時に閉じ込められた微量の放射性物質(主にウラン)の崩壊による核エネルギーがあって、後者の定量的データがニュートリノを用いた最近の研究で測定された結果、単位時間あたり発生量は前者由来の熱伝達量に匹敵することが判明している(⇒著者の別著『地球の履歴書』で紹介されていた兵庫の有馬温泉の事例からも推定されるように、温泉の熱源はこの二つであったのだ)。因みにこの地球内部の核エネルギー発生量は、人類が年間に消費している全エネルギー量を上回り、原子力発電量の20倍くらいとのこと(2008年)。

第12章 おわりに

 「将来のエネルギー像を描くにあたって、慌てすぎてはいけない。三途の川の賽の河原で一服して、これまでの歩みを思い巡らすくらいの余裕があってもいい。十九世紀のドイツ統一を成し遂げた宰相オットー・フォン・ビスマルクの言葉で、本書を締めくくることにしたい。「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」」




  


 





2020年8月26日水曜日

8月26日(水) 『三つの石で地球がわかる』 (講談社ブルーバックス) 藤岡換太郎

リモンチェッロ
  石とか岩石の種類や名前は沢山ありすぎてよくわからないので、すこし系統立てて説明してくれている本を探していたら、本書があった。つまり三つの石で地球が分かる、と言う書名の本。
 
 地球の生い立ちに興味を抱いている人なら誰でも、岩石を知ることでそれに迫れるのだと分かればちゃんと読む根気が出てくる。それは、原理や始原に遡って現在を理解できるとナットクするという人間の知性の性質のせいだろう。

 本書の理解に必要な科学の知識は義務教育レベルで十分だが、物質の三態(気体・液体・固体)は晒されている環境(温度や圧力など)によって決まることについては少し復習しておいた方が良いかもしれない。また、分子や原子が組み変わって他の物質になるときの化学反応の知識や原子の構造と核物理学や同位体の知識などを知っていると理解が深まる。

 宇宙の開闢とはどのようなことを意味しているのかについては一言でいえば調査中だ(これからも引き続いて)。だが最初の物質は水素で、その後は要するに核反応で大きな原子が生じてそれが集まって分子が生じてそれが集まってもっと大きな物質が生じてついにそれが第一世代の恒星になって、その恒星が重力で馬鹿みたいに重くなってきたところでなにしろ爆発して(観察されている超新星爆発だが、どうして爆発するかは一言でいって調査中)折角集まっていた物質が宇宙にばらまかれてはじめからやり直しとなって、私達地球が誕生した太陽系の太陽という恒星は第三世代の恒星なので地球もその頃出来た(46億年だと言えるのは同位体分析のお陰)ことになるから、我が地球の構成物質はこれこれである、ということになる。

 ここで、これこれのものの始原とはざっくり言えば岩石と鉄と水である。といっても、それから今日まで長い年月の間に地球の全体や部分が晒されていた条件はさまざまに変化してきたし、いろんな物質が飛び込んできたりしたので、はじめの灼熱地獄状態では液体であった岩石は自然法則に従って、いろいろな内容を持った固体の岩石となっていった。鉄は一番重いから地球の中心に、その次は比重の重い順にカンラン(橄欖)岩、玄武岩、花崗岩、という三種類の岩石に取り巻かれて地球の基本構造がまず最初に出来た。カンラン(橄欖)岩はマントルを構成し、玄武岩は海洋の地殻を構成し、花崗岩は大陸の地殻を構成している、というふうになる。他のいろいろな岩石はこの三つから生まれてきたもの、逆に言うとその生まれてきたプロセスの解明は地球の進化プロセスの解明なのです。

 岩石が固いのは結晶構造を持つからで、結晶で特徴的なのはシリカを中心にして四方に酸素が配置されている正四面体構造で・・・etc。etcの部分は書けばキリがないから、この辺でやめておくね。なんで海洋地殻と大陸地殻が区別されるの、とか、身の回りの物質は岩石だけではないでしょ、とか、マントルとマグマはどう違うの、とか、生命を構成してる炭素はどうなっているの、とか、まだ沢山疑問がありそうだけど、それぞれ解明が進んでいるので、勉強してみると面白いと思う。

 岩石には地球の歴史が閉じ込められていること自体がわかってきたのも、その岩石を分析できるようになってきた近年の科学技術の進歩のお陰であることも知ると、科学的事実というものは証拠に基づいて判断されていることが良く理解できます。




2020年8月7日金曜日

7月28日(火) 『地球の履歴書』大河内直彦著

咲き残ったお姫様です

 地球科学の知識は、人間が地に足をつけて暮らしている限り興味は尽きないものだと思っている。そこで、最近の地球科学はどうなっているかしら、と2013年初出の本書をとりあえず読んでみた。

  ナルホド、技術が進歩してお金も使えるようになり、この手の知識が軍事機密にされることも少なくなり、いろいろなことがわかってきたらしい。新しい技術とは、例えば音波や電波などを利用した未知の地形測定(海底地形、氷下の南極大陸地形などが正確・迅速・広汎に)、宇宙からの観測技術(地上の位置や高度測定など、海面高を測定して海山の位置を驚異的早さで特定したりも出来る)、深海探査船(人も乗れたり)、海底掘削船(岩石サンプルを採取したり、そのうちマントルも?)、分析技術(物質分析、放射線分析、微量分析、多角的照合等々)、コンピュータ(3D作図、膨大データ迅速比較・解析・シミュレーション等々)・・・。

 46億年前の地球誕生、つまり宇宙空間で物質同士の衝突(重力法則で引き合うから)による灼熱した原始地球の誕生以来の(衝突で運動エネルギーが熱エネルギーに変換して灼熱地獄に、が今の地球に引き継がれ・・・)、地球の核やマントルや地殻や水や大気の生成、マントル対流と地磁気の発生、陸と海の出現、プレートテクトニクス理論や関連しての大陸分裂移動現象・造山活動・火山・地震などの基本的諸現象、水と水蒸気の循環、地質年代(生命誕生以降の区分)の概要等々の基本事項を除いて、新しい知見の中で印象に残った箇所を抜粋して書いてみた。地球温暖化(気候変動)については同じ著作者による別の本『チェンジングブルー』が良さそうなので、そっちを読んだら日記に書いておく予定。

*地表の70%を占める海の底の地形が手に取るようにわかるようになってきて、海に潜む巨大火山活動の存在が知られるようになった。平坦だと思っていた大洋の底はダイナミックなマントル対流の運動によって生じるマグマ活動(噴火も含む)で起伏に富んでいて、10000個ほどの海山が発見されたが、その大半はこの10年ほどだそうだ

*噴火によりおなじみの火山とは区別して「巨大火成岩石石区」と名付けられた強烈なマグマ活動の証拠が確認されている。絶滅した種を含めて、全生命に対するその影響は想像を絶するものであったろう・・・未来においても。「オントン・ジャワ海台」(日本の南方赤道域の海底にある)、アメリカの「コロンビア川洪水玄武岩」、ロシアの「シベリア・トラップ」、インドを広く覆う「デカン・トラップ」など

*「巨大火成岩石石区」の凄まじさの事例①「オントン・ジャワ海台」。それは丁度チベット高原が海に沈んでいるような規模で、高さ3000mもびっくりするが、驚くべきことに30kmの深さを持つ「根」を持っている。そこでは、100万年にわたり次々とマグマがあふれ続けて、その噴出物の規模は、20世紀最大と言われるフィリピンのピナツボ火山の噴火による一年間の噴出物の6倍量が平均して一年間に噴出し続けたとして100万年分の量!(多分そういう意味だろうと読んだけど)

*「巨大火成岩石石区」の凄まじさの事例②「デカン・トラップ」。地球科学的年代に見れば比較的最近である6600万年前に突如として溶岩が流れ出したもので、その随伴火山ガスによる気候に対する影響だけを想像しても、生命体に対する大混乱は容易に想像できる。因みに、インド大陸がユーラシア大陸に衝突し始めたのはその少し後の5000万年前で、ヒマラヤ山脈はその力で押し上げられたという有名な話は割愛する(ついでに言っておけば日本の伊豆半島と富士・箱根の・丹沢山塊の関係も同じ)

*「オントン・ジャワ海台」などを生んだ火山活動は、温暖化していた白亜紀に一時的な寒冷化を引き起こした。その影響により海水の循環が止まって海が澱み、海水中に溶解している酸素濃度が減少し、沼化した海に沈殿堆積した有機物が石油の元となる黒色頁岩となった。以上のいきさつはスーパーコンピュータを用いた気候シミュレーションが見事に説明したそうだ(地球を物質とエネルギーの循環システムとして捉える手法なのだろう)。白亜紀とは、1億4500万年前~6600万年前の地質年代区分のことで、その時代が温暖化していたというのは、4000万年前から始まった地球史上6番目の氷期であるそうな現代との比較での話。白亜とは大量の石灰岩(白色で珊瑚礁が源)の地層を元に名付けられました。

*地質学的に白亜の地層が終了したことは観測されていたとしても、原因についてはナゾだっただろう。巨大火山噴火とか「巨大火成岩石石区」の生成とか、諸説あったが、1980年に決着が付いた。それは、6600万年前にメキシコのユカタン半島近くの海に巨大隕石が激突したことが証明されたのである。我が世の春を満喫していた恐竜を含めた大量絶滅が発生して白亜紀が終焉したのだと。「地質学者と核物理学者が交わったこの研究は、原子という科学共通の「言語」によって、どんな異分野、いかなるトピックであってもしっかり結びつくことが出来るという科学の重要な一面を教えてくれる」(因みに、地球史上の大量絶滅は5回あって、今のところその最後がこれだそうで、将来、知恵ある唯一の種であると自負する人類が、その知恵が生み出した力によって絶滅したら、なんという皮肉だろうか)

*ほんの100年ほど前に、ノルウエ-人のアムンゼン、英国人のスコット、そして、白瀬大尉などの人びとが国家の威信を背負って未知の南極大陸に挑んだ。今では3000~4000mの厚さの氷で覆われていることが分かっている南極大陸での観測は、地球環境の歴史的事実と将来の予測を教えてくれているようだ。いろいろな観測を可能にするインフラも整備され、西南極氷床の東端のロス島にあるマクマード基地(アメリカ)は観光客を含めて2000人が暮らす町であり、ホテルもあるしカードショッピングも出来る。2005年には、南極点にあるアムンセン・スコット基地(アメリカ)とマクマード基地までブルドーザーで踏み固められた1600kmの道が作られた

*分厚い南極の氷の下の陸の地形や氷床の下にある湖の存在(陸との境目は氷が溶ける温度になっている)が観測され、しかもこの湖は相当な速さで移動することも観測された。西南極氷床の下は陸ではなく海であることが判明している(オンザロックみたい)。だから氷床は重力の法則に従って山から海へ相当な早さで動いている(南極点では10m/年位)から、氷床は当然のごとく氷山となって外洋へ流れ出て溶ける。氷床量は運ばれてくる大気中の水蒸気による積雪とのバランスで決まる。氷床が仮に全部溶ければ海水面は3.3m上昇するが、人工衛星で観測された西南極氷床減少速度から海面上昇速度を計算すると、今のところ年間0.28~0.56mmだ。オンザロックが水割りになって、急激な海面上昇に至らないかどうか観測が続けられている(海面上昇・低下はどこを基準すべきなのか、またそのメカニズムはどうなっているのかは地球システム全体の考慮が必要となる。本書では「アイソスタシー」という、地球表層の加重に対する固体地球(剛体ではない)のふるまいについて記述されているに過ぎないが)

*南極において、地球の生命体を紫外線から守っているオゾン層に穴が空くオゾンホールが実際に存在することが観測され、そのデータは人類に警鐘を鳴らすこととなった。オゾンホールは1980年代以降急激に拡大したが、その後の国際協調によるフロンガス規制などによって現時点では長期的な拡大傾向はみられなくなって、今世紀末には元の状態に回復すると予想されている

*南極氷床を3000m位ボーリングして採取したサンプルから、過去の環境に関するデータを窺い知ることができる。例えば数十万年間の気温なども分かるようになってきた(氷を作っている水の酸素の同位体分析などから)

*だんだん長くなってきたので、ちょっと飛ばして最後に温泉の話。兵庫県にある有馬温泉はすごい、というのは、近くに火山が無いのにホントの温泉(自然湧出)が、しかも90℃で湧いているからだ。この謎の主役は微量な放射性物質にあった。つまり天然に存在するウラン238の自然崩壊に伴うエネルギー放出が長時間にわたり蓄積された結果であるとのこと。有馬温泉には、ウラン238が鉛に自然崩壊するまでに(64億年かかるらしい)経由する多くの核種の内で、比較的半減期の長い核種であるラジウムやラドンが含まれていることが分かっている。つまり、有馬温泉はなんらかの事情で放射性物質を含みながら長ーい時間をかけて断熱的に地下を彷徨った結果熱くなった地下水が、自然に地表に出てきた温泉なのだ(⇒この後読んだ、2017年出版の『三つの石で地球がわかる』(藤岡換太郎著。講談社ブルーバックス) では、有馬温泉の熱源は一億年前に地表近くに上がってきた熱い花崗岩の熱だという説が述べられていたので、諸説あるということで・・・) 。因みに、最近の研究で、有馬温泉の水源は眼前の瀬戸内海をはるかに超えた南方の太平洋らしいことが分かってきたそうな。「温泉とは、地下奥深くでしたためられた手紙を私達の足元にまで運んでくれる郵便なのである」(本書の抜粋)。もう一つ追記したいことは、地球の熱源の一つには、この核種の崩壊も馬鹿にならないこと(あー、ホウカイ)。






2020年7月15日水曜日

7月15日(水) プラトン『饗宴』を中澤務訳(光文社文庫版)で再読してみた(追記2021/1/3)

 『饗宴』はプラトンの中期対話編の作品で、『パイドロス』『パイドン』とともに文学的作品としても優れていると評判が高い。

本書は8年ほど前に、竹田青嗣さんと西研さんが講師を務めた朝日カルチャー哲学講座「完全解読・ギリシャ哲学」の中で取り上げられていたときに、岩波
プリンセス・ドゥ・モナコ
文庫(久保務訳)で読んだことがあったのだが、その時は、この作品がもっている哲学的な意味あいを私はあまり深く考察してはいなかったと思える。

 今回、中澤訳で本書を再び読む気になったのは、西研さんの新著『哲学は対話する』の中の「知である徳を育てていくプロセス=愛知の営みがある、というプラトンの想いは隠されたままに『メノン』は終わる。だが、この“育成プロセスとしての愛知のあり方”は、続く『饗宴』『国家』『パイドロス』などの中期対話編で、はっきりと語られることになる」という行があって、つまり、育成プロスとしての愛知(=哲学)のあり方が、本書のテーマである「エロス論」に語られている、と述べられていたからである。読んでみると、確かにプラトン哲学に対する理解が一歩進んだように思えた。エロスは、はじめは恋愛とか性欲の場面で理解しやすいのだが、死をもいとわない名誉という場面での生の強烈さを発現するものでもあり、よいものの究極としての美を、その価値の本質としてもっているのだ、と。

 本書の要点は「第8章 ソクラテスの話」にでてくるエロス論となる。その記述は、ソクラテスが、ペロポネソス半島にあるマンティネイアというポリスのからやって来たディオティマという名前の巫女風の賢者の話という形をとっている。ディオティマは、エロス(=愛)は、よいものを永遠に自分のものにすることを求め、名誉と不死を求め、そのエロス道には5つの段階があって、それぞれの段階は美に関係づけられながら次第に進み、最終段階ではある驚くべき本性をもった美を目の当たりにする、と言う。第8章の最後の行は以下のようなものである。

ディオティマ:『いや、むしろこうは思わぬか。―――そのような生(=エロ-スの道を極めた段階にある人間の生)においてのみ、人間はしかるべき力を用いて美を見る。だから、そのような者が徳の幻影を生み出すようなことはない。なぜなら、彼が触れているのは、幻影ではないのだから。むしろ、彼は真実に触れているから、真実の徳を生み出すことができる。そして彼は、真実の徳を生み出して育むことにより、神に愛されるものとなり、また不死なる存在にすらなれるのだと―――もっとも、そんなことが人間に許されればの話だがな。』

 ソクラテスの言うエロスのもっている強烈さが、中澤訳では良く表現されていたと思ったので、その一例も抜粋してみた。

ディオティマ:『ためしに、人間の持つ名誉欲というものをよく見てみよ。さきほど私がした話の意味をよく考えるのだ。さもなくば、おまえは〔名誉愛に取りつかれた人間の行動は〕なんと不合理なのかと、びっくりすることになるぞ。なにしろ、人は、名をあげて〈不死なる栄誉を永遠に手に入れること〉を求めるエロスゆえに、ものすごい状態に陥るのだからな。すなわち、人は子どものためよりもはるかに熱心に、名誉のためにあらゆる危険を冒し、金を使い、あらゆる苦難に耐え、そして死をもいとわぬのだ』

2020年5月17日日曜日

5月15日(金) プラトン初期対話編の最後の著作『メノン』

夢香
本書は8年ほど前に通読したのだが、今回『哲学は対話する』(西研)で紹介されていたので読みたくなり、改めて読んでみたところ沢山のナルホドが出現して、楽しく読めました。読んだのは、藤沢訳の岩波文庫版。

 初期対話編の最後の著であるそうな『メノン』には、他の初期対話編のように個別の「徳=アレテー=卓越性」、つまり『ラケス』では「勇気」、『弁明』では「弁論」などの技能や「正義」、ではなくてそれらが共通に「徳」と呼ばれている契機(本質)に対する問い、つまり「徳とは何か」に対するソクラテスの考えが述べられている、と西研さんは言っている。しかし、ソクラテスは例によって「徳とはかくかくしかじかのものです」のような答えを言わない。だが、西研さんはそこにとどまらずに解釈を加えている。「<徳は簡単には教えられないとしても、知である徳を育てていくプロセス=愛知の営みがある>というプラトンの想いは隠されたままに『メノン』は終わる。」のだが、この愛知のあり方は『饗宴』『国家』『パイドロス』などの中期対話編の中でハッキリ語られることになる、と。ナルホド。

対話の一部を抜粋してみると

○ソクラテス:神々に誓って、メノン、君は徳とは何であるかと主張するのかね? どうか惜しまずに教えてくれ給え
○メノン:いや、ソクラテス、お答えするのは別にむずかしいことではありません。まず、男の徳とは何かとおたずねなら、それを言うのはわけないこと、つまり、国事を処理する能力を持ち、かつ処理するにあたって、よく友を利して敵を害し・・・。これが男の徳というものです。さらに、女の徳と言われるなら・・・。というふうに、なんなく説明できます。そして子供には・・・、年配のものには・・・、自由人には自由人の徳、召使いに召使いの徳があります」
○ソクラテス:もしさまざまの人間の徳が同じものでなかったとしたら、同じ仕方ですぐれた者であるということは、ありえなかっただろう。君はその徳とは何であると主張するのか、言ってみてくれたまえ。
○メノン:人びとを支配する能力を持つこと、というよりほかはないでしょう。もしあなたが、あらゆる場合にあてはまるような、何か一つのものを求めているのでしたら。
○ソクラテス:支配する能力を持つこと、と君は主張するけれども、われわれはそこに、「正しく、不正にではなく」と付け加えるべきではないかね?
○メノン:たしかに付け加えるべきでしょうね。正義は、ソクラテス、徳なのですから。
○ソクラテス:徳、だろうか、メノン、それとも、徳の一種だろうか?
○メノンとソクラテス:いろいろな例を挙げて徳には他に沢山あることに同意する。例えば勇気、節制、知恵、度量の大きさ。
○ソクラテス:君の挙げたすべての徳目を貫いているただ一つの徳を、どうしてもわれわれは見つけ出すことが出来ないのだ。

 この部分の対話から、ソクラテスはメノンが主張した徳、すなわち「徳とは正しく人を支配する能力である」という命題は背理であることを指摘することになる。つまり、徳とは徳の一部である正義をもって説明できるという論理は循環論法であると(結論の証明にその結論を用いている。この場合は、徳が何であるか不明→その徳の一部である正義も不明→徳の説明に正義を用いることは出来ない)。だが、問題はメノンの命題が背理であることではなくて、徳とは何かという問いの答えが出てこないことである。
 さらに、ソクラテスに自分の循環論法を指摘されたメノンは、ついに逆ギレ的に(とは西研さん表現)ソクラテスに問う。
○メノン:おや、ソクラテス、いったいあなたは、それが何であるかがあなたにぜんぜんわかっていないとしたら、どうやってそれを探究するおつもりですか?
 ソクラテスはこの「知らないことを探究することは、何を探究すべきか知らないのだから、それはできない」というソフィスト好みの難問に対する議論を、神々の事柄について知恵を持っている人達から聞いた話を引用して、一蹴してしまう。つまり、「不死の魂が既に学んでしまっていることを思い出せばよいのだ(想起説)」と。西研さんは、この部分について「---これは神話的に語られているが、徳などの探究はまったくの無知から始まるのではなく、体験的にわかっていること(実感)を明確化することだ、と私としては読んでみたいところである。」と述べている。ナルホド。

 プラトンはソクラテスに最後まで「徳とは何か」の答えを言わせないどころか、謎めいた仕方で『メノン』は終わっている。

○ソクラテス:それでは、メノン、これまでの推論にしたがうかぎり、徳というものは、もし徳が誰かにそなわるとすれば、それは明らかに、神の恵みによってそなわるのだということになる。しかしながら、これについてほんとうに明確なことは、いかにして徳が人間にそなわるようになるかということよりも先に、徳それ自体はそもそも何であるかという問いを手がけてこそ、はじめてわれわれは知ることが出来るだろう。

 と、そう述べてソクラテスはその場を去って行くのであった・・・・。


2020年3月27日金曜日

3月27日(金) 『天皇 昭和から平成へ』葦津珍彦著 平成元年

河口湖から見えた富士山
市井の歴史の先生の歴史サークルで、天皇が話題に上ることが時々ある。天皇のことを知りたいときには、天皇を中心にした日本国を作りたいと思っている人びとに、思想的に大きな影響力を持っている葦津珍彦(あしづうずひこ)という人の本を読むと良いよ、といわれていたので読んでみた。

 なるほどねー、でも、この考えに賛同しないと日本国民ではないと言われたら、それは違うだろうね。本文でとりあえず目についた箇所から抜粋した文章をいくつか記しておきました。

第一章(現代世界の国家構造解説)のなかの「日本の君主制」という節より

「日本の皇室は、私の考えでは決して能力主義者ではない。君主にとっては、知能、武勇そのほかの政治能力も大切であるが、その能力が第一義ではない。なにが大切かといへば「公正無私」の精神的統合の資質である。」

「それ(=公正無私の高貴なる精神)は、神を祭ることによって生じる。日本の天皇は、神の祭り主としての任務を第一とされ、公正無私を第一とされた。」

「日本の天皇とは、祭り主としての公正無私を第一義とされた。国民は、人間的能力を基準として、国の最高位者を考えないで、祭り主の公明正大さを尊いとした。」

「私は、これ(=直前記の「 」内文章)を日本の国家構造の根本だと信じている。」

第三章(神聖を求める心)より

「自らがいいと信ずる政策の勝利をもとめ、自らの適切と認める政権担当者を選ぶためには、大いに自由であったがいい。だが当然、そこには対決闘争と謀略が生ずる。しかしそれはしかたがない。けれども、それを仕方がないからと言って、ただそれだけに放任しておけば、国民の精神は、ただ分裂して統合するところを知らず、謀略闘争にのみ終始して、罪けがれの泥沼におちて、人間の神聖感を失ってしまふであらう。」

第五章(祭りと祭り主)より

「私は、端的にいって霊感を信ずるものです。〈中略〉神道人の立場から考へれば、通常的な人間知性とか感情といっても、もともと神々から生みつけられ授かったものです。ただ霊感者だけが神意に通ずる能力があるのではない。霊感を無視する近世近代の知性人は、とかく神意から遠ざかる傾向に流れやすい。私は、近世近代の知性人が、霊感を無視しがちなのには不満です。」

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 ついでに、2014年に読んでみた、同じく葦津氏の著作である『新版 国家神道とは何だったのか』(神社新報創刊60周年記念出版 神社新報社 平成18年)からの抜粋も記してみた。

十七 国家神道に対する評論、より

「「国家神道」とは、明治いらいの国家と神社との間に存した法制度であって(その法の思想を含むとして)もいいが、それは「非宗教」の一般国民精神とも称すべきものであった。」




2020年3月6日金曜日

3月6日(金) プラトン『ソクラテスの弁明』(納富信留)

カクテル
56年ぶりの再読、今度は納富信留訳で読んだのは西研さんの『哲学は対話する』を読んだからだ。『弁明』の面白さ、深さを教えてもらい、その気になって読むことができた。いずれ、別ブログ(名著読解の方かな)に掲載予定。

 プラトンのこの短い本には、師ソクラテスの哲学つまり「愛知」=フィロソフィアとは何かと考え続けた弟子のソクラテス論のエキスが詰まっていることを教えられた。不知の自覚(無知の知として知られているが、納富さん訳の不知の自覚の方が西さんが言うように適切だと私も思う)は楽しみを与えてくれるものですね。

2020年2月3日月曜日

1月30日(木)『神聖天皇のゆくえ---近代日本社会の基軸』島薗進

芳純
明治維新から太平洋戦争の敗戦までの間、天皇と言う存在は日本国の政治に強大な影響を及ぼしていた。特に昭和の初め頃から敗戦に至るまでの間では、日本国という国家は皇道・国体と言う理念に支えられて個人の命の価値が極めて軽く扱われるようになっていた。そして、そのことが国民全体に許容されるような状況に至っていた。なぜだろうか?
 
 宗教学者の島薗先生は「神聖天皇」というキーワードを置いて、そのことを説明し、さらに「神聖天皇」は現代の日本社会における一つの価値観として生き残り、現政権はその思想を中核に日本国を”復活”させようとしていると述べている。

 私自身は、政教分離は人類史の智惠だし、文化・伝統を尊重することの大切さは、人間というものが一人で生きている存在ではないから明らかだ、と考えている。しかし、国家・社会は思想や信条が違った多様な価値観を持った人々が平和な日常のもとで共存することを第一義とするものでなければならないとも考えている。だから、人々がそれに向けて制度等々を工夫をし続ける他はなく、島薗先生の言われる「神聖天皇」を頂くような国家にはなってほしくない、と思う。

 「神聖天皇」は祭・政・教一致であったが、現行憲法下にある現代において、天皇の存在どんな意味や価値を持っているのだろう?と言う問いがでてくることは至って自然なことだろう。現行憲法では「天皇」は「象徴」なのであって「政」には関わらないが、行っている「祭」はただの文化行事なのだろうか?沢山の国会議員が「教」(宗教)としての神道の理念の基づいた神道政治連盟に属すると言う事実の底流には、「ゆくえ」不明になった「神聖天皇」のイデオロギーが流れているのではないだろうか?未来の日本をどう構想するのかについてのヒントが沢山詰まっている。

2020年1月7日火曜日

1月7日(火) 『国際法』 大沼保昭著

しばらく旅に出かけるので、その前に一つくらいは書いておこうと思って。

ジャスミーナ
国際法については殆ど無知だったので少し知りたいと思って読んでみました。大河ドラマで坂本龍馬が万国公法じゃー、とか叫んでいたのを思い出しますが、現代ではどうなっているのだろうかと。
 現時点において国際法として存在するルールとその中身や、そこに至るまで歴史の知識は、国際関係を自分で考えてみるためには必須であることはよくわかります。細かく知るのは必要に応じててよいことも理解できます。
 ここでは読後の感想を一つだけ書いておきます。国際法の世界においても、争いごとの解決や防止に大事なことは、力ずくではなくて話し合いによってルールを定め、それを守ることができるような状況を作り出すということなのだ、ということです。人間社会は長いこと掛かって、永遠に十分とは言えないかもしれないとしても、「法治国家」を作り上げてルールの決め方や守らせ方を工夫してきました。ここで、守らせ方は力ずくであるほかはない、と考えることは現実を直視すれば間違いとは言えないでしょう。しかし、国際法においてはこの考えは効力を激減させ、結局より根本的原理、つまり平和共存には人々が話し合いによって、内的強制力を持ち合うほかはないのだ、更に長い時間をかけて、共に亡びる前に、と感じました。