自己紹介

自分の写真
1946年9月、焦土と化した東京都内にて、食糧難と住宅難と就職難の中、運良く生き抜いた両親の新しき時代の一発目として生を受けるも、一年未満で感染症にて死にかける。生き延びたのは、ご近所に住む朝鮮人女性のもらい乳と父親がやっと手にした本の印税全部を叩いて進駐軍から手に入れたペニシリンのおかげであったらしい。ここまでは当然記憶にない。記憶になくても疑えないことである。 物心がついた頃には理系少年になっていた。それが何故なのか定かではないが、誤魔化しうるコトバより、誤魔化しえない数や図形に安堵を覚えたのかもしれない。言葉というものが、単なる記号ではなく、実は世界を分節し、意味と価値の認識それ自体をも可能にするものであることに気付きはじめたのは50歳を過ぎてからであった。 30年間程の企業勤めの後、現在は知の世界に遊ぶ自称哲学徒、通称孫が気になる普通の爺~じ。ブログには庭で育てている薔薇の写真も載せました。

2020年3月6日金曜日

3月6日(金) プラトン『ソクラテスの弁明』(納富信留)

カクテル
56年ぶりの再読、今度は納富信留訳で読んだのは西研さんの『哲学は対話する』を読んだからだ。『弁明』の面白さ、深さを教えてもらい、その気になって読むことができた。いずれ、別ブログ(名著読解の方かな)に掲載予定。

 プラトンのこの短い本には、師ソクラテスの哲学つまり「愛知」=フィロソフィアとは何かと考え続けた弟子のソクラテス論のエキスが詰まっていることを教えられた。不知の自覚(無知の知として知られているが、納富さん訳の不知の自覚の方が西さんが言うように適切だと私も思う)は楽しみを与えてくれるものですね。

0 件のコメント:

コメントを投稿