自己紹介

自分の写真
1946年9月、焦土と化した東京都内にて、食糧難と住宅難と就職難の中、運良く生き抜いた両親の新しき時代の一発目として生を受けるも、一年未満で感染症にて死にかける。生き延びたのは、ご近所に住む朝鮮人女性のもらい乳と父親がやっと手にした本の印税全部を叩いて進駐軍から手に入れたペニシリンのおかげであったらしい。ここまでは当然記憶にない。記憶になくても疑えないことである。 物心がついた頃には理系少年になっていた。それが何故なのか定かではないが、誤魔化しうるコトバより、誤魔化しえない数や図形に安堵を覚えたのかもしれない。言葉というものが、単なる記号ではなく、実は世界を分節し、意味と価値の認識それ自体をも可能にするものであることに気付きはじめたのは50歳を過ぎてからであった。 30年間程の企業勤めの後、現在は知の世界に遊ぶ自称哲学徒、通称孫が気になる普通の爺~じ。ブログには庭で育てている薔薇の写真も載せました。

2023年12月7日木曜日

ジュディス・バトラー『分かれ道 ユダヤ性とシオニズム批判』の摘み読み感想文

ベルサイユの薔薇
 本書は、哲学的サークル「わっちらす」の第85回定例読書会のテキストとして担当の方が選定したもので、全部で500頁もある。そのため、当日彼女が取り上げた章は「はじめに」を含めて四つ(はじめに、一章、五章、六章)。私の通読した部分もこの箇所だけ。この感想文は、彼女の素晴らしいレジュメの助けを借りて書くことが出来た。

著者は1956年生まれのユダヤ人哲学者で、特にフェミニズムの領域では著名であることは知ってはいたが、今回はじめてその思想に触れてみて、またちょっと無知を埋めることが出来た。折しも、パレスチナで勃発したハマスとイスラエルとの悲惨な戦闘という現実が、「どうしてこんなことになるのだろう」という問いを発生させていたことも、本書読む動機を強めていた。

印象的であった著者のテーゼを私風に書いてみると「ユダヤ性はシオニズムというイデオロギー批判を可能にする」というものだ。この言葉は著者のオリジナルではなく、特にサイードやアーレントの思想を取り入れて発展させているように見える。そして、この発展は時代の現実が要請するものだろう。この現実とは、ナチスのホロコーストが契機となり、西欧近代がパレスチナの地にイスラエルという人工的国家を出現させたことだろう。人は地上で共存するほかはなく、誰と共存するかは選べず、その現実は国家という理念より前にあったのだが。ユダヤ人のディアスポラ(離散)という歴史は、国家より先にあった現実だった。ナルホド。ずっと積ん読になっているアーレントの『全体性の起源』を読破してみるか。


2023年11月16日木曜日

エドワード・サイード

あゆみ
12月に開催される 仲間の読書会で、ジュディス・バトラー『分かれ道 ユダヤ性とシオニズム』が取り上げられるので少し読み始めたら、サイードの考えが著者に大きく影響を与えているようなので、20年程前に通読したサイードの著作『オリエンタリズム』(平凡社)の読書感想文を掲載してみた。

ついでと言っては何だが、パレスチナ問題などに関する著者の短編評論をいくつか集めた『戦争とプロパガンダ』(みすず)のも載せておいた。

『オリエンタリズム』

ACC講座(朝日カルチャー)で、タリバンによって爆破されたバーミアン石仏修復に携わられたペルシャ学者前田耕作先生の懇切丁寧な解説を聞きながらの読書。内容が濃いので整理してからもう一度記載する予定だが、とりあえず以下のようにメモしておく。

上巻では従来のオリエンタリズムについて、下巻では今日のそれについて述べるとともにオリエンタリズムの再考をしている。サイードは、従来のオリエンタリズムというものは西洋の視点で創られたものであり、実在とは異なっていると主張している。その西洋の視点とは、植民地支配という政治を基本にした差別であり、その創り方は主として言語による表象の積み重ねである、と。その主張の根拠を、学的研究から芸術作品に至るまでその著作者の思想に遡り示している。

サイードのやり方は、ある時代にある集団に属する人間が、同時代の他の集団や別の時代の集団を理解する場合に存在する根本的問題点を提起している。それは、理解に対する政治的動機の関与という問題、理解を言語を持ってすること自体が内在する問題、学問自体が文明に従属するという問題、である。

『戦争とプロパガンダ』

比較文学を専門とする著者は、パレスティナ難民ともいえる。この本は米国で発生した同時多発テロ前後に書かれた、パレスチナ問題などに関する著者の短編評論をいくつか集めたものであるが、パレスチナ問題についての本質をパレスチナ人自身の問題と米国に代表される西欧近代国家に潜む問題に分けて考察し、その考察には思想家としての現代人間社会に共通する鋭い感性を感じた。

小生が蛇足的感想を加えるなら、「近代の国家思想の実現は進行中であり、当然修正しながら進むのだが問題はその修正が本質を失わせることにある」ということをこの本は教えているような気がする。著者は先日67歳で病没された。

2023年8月20日日曜日

岩波 日本通史 中世(1)(12~13世紀)読書感想文


12世紀始めは、日本列島の政治構造が大きく変換する画期をなしていた。律令国家が目指した法治主義と公地公民思想に基づく統治が、現実に即してその実態が

ジャスミーナ
100
年ほどで崩壊した後も、その形態の上に天皇家と藤原家の血縁によって強固に結びついた権力構造の下、比較的安定した政治体制が続いていた。しかし、その間に蓄積された知識・財・諸力・諸矛盾は、時代の画期を創出せざるを得なかった。本書におけるキーワードを思いつくままに挙げてみると、上皇の院政、父系権力継承、氏から家へ、荘園公領制、寄進地型荘園、豪族と武士の台頭、経済を担う人々の参入、平家の盛衰、鎌倉幕府の創設、大寺社勢力、仏教と知の蓄積。

院政が中世を通しての朝廷最高政治権力となり、口分田など消滅して荘園公領制という奇妙な土地制度や、財を生み出す人々や彼等を現地で束ねる人々が歴史に登場してきた現実の底流の根幹には、「私」の力の勃興があるのではないだろうか。中世の定義は世界的に共通して、政治権力分散、土地支配の重層化、軍事専門家層の社会的優越、だそうなので、よく合致している。

都に住んで国の政治に参加してる人数はppmオーダーでしかなく、定員もあるだろうから、天皇家にしろ摂関家にしろ、沢山生まれる子どもたちの内でそのppmに入れない人たちはどうするのかという基本的疑問がある。彼等を「貴種」と呼び、その特性を想像すると、教育を受けて知識がある、栄養が良いから体力があるし見栄えもする、人々から崇められる(もしそうでないなら、秩序が崩壊している)、財がある、血統での繋がりがある。となれば、地方のリーダーとしての需要はあるし、彼等もそこで権力と財を手に入れられる。地方だって、古代よりそこで生業を立てている豪族、百姓たちがいる。だから皇族を始祖とする源氏や平家、天皇の外戚となり皇室と権力を分有した藤原氏、みな「家」としてグループ化した実力集団と存在していた。

上皇の寵愛がポイントとなる院の政治は当然不透明で正統性はなくなり、院内は外戚を含めて葛藤と矛盾のるつぼとなる。権力継承ルールが直系父子になったのは、公的観点(天智天皇の遺言「不改常典」)とは真逆な私的動機であり、さらに皇室が摂関家から権力を剥奪しようと試みたのだろう。結果は、武士政権である鎌倉幕府によって朝廷の権力が奪われることになるのだが、これが完全とはならず、現代まで継続している不思議は興味津々だ。

平家の盛衰は「平家物語」としてよく知られているように、ドラマチックなものだ。12世紀初頭に白河院の私兵、北面の武士、院の近臣として台頭してきた伊勢平氏が、半世紀後の清盛の時代に摂関家や政治権力としての源氏を凌駕するのみならず、天皇家の最高政治権力をクーデターで奪取したが、そのわずか20年後には鎌倉幕府によって滅亡した。やはりここで興味を引くのは、清盛のプランを想像することだろう。つまり、旧来の貴族政治ではない、内政だけではなく国際経済と結びついた新しい世界を、しかも、武力としての源氏内部の血生臭く乱暴な実力世界とは一線を引いた、日本の貴族精神文化も取り入れた世界を、構想していたように見えるからだ。

ところで、平氏が清盛の死後かくもあっさりと源氏に敗れたのは何故だろうか。「奢る平家は久しからず」という言葉は、慢心するなかれという戒めとして良く聞かれてきたが、歴史の教訓としては明らかにミスリードだろう。平治の乱で清盛に命を救われて伊豆に流された頼朝少年が、彼の地で文・武・色と三拍子揃ってスクスク育つものだろうか。さらに、バラバラな源氏をまとめて、諸側面で圧倒的優勢な平氏を打倒しようと思うものだろうか。しかも、平氏で北条家創始者の時政の娘・政子が頼朝に惚れて妻となり、やがて北条氏が幕府の権力を掌握して朝廷を凌駕していくのだが、これは偶然か必然か。

※本書の読書メモは下記別ブログでまとめたから、興味があれば読んでみてね。

爺~じの日本史メモ: 岩波講座 日本通史07巻(中世1 12~13世紀の日本-古代から中世へ)通史 石井進 (gansekimind-nihonshi.blogspot.com)


2023年7月29日土曜日

東洋経済より出版された平田竹男さんの「世界資源エネルギー入門」

希望
 副題は「主要国の基本戦略と未来地図」。

この半世紀の間、世界資源エネルギー問題がどのように変わったのかを見てみようと読んでみた。注目点は主に二点、一点はエネルギー構成の変化、もう一つは地政学的視点からの変化。本書も著者も私は知らなかったが、東洋経済オンライン記事に載っていたので買ってみた。なお本書は、著者が早大で行った講義に基づいた記述とのこと。

エネルギー構成の変化が産業の拡大に重大な影響を持つだろうこと(どちらが原因かは興味があるが)、また、地政学的には国力の最も重要な源泉が人口と資源エネルギーであること、それらはいずれも50年前と同じだ。だが、その内容はかなり違っている。その間に現実に生じた大きな変化は、GX(green transformation)の必要性が広く認識されてくるような状況と、意識の上ではその真逆にみえる、近代の劣化という状況、に見てとることが出来そうである。以下、この半世紀間の変化について、本書の記述から幾つか記憶に残ったところを想い起こしてみた。

  • 世界全体のエネルギー構成は、減少気味ではあるが相変わらず化石燃料が中心で、原子力は想定されていたよりも伸び悩み、再生可能エネルギー(要するに太陽エネルギーの循環に人間社会が乗ること)が思いの外増加してきている。
  • 化石燃料供給力のトップはロシアであり、二番手は米国である。この二国がダントツで、石油の上に浮いていると言われていた中東ではない。欧州の北海を含めてその他いろいろな地域から海上油田・ガス田を含めてoil&gasが採取されている。米国が自給のみならず輸出するほどダントツなのは、堆積岩層内のoil&gasを採取可能にした技術による。探査・掘削・採取等の技術がそれらの化石燃料のコストを下げた分だけ、供給可能になるという現実は変わらず、近代が劣化しようとしまいとこれからも変わらないだろう。つまり、そのコストは誰がどこでいつどうやって決めるのか、が核心だ。
  • 需要のダントツは中国で、二番手は米国である。人口や工業化の観点で見れば中国の状況が予測通りであるほか、今後インド、ASEAN、や最近の言葉で言えばグローバルサウスの国々の需要増は明らかだろう。国際協調の枠組みが化石燃料の採取の制限を可能にしない限り、GXなどは絵に描いた餅だということは本書のデータから容易に予測できる。
  • 地政学の問題は三つのE(Energy security,Enviroment,Economic efficienncy)の視点で考えると良いと著者は指摘しているのはもっともだが、同時に、具体的な国家戦略における優先順は国家の都合により異なり、かつ三つのEは相互に関係しているとも指摘してる。では、日本国はどうするのか、について考えるネタを本書から読み取るなら、それはGXだろう。
  • ヨーロッパの人々はロシアの天然ガスパイプラインによって今まで生活が出来ていたが、ロシアのウクライナ侵攻によって突然先が見えなくなってきた。ロシアの天然ガスの恩恵を最も受けてきたドイツはたちまち脱原発政策の変更を余儀なくされている。フランスは原発が電力供給の中心であることは変わらない。イギリスはロシア産天然ガスの依存度が低く、エネルギーの自給率も高いので当面(数十年か)は大丈夫だろう。
  • 原発については、現時点では米国、フランスについで中国が三番目に多い。建設中は中国がダントツに多い。米国のスリーマイル、ソ連のチェルノブイリ、そしてそれらに続いて起こった日本の福島の事故は決定的な影響を世界に、特に欧州においてもたらしたのは周知の事実だが、欧州においてはロシアのウクライナ侵攻を受けて、地政学的視点から、新たな現実が生じつつある。新型炉開発は、中国、インド、ロシアが世界をリードしている。
  • 再生可能エネルギーが思いの外増加しているのは、GXの流れの一環だが、注目すべきは、再生可能エネルギーの製造設備を担っている中心は中国企業であることだ。これは今後のエネルギー需要の伸張地域としてだけでなく、地政学的見地からも興味あることだろう。
  • 最後に、本書のデータから、再生可能エネルギー(要するに太陽エネルギーの循環に人間社会が乗ること)が持続的可能エネルギーとして可能になる条件は、人類の知識を利用しつつ、対立ではなく共感へ、人類の驕り高ぶった意識をより謙虚な意識へ、と向かうように配慮し続けるほかはない、というのが私の感じ。現代は、科学の合理性の価値に気付かざるを得ない機会が与えられた画期であった、と後世の歴史家に認められるようになったらいいね。






2023年6月2日金曜日

『日本が自滅する日(石井紘基)2002年1月23日』

ツル・ヘルツアス
 本書は、前回のブログで紹介した元衆院議員・元明石市長の泉氏が尊敬していたと書いてあった元衆議院議員で財政学者でもあるそうな石井紘基氏の著作だから読んでみた。1940年生まれの石井議員は在任中の2002年10月25日何ものかに殺害された。

本書の趣旨・目的は、以下に引用した著者のあとがき書かれている。「私が本書を著したのは21世紀日本の市場経済革命に捧げるためである」。また、本書の目的は「日本にはベルリンの壁(官制経済体制)がある。その見えない向こう側に「ほんとうの日本」がある。ベルリンの壁を取り払い、再び明るい陽光を浴びる日本を取り戻すために「ほんとうの日本」の一端を解明するのが本書の目的である」。

第四章には「構造改革のための25のプログラム」も呈示しているが、そこに一貫しているのは、「官制経済体制」化した日本の構造を民の力による「市場経済体制」に変革することである。詳細を知りたければ自分で読んでね(因みに通読しただけなので評価できず)。若い頃にソ連に留学しており(1965-1971年)、鉄のカーテンの向こう側からの経験がベースになって、ソ連の崩壊も予測したようだ。その崩壊したソ連と現在の日本の官制経済体制の類似性を指摘している点は原理的には一理あるとしてもかなり飛躍的(このままでは日本はソ連みたいに自滅するから、そのことを自覚して経済体制の革命的変革をすべしと)。

『社会の変え方(泉房穂著2023/1/31)』

音楽と森の美術館の薔薇

 kindleなど電子書籍で直ぐに手元で本が読めるようになってから、かなりの本が「積ん読」(とは言えないので、「ほっどく」かな)状態で溜まっている。そこで読書態度を従来の「精読風」から「乱読風」に改め、且つブログに短時間で掲載することを試みてみようと思う(読書日誌なので)。

本書を買ったのは、今流行りの「少子化問題」についてネットサーフィンしていたときに、著者の泉氏の少し変わった政治家経歴を偶然ネットで知ったから、つまり政治家(衆議院議員一期を経て明石市長12年)として良いと、かつ出来ると判断したことは断固やり遂げるという姿勢に興味を持ったからであるが、その内容は一言でいえば、「政治に失望し、社会は変えられないと思うことはない、自分は実際やって来た」というものだ。

本書の最後の著者紹介文に掲載されていた明石市長時代の実績は、「5つの無料化」に代表される子供施策のほか、高齢、障害者福祉などに力を入れて取り組み、市の人口、出生数、税収、基金、地域経済などの好循環を実現し、その結果、人口は10年連続増を達成した、そうだ。


2023年5月24日水曜日

『純粋理性批判』(岩波文庫) 昔の読書ノート

希望
 日記ですが、昔の読書ノートを見つけたので、別のブログ爺~じの哲学系名著読解: カント『純粋理性批判』目次~緒言 (gansekimind-dokkai.blogspot.com)に掲載した。

哲学の古典を原典(訳文だが)で読むことを始めて3~4年後に書いてみた文章。原典に忠実であろうと意図したことは伝わるが、一読しただけではなにを言っているのかよく分からない(書いた本人が言うのもナンだが)。

他にも断片が結構あるが、ある程度纏まったものはすくなそうだが、クラウドに掲載しておけば紛失しなそうだから、気が向いたらまた掲載してみよっと。

2023年4月15日土曜日

丸山眞男『政治の世界 他十編』(岩波文庫)

ピースの蕾
  コロナ禍で中断していた仲間の読書会の課題図書だったが、最後の会が中止となってしまい今度再開することにしたので改めて読んでみた。

 戦後、社会科学研究の束縛が解き放たれて時が経たない頃の論文が収録されているので、先ずは、「日本の政治学の不妊性」の反省と言う視点が印象的だった。「不妊症」の原因は、明治政府の自由民権運動弾圧にあり、これは西洋市民社会が経験した凄まじき政治の歴史を知ればナルホドと納得性がある、と。最初に記載されある論文は「政治の科学」で、課題解決には原因の認識が基本だから政治も科学として学ばねばならないということなのだろう。

 「政治の世界」という論文では、政治とはどのようなものかという解説がなされている。政治とは、紛争(C)という問題が発生した場合にそれを解決する(S)ために人間集団を現実に動かすことである。従って、幅広い視線と権力(P)が必要であり、政治状況を表す基本図式はC---Sと言う基本にPが媒介したC--P--S、である。が、現実にはP--C--S--P'(P<P')、という図式になっている。つまり、PとCが逆転し、PからはじまりP'にすすむ権力の拡大再生産になっている。なるほど、資本主義における資本の拡大再生産の無限循環に似ているから、放っておくと破綻するというイメージが良く伝わっているなと思う。これを回避する道は、近代市民による政治参加の身近な実践だという指摘は実に真っ当だと思った。


2023年2月20日月曜日

『浸食される 民主主義 上』(ラリー・ダイアモンド著 2019年)

 出版社は勁草書房、kindle版で通読した。

ヒヤシンス
 著者は1951年生まれのアメリカのスタンフォード大学の政治学の教授。本の題目から伺えるような事柄が、データに基づいて詳しく論じられている。

 言わんとしているところは、民主主義を浸食している大国はロシアと中国で、途上国で民主主義国として新たに参加してくる国の割合は減少傾向にあり、特にここ数年は逆に専制国家へと退行している国家、例えばハンガリー、トルコ等が増加している、という時代の流れに警鐘を鳴らすところ。この部分についての大まかなところは特に新しい情報ではない。

 詳しく論じられている個々の部分については、そのデータの出所についての知識が私にはないので、読み飛ばすほかはないが、一点面白かったところがあった。それは、トランプ元大統領に対する強烈な批判と、そのような人が、予想(著者を含めて恐らく沢山のデータ駆使して予想したであろうに)に反して大統領に選出されてしまった事実、及び自国に対する強烈な失望表明だった。ホントに驚きだよね、民主主義の危機はむしろアメリカに迫っているとは。





2023年2月8日水曜日

『検証 戦争責任 上下』(読売新聞戦争責任検証委員会)「中公文庫」 

  『検証 戦争責任 上下』(読売新聞戦争責任検証委員会)「中公文庫」

ホワイトクリスマス
 本書は、下巻が刊行された2009年に80歳であった読売新聞会長・主筆渡辺恒雄の下での2005年夏からの一年間のプロジェクトによる調査を基に作成された。調査対象年代は大略1928年~1945年で、その間の日本の「戦争」を本書では「昭和戦争」と名付けている。本書の目的は、日本国民が自らの手で、「昭和戦争」をどう認識するかの材料を提供するためである(下巻 あとがき より)。

下巻の第6章「「昭和戦争」の責任を総括する」については、諸事実およびその関連について端的にまとめられているので、ほとんど省略せず紹介した。下巻の第8章「「昭和戦争」から何を学ぶか」については、項目だけを抜粋した。()は小生の捕捉。

 

上巻 序

 

l  1945年の敗戦から六十有余年が過ぎた。この間、日本の「戦争責任」について、国民的な拡がりを持つ議論や本格的検証作業は、ほとんど行われてこなかった

l  プロジェクトチームが進めた取材・検証の主な視角は以下の五点である。
一、なぜ、満州事変は日中戦争へと拡大していったのか
二、勝算がないままアメリカとの戦争に踏み切ったのはなぜか
三、玉砕・特攻を生み出したものは何だったのか
四、アメリカによる原爆投下は避けられなかったのか
五、東京裁判で残された問題は何か

l  冒頭で五つのテーマについて概括した後、満州事変から敗戦(日米間の太平洋戦争)までの戦争の実態と問題点を「陸軍参謀」「エネルギー」「テロリズム」といった独自の観点から検証・分析がなされている

l  以下、上巻の記述は省略

 

下巻 第6章「昭和戦争」の責任を総括する

 

満州事変~終戦の十四年間

l  これまで、この戦争の名称は各々の理由によって「大東亜戦争」「太平洋戦争」「十五年戦争」「アジア・太平洋戦争」「第二次世界大戦」などと呼ばれてきた

l  本書では、昭和時代に起きた戦争という意味で「昭和戦争」と呼ぶことにした

 

満州事変 戦火の扉を開いた石原、板垣

l  昭和戦争の出発点は19319月に起きた満州事変にあり、満州事変の首謀者は関東軍参謀の石原莞爾と板垣征四郎である

l  「謀略により国家を強引する」という、陸軍中佐・石原らの満州(中国東北部)への侵略行為は、文字取り日本を戦争へと引きずり込んでいった

l  石原の軍事思想の核心は、日米両国が東西両文明の盟主として、戦争で世界一を争う「世界最終戦争論」(中公文庫2001年にも収録)だった

l  石原は19281月、エリート将校の集い「木曜会」で「全支那を根拠として遺憾なくこれを利用すれば、20年でも30年でも戦争を継続することが出来る」と主張した

l  19286月、板垣の前任の河本大作が(満州侵略・関東軍侵攻の端緒として、奉天軍閥の首領)張作霖を列車ごと爆殺した。この事件が満州事変の先行モデルとなる(関東軍出動せず謀略は失敗、事件隠蔽、責任曖昧、田中内閣総辞職因は天皇の叱責)

l  19319月(⇒18日、午後1020分頃)関東軍は奉天郊外の柳条湖で満鉄線を爆破し、奉天を一日で占領した(⇒陸軍の一部軍人の企てた謀略であることは下記が示す)

Ø  爆発直後に奉天摘1040分の列車は通過している(⇒爆破は合図であった)

Ø  爆発音を合図に待機していた関東軍は付近にある中国の北方辺防軍を攻撃した

Ø  参謀本部から派遣された建川少将はこれを制止しなかった

Ø  奉天臨時市長は奉天特務機関長の土肥原賢二が就いた

l  続いて関東軍は、守備範囲を超えて吉林省へ進撃を開始し、朝鮮軍は満州に独断で派兵した(⇒陸軍首脳も日本政府も承認していない軍事行動が取られている)

Ø  関東軍司令官は板垣の説得により吉林出兵を決断し

Ø  朝鮮軍司令官は石原らと連携していた朝鮮軍参謀の進言に従っていた

l  板垣らと緊密に連絡を取り合っていた橋本欣五郎陸軍中佐は、1931年の3月と10月に二つのクーデター未遂事件を起こすが、後の515事件、226事件など頻発するテロ、クーデター事件の先魁をなした

Ø  橋本欣五郎陸軍中佐は国家主義者で、1930年秋に中佐以下の有志を募り国家改造を終極目的とする秘密結社的な「桜会」を結成した)

Ø  橋本中佐の起こした二つのクーデター未遂事件は杜撰で失敗するが、首謀者の処分も軽微であった(⇒国家による軍の統治が出来ていなかった証拠)

l  朝鮮軍の独断出兵は若槻礼次郎首相によって容認され、現地軍の暴走を「政治」が抑止できず、追認する病弊の端緒となった

Ø  若槻首相への事後報告は、対満蒙強硬論者だった南次郎陸軍大臣(大将)

l  193231日、満州国建国が宣言される。満州国元首(執政、のち皇帝)に清朝の廃帝・溥儀。溥儀を担ぎ出したのは、先出の土肥原

l  満州国建国工作に伴う戦火は一時上海に飛び火した(第一次上海事変)

Ø  板垣が上海公使館付き武官に命じて、建国工作から列強の目をそらすための謀略であった(32118日、中国人に邦人僧侶3名襲撃させ、内一人死亡)

Ø  上海は抗日運動の拠点と同時に欧米日共同租界で中国の国際港)

Ø  (⇒陸軍出兵し国民政府軍と衝突、33日までに民間時含む死傷者数万人)

l  1932515日に政友会総裁犬養毅首相が海軍将校に暗殺される(五・一五事件)

Ø  後継の斉藤実内閣は満州国を承認し、衆議院はこれに先立ち、満州国承認決議を全会一致で可決

l  満州事変に対する国際連盟のリットン調査団報告書が日本に呈示され(32101)、荒木貞夫陸相はこれを酷評し、国際連盟からの脱退を主唱した

Ø  報告書は、一方的に日本を非難する内ではなく、満州に広範な自治政権を作ることも提案していた

Ø  (⇒調査参加国は英米仏独伊、322月から4ヶ月間現地調査の報告書は10章構成英文148頁の浩瀚なもので、日本の主張は基本的に否定されている)

l  国際連盟総会で、日本代表の松岡洋右は、国際連盟脱退を通告するというパフォーマンスを演じた

 

日中戦争 近衛文麿、広田弘毅無策で泥沼突入

l  193764日、第一次近衛内閣が発足、77日に盧溝橋事件が勃発し四日後には現地停戦協定が成立した

Ø  (⇒北京郊外の盧溝橋付近で夜間演習中の日本軍と中国軍に間で起こった衝突事件。この事件により日中戦争が開始された。この時の連隊長は後の悪名高きインパール作戦の指揮者牟田口廉也)

Ø  しかし、近衛は現地停戦協定が成立したその日に華北(中国北部地方)への派兵を決定し、当初の戦火不拡大方針を事実上撤回することになった

Ø  近衛は戦争初期の重大局面において指導力を欠くのみならず、和平を模索するも陸軍などの反対にあうと腰砕けとなった

l  広田外相は、派兵決定会議とこれに続く閣議で近衛と共に沈黙を守り、杉山元陸相、米内光政海相らと共に、国民政府との和平交渉の打ち切りを主張した

Ø  広田は日中戦争に至る過程で、外相、首相(2回)と、長く外交の舵取りをしたが、二・二六事件(1936年)後に首相として、「軍部大臣現役武官制の復活」、南方進出を定めた「国策の基準」、日独防共協定など禍根を残す決定をした

l  日中が全面戦争に入る道を用意したのが華北分離工作だった

Ø  工作を担った中心は、土肥原賢二・奉天特務機関長で、支那駐屯軍参謀長らが動き、河北省と察哈爾省から国民党の機関を排除し傀儡自治政府を作った

Ø  (⇒華北分離工作:35年以降日本、ことに陸軍が華北五省を中国国民政府より切り離して、日本支配下に置こうとする工作で、準満州国化が目的)

l  陸軍は「支那は統一すべきではない」と考えており、板垣征四郎関東軍参謀副長は、日本が中国の個々の地域と直接提携する「分治合作論」を唱えていた

l  中国では、1936年に西安事件が起こり、第二次国共合作へと向かい、抗日気運の高まりは日中間に一触即発の状態を作り出していた

Ø  西安事件:中共軍を包囲していた東北軍の張学良らが「内戦停止」「一致抗日」を要求して、対共対策督促のため西安を訪ねた蒋介石を逮捕した事件。後に蒋介石は解放され、国共話し合いの段階に入る)

l  日中戦争当初、陸軍の中枢は拡大派と不拡大派に分かれた。石原莞爾参謀本部作戦部長は不拡大、部下の参謀課長武藤章は拡大派で田中新一陸軍省軍事課長と連携して、積極的に派兵を推し進めた

Ø  石原は「下剋上」に苦しめられたが、関東軍参謀副長に転出するまでに内地の十三個師団を動員した(一師団12万人)

Ø  (⇒後に東条の方針に反して更迭された石原の不拡大策の背景には、来るべき日米「最終戦争」に勝利するため、という独特の思想があった)

l  陸相の杉山は首都南京陥落後の講和条件をつり上げ,和平のチャンスを潰した。南京攻略を軍中央に強く進言し、総指揮を執ったのが,中央軍方面軍司令官の松井石根だった。攻略時、捕虜や民間人への虐殺や暴行が多発した

 

三国同盟・南進 松岡、大島外交ミスリード

l  米国との戦争は、米国の対日圧迫がもたらした「日本の自衛戦争だった」という主張があるが、日本側の「誤断」が招いた面が強く,日本は自ら隘路にはまり込んでいった

Ø  (⇒主な対日圧迫は経済制裁。414月に英米欄は会議を開き、石油・銅・錫・ゴムなどの対日禁輸あるいは制限措置をとった。日本はこれに中国を加え、ジャーナリズムを利用してABCD包囲網と唱え自衛戦争の正当化を図った)

l  最大の過ちは、日独伊三国同盟の締結(409月)だった。それを推進した松岡洋右外相は、日独伊にソ連を加えた「四国協商」によって米国に譲歩を迫るつもりであった

Ø  しかし、三国同盟は米国に対する軍事同盟となっており,すでに対日経済制裁に踏み切っていた米国を一層硬化させた。しかも、締結当時ドイツは英国上陸作戦を断念し,対ソ戦への転換を模索していた

Ø  駐独大使の大島浩はドイツの勝利を盲信し,偏った情報を本国に送り続けていた。松岡の構想が独ソ開戦で崩れた時、日本は三国同盟を破棄し,対米関係改善に転じることも考えられたが,大島はドイツ有利の情勢判断を流し続けた

Ø  駐イタリア大使の白鳥敏夫は、「革新外交」を唱道し,親独・反米姿勢のため冷静な国際情勢判断を欠き,外交路線を誤らせる結果となった

Ø  海軍は,元々,対米戦争に繋がることを懸念して,三国同盟の締結には抵抗していたが、及川古志郎は賛成に転じた

Ø  陸軍は,第一次近衛、平沼騏一郎両内閣の時から三国同盟を推進していた。消極派の米内光政内閣を潰すため,軍部大臣現役武官制を利用して畑俊六陸相に辞表を提出させた。武藤章軍務局長らが背後で動いていた

l  三国同盟と並ぶ過ちは、南部仏印(フランス領インドシナ)進駐(417)であった

Ø  米国は,日本の南方進出に神経をとがらせ,幾度も警告を発していた。進駐直前、野村吉三郎駐米大使は石油禁輸の可能性を打電していた

Ø  南部仏印進駐を主導したのは海軍だった。軍令部総長の永野修身は進駐を強く主張した。蘭印(オランダ領東インド)の石油を軍事的に奪取するなら,英軍基地のある英領マレーを攻略する必要がある。そのために南部仏印に基地を設けることが不可欠というのが、永野の発想だった

Ø  米国が英国支援のために、欧州戦争に参戦しようとしている中、「対英」戦争が「対米」戦争に発展する恐れがあるのは明白だった

l  永野判断に大きな影響を及ぼしたのは、親独・反米傾向が強い海軍の中堅幕僚だった

Ø  「米国相手でも負けはせぬ」と息巻く彼等のリーダー格が、軍務局第2課長(国防政策担当)の石川新悟だった

Ø  石川は対米開戦判断の重要な要素である物的国力判断でも、米国の国力を過小評価した

l  三国同盟は松岡らが,南部仏印進駐は永野らが、それぞれ主導したが、これらを国策として最終決定し,対米戦争へと誘引したのは時の首相、近衛文麿だった

 

日米開戦 東条「避戦の芽」葬り去る

l  日本の国力で対米戦を戦えるのか―――という冷静な判断力を失ったまま,どうして、日米戦争に突入したのか

l  主戦派は陸軍では、参謀総長杉山元、参謀次長塚田攻、作戦部長田中新一。中堅幕僚では、服部卓四郎作戦課長、佐藤賢了軍務課長、等。海軍では、軍令部総長永野修身、中堅幕僚では、石川信吾軍務局第2課長,等

l  内心では不安を抱きつつ主戦論者に引きずられた者たちもいた

Ø  及川古志郎海相は、東条に問いただされると米軍に勝てる自信は無いと答えた

Ø  及川海相の後任の嶋田繁太郎や海軍軍務局長らも確たる信念を示さなかった

l  海軍軍務局長の岡敬純は、陸軍省軍務局長武藤章が「海軍は戦争を欲せず」と表明すれば陸軍も従う,との提案を蹴った。ここに一つの避戦チャンスが潰れた

l  開戦一年前、1940年暮れから第二次近衛内閣は戦争回避へ米国との交渉を始めていた

l  三国同盟締結という危うい賭けに出た松岡外相は、19414月にスターリンとの間で日ソ中立条約を結び,日本外交に亀裂が生じた(松岡の行動は戦争回避とは相容れない)

Ø  (⇒日ソ中立条約は、相互不可侵と第三国による軍事行動の対象時は双方中立)

l  松岡は,民間主導の日米交渉に強く反発し,陸軍は中国からの撤兵という和平条件に強く反対して,日米交渉は暗礁に乗り上げた

l  近衛は松岡を更迭してルーズベルト大統領との直接交渉で打開を目指したが,東条陸相の猛反対に遭って4110月、まともや政権を投げ出した

l  近衛の後継首相に東条陸相が就いた。東条を推したのは木戸幸一内大臣だった

Ø  木戸は第二次近衛内閣以降首相選びに深く関与していた

Ø  木戸は,天皇の意思として,改選方針の白紙還元を東条に伝え,東条は一転「避戦」に向かう

Ø  しかし、東条は任務を果たせず、東条の推薦は木戸の誤算だった。主戦論の強い同じ顔ぶれで議論しても事態は変わらなかったのだ

l  戦時経済体制の調査・立案責任者であった企画院総裁鈴木禎一は、蘭印の石油産地占領の合理性を否定していたが、開戦直前に前言を翻した

Ø  近衛内閣当時の鈴木は「蘭印の石油産地を占領しても破壊されるので,石油の入手は困難」と報告

Ø  ところが開戦直前の国力判断で鈴木は、石油は「辛うじて自給可能」とし、開戦した方が「国力の保持増進上有利なりと確信する」と主張した

l  開戦決定の主な責任は,天皇を補弼する立場にあった首相の東条をはじめ、外相の東郷茂徳、蔵相の賀屋興宣らの各閣僚らに帰される。ただ、東郷や賀屋は、閣内で「避戦」を強く主張していた

l  一方海軍はハワイ作戦の準備を進めていた。連合艦隊司令長官山本五十六は、投機的とも評される真珠湾攻撃に打って出た

Ø  真珠湾攻撃の際、対米通告が現地大使館の不手際で遅れ、「卑劣な日本人」という対日非難を生むことになった

 

戦争継続 連戦連敗を ”無視“した東条、小磯

l  日本軍は,無謀な作戦を継続した。なぜ、戦局の転換点を見過ごしてしまったのか

l  最初の大きな躓きは,19426月のミッドウエー海戦だった

Ø  主力空母四隻と航空戦力の大半を喪失し太平洋の制海・制空権を一挙に失った

Ø  福留繁作戦部長はじめ海軍は敵空母の出現を予測しておらず、真珠湾の勝利に奢り、米軍を侮っていた

l  さらに、米軍の本格的な反攻時期の判断を誤ったまま,ガダルカナル島奪還作戦(428月~432月)に突入した

Ø  山元参謀総長は、兵力の逐次投入という愚を犯した

Ø  田中新一作戦部長は,補給を巡って東条英機首相を「バカヤロー」とどなりあげていた(⇒欠陥幕僚の一事例)

l  制海・制空権失った日本軍は、食料・武器・弾薬等の海上輸送は難しく、もはや対米戦争の継続が困難なことは明らかであった

Ø  「統帥」に対する不信感から,東条は442月、建軍以来のルールを破って参謀総長を兼務し,嶋田繁太郎海相にも軍令部総長を兼ねさせた

Ø  しかし、4477日、サイパン島をはじめとするマリアナ諸島が陥落し、「絶対国防圏」は崩壊した

Ø  大本営陸軍部第二十班(戦争指導班)は、「帝国は作戦的に大勢挽回の目途はなく,逐次じり貧に陥るから速やかに戦争終末を企図すべき」と結論づけた

l  ようやく東条内閣更迭の気運が高まり、44718日、東条首相は退陣した

Ø  東条体制を支えていた、杉山参謀総長、陸軍の佐藤賢了軍務局長、海軍の永野修身軍令総長、岡敬純軍務局長らは、勝利の成算なく戦争完遂を謳っていた

l  東条の後継内閣が,戦争指導班の厳しい現状認識を真摯に受けとめることが出来れば、ここは戦争を終結させる好機だったといえる

Ø  ところが、小磯国昭首相は、戦争終結に向けた真剣な議論を行わなかった

Ø  フィリピンでの対米決戦に勝利して米国との交渉を有利に進めたいとする「一撃講和論」の小磯は、捷号作戦とその後の本土決戦を決意する

Ø  小磯が新設した44819日の最高戦争指導会議には、梅津美智郎参謀総長、杉山元陸相、及川古志郎軍令部総長らが出席し、「戦争完遂」「重大事局を克服突破」といった勇ましい言葉ばかりが飛び交っていた

l  4410月、フィリピン・レイテ島での陸海戦で大敗し,海空戦力の大半を失った。451月、大本営陸海軍部は、沖縄と本土での最終決戦を決意する

Ø  この段階で,硫黄島の玉砕(戦死者2800)、沖縄戦(同188千人)の悲劇を回避する道は閉ざされた、と言える

 

特攻・玉砕 「死」を強いた大西、牟田口

l  無謀な継戦で戦力を失った延長線上に打ち出されたのが,生身の人間が爆弾と化して敵艦などに体当たりする「特攻」だった

Ø  大本営陸海軍部は、447月、「敵空母及び輸送艦を必殺する」との方針を打ち出した

Ø  4410月初旬、統帥の責任者の軍令部総長及川古志郎、軍令部次長伊藤整一軍令部作戦部長中沢佑、そして、マニラ第一航空艦隊司令長官への着任が決まっていた大西滝次郎らが顔を揃えた

§  大西「第一線将兵の殉国、犠牲の至誠に訴えて,体当たり攻撃を敢行するほかに良策はない」と発言した

§  及川「涙を呑んで申し出を承認します。ただし、実行に当たっては,あくまで本人の自由意志によって下さい」と了承した

§  大西は米内光政海相に、「特攻を行って,フィリピンを最後の戦いとしたい」と言い残し、マニラに赴任した

Ø  大西は,第一神風特別攻撃隊を編制し,441025日、関行男大尉を指揮官とする13人の攻撃隊が、敵機動部隊に突入した

§  フィリピン決戦は451月まで続き航空特攻による戦死者は焼く700人に上った

§  しかし、フィリピン決戦に敗北したにもかかわらず,大本営陸海軍部はその直後、「陸海軍全機特攻化」を決定する

l  「特攻」攻撃から溯ること一年余り前から、陸海軍共に、各種の「特攻」が検討・準備されていた

Ø  43年(昭和18年)8月、軍令部第2部長(軍備担当)の黒島亀人は、海軍首脳等を前に,航空特攻の必要性を強調した

Ø  同じ頃、侍従武官の城英一郎も、航空特攻の決行を大西航空本部総務部長に請願した

Ø  以後、黒島と作戦部長の中沢等を中心に、海軍は,有人爆弾「桜花」、人間魚雷「回天」など特攻兵器の開発を続け,449月には「特攻部」を設立し、特攻をシステム化させてしまった

Ø  陸軍も443月、航空総監に後宮淳が就くと航空特攻の検討が本格化した。沖縄戦では、陸軍第6航空軍司令官菅原道大が旗振り役となり,体当たり攻撃が作戦の主役となった。終戦まで特攻で散った命は九千五百余りに達した

l  一方、南方などの戦地では「玉砕」が相次いだ。そして、この無責任と人命軽視の象徴が,443月からのインパール作戦だった

Ø  太平洋の孤島で孤立する守備隊に対し,大本営作戦担当者は「増援せず,撤退は認めず,降伏も許さない」という態度を,終戦まで変えようとしなかった

Ø  インパール作戦の戦闘に参加した十万人の兵士の内、七万二千五百人が死傷した作戦の異常さは、「第一線は撃つに弾なく、・・・傷病と飢餓のために戦闘力を失うに至れり。・・・軍と牟田口の無能のためなり」と、山内正文第十五師団長が発した電文に尽くされている

Ø  部下の反論に耳を傾けず,執拗に作戦の実施を迫った第十五軍司令官牟田口廉也の責任は重いが、これを抑止しなかったビルマ方面軍司令官河辺正三、作戦を許可した南方軍や大本営も問題が多い

 

本土決戦 阿南、梅津徹底抗戦に固執

l  ポスト東条の小磯政権は,結局,「一億総武装」を唱えて多くの将兵の死を生み、沖縄戦の道まで用意して454月、退陣した

l  その後も、沖縄戦で多大な犠牲を生み、ソ連の参戦も招いて、米国による2発の原爆に打ちのめされる。しかし、それでも尚,本土決戦で死中に活を求めたい,という軍人が存在した

Ø  米内海相は4589日深夜の御前会議で、「国体護持」のみを条件にポツダム宣言を受諾するという東郷外相の案に賛成した

Ø  これに対して,陸相の阿南惟幾は、「この際は宜しく死中に活を求むる気概を以て,本土決戦に邁進するを適当と信ずる」と説いた(高木宗吉海軍少将の首記『終戦覚書』弘文堂)

Ø  参謀総長の梅津美治郎と軍令部総長の豊田副武も、「必勝を期する確算はないが、必ず敗れるとも断定できぬ」と,本土決戦への決意を述べた

Ø  海軍の強硬派だった大西滝治郎軍令部次長はこの日(御前会議),阿南に対し、「米内は和平ゆえ。心許なし」として陸相の奮戦を期待したい、と頼んでいる

l  大本営は、国民こぞって徹底抗戦に出て,上陸してくる敵に一撃を耐え,有利な条件を持って講和の道を探ることこそが戦争終結への道、という考えだった

Ø  米軍の本土侵攻に備えて陸軍三百五十万,海軍百五十万の配備を計画していた

Ø  本土決戦のための人事で陸軍省軍務局長に就任した吉積正男は、参謀本部の宮崎周一作戦部長に「勝利の目途如何」と質問している。宮崎の答えは「目途なし」だった

Ø  作戦の責任者が「勝つ見込みはない」と言い切ったこの時、国民は竹槍で米兵と戦う訓練を強いられていた

l  本土決戦を唱えた河辺虎四郎参謀次長は,日記に次のように記していた

Ø  「唯々、『降参はしたくない。殺されても参ったとは云いたくない』の感情のみ」(ポツダム宣言の受諾が決まった八月十日)

Ø  「自惚れ心、自負心、自己陶酔、自己満足・・・」の軍人心理が「今日の悲運を招来したるなり」(八月十一日)

l  阿南も河辺も、降伏が決まった後は平静に保とうと心を砕いた

Ø  阿南は45815日に自決した(天皇の戦争終結宣言の日)

 

原爆・ソ連参戦 東郷“和平”で時間を空費

l  4547日に、鈴木貫太郎内閣が発足したが、政府は自ら昭和戦争を終結に導くことは出来ず、天皇の聖断でようやく終結した(815日の所謂「玉音放送」)

Ø  最高戦争指導者会議のメンバーは、鈴木貫太郎首相、東郷茂徳外相、梅津参謀総長、豊田軍司令部総長、阿南陸相、米内海相

l  早期和平派の東郷茂徳は、仮想敵国ソ連に和平仲介を頼むという愚策をとった

Ø  東郷は、ヤルタ会談(452月)でソ連が対日参戦を英米と密約したことは知らない

Ø  45日、ソ連は日ソ中立条約不延長を通告。軍部は本土決戦を危うくするとソ連参戦防止の外交努力を外相に依頼するが東郷は「既に手遅れ」と答える

Ø  東郷は同時に、軍部の要請を利用してソ連に和平仲介を試みようと考えた(他に選択肢がない状況下ではこれも致し方なかろう)

Ø  東郷が攻められるべきは、対ソ交渉に時間を空費したことであった

§  東郷は、広田弘毅元首相によるマリク・ソ連大使との交渉に賭けたが、会談は63日開始から724日に中断するまで成果なし

§  ソ連の回答を待った結果、726日のポツダム宣言受諾が遅れる

§  その結果、86日に広島に原爆投下、89日に長崎に原爆投下、ソ連の対日参戦(⇒ソ連の参戦で、軍部の前提が崩れた)

Ø  (⇒ソ連の対日参戦:88日、モトロフ外相は佐藤尚武大使に、ポツダム宣言拒否などを指摘し明日9日に戦争状態に入ることを通告した。大使の本国への電報は届かず日本側は翌日のラジオ放送で知ったが、既にソ連軍は満州方面から一斉に侵攻が開始された)

l  最高戦争指導者会議の六人の内、米内と東郷とともに和平派であった鈴木貫太郎首相の指導力にも疑問符が付く

Ø  鈴木は東郷や米内に、和平派であるその自分の腹の内を見せなかった

Ø  66日の最高戦争指導会議では、資料「国力の現状」が配られ、日本は既に戦争遂行能力を失った事実が報告された。だが、国民の精神力を高めるといった処置をとれば、戦争継続は可能とする戦争指導大綱を決めただけだった

Ø  68日の御前会議でも異論は出ず、豊田軍令部総長上陸時における敵の損害見込みの数字を都合の良いように改竄し報告していた

Ø  阿南は、これらの会議ではほとんど発言していない。早期和平に傾きつつあったとも考えられるが、具体的な行動には出なかった

l  鈴木はポツダム宣言の対応でも、大きな過ちを犯した

Ø  閣議では東郷が、宣言は拒否せず、少なくともソ連の返事が車で回答を伸ばすよう提案した。梅津、豊田は反発したが、結局、政府は宣言への意思表示はしないと決めた

Ø  しかし、鈴木は、大西瀧治郞軍司令部次長らの圧力もあって、記者会見でポツダム宣言は「黙殺するのみである」と述べてしまう。この発言が原爆投下、ソ連参戦の口述に使われた

l  そして、木戸幸一内大臣とはかった鈴木首相が、結論を出さずに天皇に上奏し、聖断を二回も仰いで、昭和戦争はようやく終結した

Ø  (⇒89日午後1130に宮中地下防空壕にて開かれた御前会議において、天皇は国体護持の一条件だけでポツダム宣言を受諾すると決定した

Ø  (⇒この決定は翌日10日に中立国政府を通じて連合国側に伝えられ、即日トルーマンはホワイトハウスに緊急会議を招集し、日本側の回答を審議した)

Ø  (⇒その結果、の連合国側回答文には明示的には天皇制の存在を認めていないが、国民が望むなら占領後も天皇制が存続しうることを暗示したものだった)

Ø  (⇒連合国の回答に接して、軍部強硬派はなお継戦の意思を表明し、梅津・豊田は受諾絶対反対の上奏を行うとともに、参謀総長と陸相は連名で各軍に「断固継戦」の電報を打った)

Ø  (⇒しかし、814日の御前会議で天皇は再度の「聖断」によってポツダム宣言受諾を決定し、翌815日正午、ラジオを通じててんのうは「終戦の詔勅」を放送した。トルーマンはこの日本の回答を「日本の無条件降伏を明確に定めたポツダム宣言の完全な受諾と考える」と声明した)

 

下巻 第8章 「昭和戦争」から何を学ぶか

 

「検証・戦争責任」の作業では、いったい、何を誤ったのか―――検証に区切りを付けるにあたり、次代のために、その過誤を総括したい

 

l   国際情勢、読み誤る

l   幕僚政治 責任不問で弊害噴出(⇒幕僚:指揮官に直属して参謀事務に従事するもの)

l   議会 戦争を無批判に追認

l   世論形成 新聞、報道の使命放棄

l   人命・人権の軽視