12世紀始めは、日本列島の政治構造が大きく変換する画期をなしていた。律令国家が目指した法治主義と公地公民思想に基づく統治が、現実に即してその実態が
ジャスミーナ |
院政が中世を通しての朝廷最高政治権力となり、口分田など消滅して荘園公領制という奇妙な土地制度や、財を生み出す人々や彼等を現地で束ねる人々が歴史に登場してきた現実の底流の根幹には、「私」の力の勃興があるのではないだろうか。中世の定義は世界的に共通して、政治権力分散、土地支配の重層化、軍事専門家層の社会的優越、だそうなので、よく合致している。
都に住んで国の政治に参加してる人数はppmオーダーでしかなく、定員もあるだろうから、天皇家にしろ摂関家にしろ、沢山生まれる子どもたちの内でそのppmに入れない人たちはどうするのかという基本的疑問がある。彼等を「貴種」と呼び、その特性を想像すると、教育を受けて知識がある、栄養が良いから体力があるし見栄えもする、人々から崇められる(もしそうでないなら、秩序が崩壊している)、財がある、血統での繋がりがある。となれば、地方のリーダーとしての需要はあるし、彼等もそこで権力と財を手に入れられる。地方だって、古代よりそこで生業を立てている豪族、百姓たちがいる。だから皇族を始祖とする源氏や平家、天皇の外戚となり皇室と権力を分有した藤原氏、みな「家」としてグループ化した実力集団と存在していた。
上皇の寵愛がポイントとなる院の政治は当然不透明で正統性はなくなり、院内は外戚を含めて葛藤と矛盾のるつぼとなる。権力継承ルールが直系父子になったのは、公的観点(天智天皇の遺言「不改常典」)とは真逆な私的動機であり、さらに皇室が摂関家から権力を剥奪しようと試みたのだろう。結果は、武士政権である鎌倉幕府によって朝廷の権力が奪われることになるのだが、これが完全とはならず、現代まで継続している不思議は興味津々だ。
平家の盛衰は「平家物語」としてよく知られているように、ドラマチックなものだ。12世紀初頭に白河院の私兵、北面の武士、院の近臣として台頭してきた伊勢平氏が、半世紀後の清盛の時代に摂関家や政治権力としての源氏を凌駕するのみならず、天皇家の最高政治権力をクーデターで奪取したが、そのわずか20年後には鎌倉幕府によって滅亡した。やはりここで興味を引くのは、清盛のプランを想像することだろう。つまり、旧来の貴族政治ではない、内政だけではなく国際経済と結びついた新しい世界を、しかも、武力としての源氏内部の血生臭く乱暴な実力世界とは一線を引いた、日本の貴族精神文化も取り入れた世界を、構想していたように見えるからだ。
ところで、平氏が清盛の死後かくもあっさりと源氏に敗れたのは何故だろうか。「奢る平家は久しからず」という言葉は、慢心するなかれという戒めとして良く聞かれてきたが、歴史の教訓としては明らかにミスリードだろう。平治の乱で清盛に命を救われて伊豆に流された頼朝少年が、彼の地で文・武・色と三拍子揃ってスクスク育つものだろうか。さらに、バラバラな源氏をまとめて、諸側面で圧倒的優勢な平氏を打倒しようと思うものだろうか。しかも、平氏で北条家創始者の時政の娘・政子が頼朝に惚れて妻となり、やがて北条氏が幕府の権力を掌握して朝廷を凌駕していくのだが、これは偶然か必然か。
※本書の読書メモは下記別ブログでまとめたから、興味があれば読んでみてね。
爺~じの日本史メモ: 岩波講座 日本通史07巻(中世1 12~13世紀の日本-古代から中世へ)通史 石井進 (gansekimind-nihonshi.blogspot.com)
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