自己紹介

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1946年9月、焦土と化した東京都内にて、食糧難と住宅難と就職難の中、運良く生き抜いた両親の新しき時代の一発目として生を受けるも、一年未満で感染症にて死にかける。生き延びたのは、ご近所に住む朝鮮人女性のもらい乳と父親がやっと手にした本の印税全部を叩いて進駐軍から手に入れたペニシリンのおかげであったらしい。ここまでは当然記憶にない。記憶になくても疑えないことである。 物心がついた頃には理系少年になっていた。それが何故なのか定かではないが、誤魔化しうるコトバより、誤魔化しえない数や図形に安堵を覚えたのかもしれない。言葉というものが、単なる記号ではなく、実は世界を分節し、意味と価値の認識それ自体をも可能にするものであることに気付きはじめたのは50歳を過ぎてからであった。 30年間程の企業勤めの後、現在は知の世界に遊ぶ自称哲学徒、通称孫が気になる普通の爺~じ。ブログには庭で育てている薔薇の写真も載せました。

2024年5月9日木曜日

『ガザとは何か』それはイスラエル国内にあるパレスチナ人の強制収容所である

 『ガザとは何か』(岡真理著 大和書房 2023年)

ピース
 パレスチナ問題を知るためにはこの本が良いと思う。すべて現実を知ることから始まり、ファクトの上で判断をしなければならない。ガザ地区とはまさに「強制収容所」なのだ、イスラエルは自分たちユダヤ人が被った悲劇を他者に行っている。先ずはこのことを知ることによって、それが何故なのかを問うことになる。今回の出来事はハマスの非道なテロ事件が発端で起きたのだとマスコミでも報道されている。そのテロ根絶を理由にイスラエルはガザ地区のハマス攻撃のために空爆をしている。だが、その結果起こっているのは、現代のイスラエルという近代国家(とあえて呼ぼう)において、アメリカの庇護の下に、パレスチナの民間人、子供も含む非戦闘員が死傷している。彼等はガザ地区という「強制収容所」に閉じ込められて理不尽に死んでいる。この事実を知ることが問いの始まりとなる。そして、問いの先には「パレスチナ問題」がある。


『君のお金は誰ため』(田内 学)元トレーダーのまっとうな感覚に共鳴

芳純
  先回から4ヶ月も経ってしまった。此の間10冊ほど通読していたが、アップロードが面倒でサボっていた。

 世代が交代しつつある。結構若い元トレーダーが、経済学の根本を、面食らうほどまっとうに書いてある本が売れるとは。この本は、お金って何?という問いをもった人には改めて考える視点を与え、子供達に金融教育が必要という向きには、スキルの前に意味を教えるための副読本として薦めたい。

 私風に本書を纏めると以下のようになる。

 社会は、その構成員達が働くことによって、お互いが必要な物やサービスを作り出したり、それぞれの抱えるる問題を解決し合ったりすることで成り立っている。人類は、歴史と通して、そのような営みを可能とする媒体として貨幣を生み出した。貨幣が有用となる前提は、社会のあり方を理解し、よりよい方向にする意思を持ち、各自が役立っているという自覚をもてることだ。この前提が崩れれば人々はお金の奴隷となり、貨幣も役目を果たせなくなり経済は破綻し、同時に社会も崩壊することになる。

2024年1月7日日曜日

加藤典洋『敗戦後論』を今頃ゆっくり読んでみた、読書感想文

ピエール・ドゥ・ロンサール
 “戦後とは何か。それは、敗戦によってすべのものがあべこべになった、「さかさまの世界」である。そして、それが、誰の目にも「さかさま」には見えなくなった頃から、わたし達はそれを、「戦後」と呼び始めている” 著者のこの意識が捉えているものは何だろうか?

 「ねじれ」という独特のキーワードが出てくる。これは、事象の核心に迫ることを何故か邪魔するような存在を表現したコトバのようだが、その意味は文学的でなかなか捉えにくい。まず、「義」のない戦をした敗戦国は、その後「ねじれ」た時間強いられるのだ、という言い方で出てくる。以後、天皇の戦争責任、日本国憲法、戦死者の追悼、他国への謝罪、冷戦下の外交、等々、「われわれ」の国家存続に関わる根本的問題に対する議論の場面において発生してくる奇妙な政治・社会現象に対して、著者はこの「ねじれ」というコトバを用いて説明を続けていく。 

 「戦後」というコトバについては、その本質は、ジキル氏とハイド氏のような人格的分裂にあるのではないか、と表現をしている。もちろん、戦争は第二次世界大戦のことだが、この戦争は日本の「侵略戦争」だと明確に位置づけられている。つまり義のない戦争だったから、人格的分裂を起こし、ねじれた戦後が半世紀経っても巻き戻らないのだ、と。

  もう一つ「汚れ」というキーワードが出てくる。義のない戦争であったことでその死が無意味となってしまった同胞兵士の死を弔うことさえ出来ない、日本の侵略戦争で死んだ2000万人とも言われているアジアの人々に対する謝罪も出来ない、このような現象が生じているのは、「ねじれ」ているからで、それは死を弔うという人間社会の根源的営みもできなくするのだと。そして、この種の「ねじれ」の根底には「汚れ」と呼ばれるようなもの、つまり「悪」があって、その汚れた己を恐ろしくて見ることが出来ないから「ねじれ」が生じるのだと、著者は言っている。そして、「わたし達に残されている道は、汚れた場所からつまり悪から善を作り出さねばならない外部のない道だ」と表現する。

  著者は本書の最後を、『俘虜記』『レイテ戦記』の著者である捕虜経験兵士の大岡昇平を「戦後というサッカー場の最も身体の軸のしっかりしたゴールキーパーだった」と評価し、次のような文章で締めくくっている。“1945年8月、負け点を引き受け、長い戦後を、敗者として生きた。きっと、「ねじれ」からの回復とは、「ねじれ」を最後まで持ちこたえる、ということである。そのことの方が、回復それ自体より、経験としては大きい。” 

 考察の基本となる事柄、事象の主なものは、さまざまな戦中記録、日本国憲法、戦争責任、靖国問題、謝罪問題、反戦活動、論壇の風景、文学界の風景、等々。それらの事柄に関する、思想家、評論家、文学者、学者などの認識の仕方・考え方を紹介しながら対比し、自説を語っている。その語りの中で一貫しているのは、史実に忠実であろうとする態度(勢い余った重大な史実誤認を訂正して注記した箇所があった)と、もう一つ、「ねじれ」認識の有無という独特の指標だ。ねじれ認識ありの人を自覚派と呼べば、もちろん自覚派は少数となる。単純にし過ぎると問題ありだが、事柄・事象ごとに自覚派と無自覚派が記載されている。それらの事柄・事象に対する両派の論理やそれを踏まえた著者の見解はそれぞれ面白い。以下に、印象に残った所二カ所を挙げてみる。

  一つは、新憲法に反対した美濃部達吉の主張。美濃部は、連合国最高司令官マッカーサーがそれを見て占領軍司令部の憲法案を「押しつける」以外はないと決断させた、所謂「松本私案」の内容を作成した憲法学者で、もし、他国の占領下において新憲法を作ることを受け入れるのであれば、次善の策として憲法案の第一条に「日本帝国ハ連合国ノ指揮ヲ受ケテ 天皇之ヲ統治ス」とすべき、主張した。美濃部は、日本国が主権を回復後に自国民が自らの手によって新憲法を制定しなければならないと考えていたのは明らかであろう。美濃部を批判した無自覚派には家永三郎、松尾尊兊(たかよし)、が挙げられており、批判の視点はそれぞれ違うが無自覚派という点では共通している。その後、「護憲派」と「改憲派」間の論争が不毛なものである理由が「ねじれ」にある、ということよく分かる。尚、1945/9/2(戦艦ミズリー艦上でのマッカーサー演説)から翌年11月3日の公布にいたる憲法制定プロセスを良く見てみると、占領下での憲法であったことがよく理解できる。

  もう一つは、『戦艦大和ノ最後』(吉田満)に出てくる21歳の白淵大尉の発言記録。生きては帰れぬことを覚悟して、いわば特攻出撃した戦艦大和の士官室内で青年士官達の間で自由討議の場が出現した。その場で、この作戦は軍事的に無意味だという点では全員が一致したが、一人の士官白淵大尉の発言が記録されている。「進歩ノナイ者ハ決シテ勝タナイ 負ケテメザメルコトガ最上ノ道ダ 日本ハ進歩トイウコトヲ軽ンジスギタ(中略)敗レテ目覚メル、ソレ以外ニドウシテ日本ガ救ワレルカ 今日目覚メズシテイツ救ワレルカ 俺タチハソノ先導ニナルノダ」、と。著者は、わたし達だけではなくこの戦で無意味に死んだ死者達も、わたし達のもとでは二様の死者として分裂している。だから、戦後にセットで行うべきである謝罪と鎮魂をできていない、と認識し、この分裂を乗り越える道はどこにあるのだろうと、問うている。その問いに答えるヒントが、白淵大尉の上記記録にあるという。つまり「たとえ一人(白淵)であれ、わたし達がこのような死者をもっていることは、わたし達にとって、一つの啓示ではないだろうか。死者は顔をもたなければならないが、ここにいるのは、どれほど自分たちが愚かしく、無意味な死を死ぬかを知りつつ、むしろそのことに意味を認めて、死んでいった一人の死者だからである」、と。この啓示は何だろうか?。

2023年12月7日木曜日

ジュディス・バトラー『分かれ道 ユダヤ性とシオニズム批判』の摘み読み感想文

ベルサイユの薔薇
 本書は、哲学的サークル「わっちらす」の第85回定例読書会のテキストとして担当の方が選定したもので、全部で500頁もある。そのため、当日彼女が取り上げた章は「はじめに」を含めて四つ(はじめに、一章、五章、六章)。私の通読した部分もこの箇所だけ。この感想文は、彼女の素晴らしいレジュメの助けを借りて書くことが出来た。

著者は1956年生まれのユダヤ人哲学者で、特にフェミニズムの領域では著名であることは知ってはいたが、今回はじめてその思想に触れてみて、またちょっと無知を埋めることが出来た。折しも、パレスチナで勃発したハマスとイスラエルとの悲惨な戦闘という現実が、「どうしてこんなことになるのだろう」という問いを発生させていたことも、本書読む動機を強めていた。

印象的であった著者のテーゼを私風に書いてみると「ユダヤ性はシオニズムというイデオロギー批判を可能にする」というものだ。この言葉は著者のオリジナルではなく、特にサイードやアーレントの思想を取り入れて発展させているように見える。そして、この発展は時代の現実が要請するものだろう。この現実とは、ナチスのホロコーストが契機となり、西欧近代がパレスチナの地にイスラエルという人工的国家を出現させたことだろう。人は地上で共存するほかはなく、誰と共存するかは選べず、その現実は国家という理念より前にあったのだが。ユダヤ人のディアスポラ(離散)という歴史は、国家より先にあった現実だった。ナルホド。ずっと積ん読になっているアーレントの『全体性の起源』を読破してみるか。


2023年11月16日木曜日

エドワード・サイード

あゆみ
12月に開催される 仲間の読書会で、ジュディス・バトラー『分かれ道 ユダヤ性とシオニズム』が取り上げられるので少し読み始めたら、サイードの考えが著者に大きく影響を与えているようなので、20年程前に通読したサイードの著作『オリエンタリズム』(平凡社)の読書感想文を掲載してみた。

ついでと言っては何だが、パレスチナ問題などに関する著者の短編評論をいくつか集めた『戦争とプロパガンダ』(みすず)のも載せておいた。

『オリエンタリズム』

ACC講座(朝日カルチャー)で、タリバンによって爆破されたバーミアン石仏修復に携わられたペルシャ学者前田耕作先生の懇切丁寧な解説を聞きながらの読書。内容が濃いので整理してからもう一度記載する予定だが、とりあえず以下のようにメモしておく。

上巻では従来のオリエンタリズムについて、下巻では今日のそれについて述べるとともにオリエンタリズムの再考をしている。サイードは、従来のオリエンタリズムというものは西洋の視点で創られたものであり、実在とは異なっていると主張している。その西洋の視点とは、植民地支配という政治を基本にした差別であり、その創り方は主として言語による表象の積み重ねである、と。その主張の根拠を、学的研究から芸術作品に至るまでその著作者の思想に遡り示している。

サイードのやり方は、ある時代にある集団に属する人間が、同時代の他の集団や別の時代の集団を理解する場合に存在する根本的問題点を提起している。それは、理解に対する政治的動機の関与という問題、理解を言語を持ってすること自体が内在する問題、学問自体が文明に従属するという問題、である。

『戦争とプロパガンダ』

比較文学を専門とする著者は、パレスティナ難民ともいえる。この本は米国で発生した同時多発テロ前後に書かれた、パレスチナ問題などに関する著者の短編評論をいくつか集めたものであるが、パレスチナ問題についての本質をパレスチナ人自身の問題と米国に代表される西欧近代国家に潜む問題に分けて考察し、その考察には思想家としての現代人間社会に共通する鋭い感性を感じた。

小生が蛇足的感想を加えるなら、「近代の国家思想の実現は進行中であり、当然修正しながら進むのだが問題はその修正が本質を失わせることにある」ということをこの本は教えているような気がする。著者は先日67歳で病没された。

2023年8月20日日曜日

岩波 日本通史 中世(1)(12~13世紀)読書感想文


12世紀始めは、日本列島の政治構造が大きく変換する画期をなしていた。律令国家が目指した法治主義と公地公民思想に基づく統治が、現実に即してその実態が

ジャスミーナ
100
年ほどで崩壊した後も、その形態の上に天皇家と藤原家の血縁によって強固に結びついた権力構造の下、比較的安定した政治体制が続いていた。しかし、その間に蓄積された知識・財・諸力・諸矛盾は、時代の画期を創出せざるを得なかった。本書におけるキーワードを思いつくままに挙げてみると、上皇の院政、父系権力継承、氏から家へ、荘園公領制、寄進地型荘園、豪族と武士の台頭、経済を担う人々の参入、平家の盛衰、鎌倉幕府の創設、大寺社勢力、仏教と知の蓄積。

院政が中世を通しての朝廷最高政治権力となり、口分田など消滅して荘園公領制という奇妙な土地制度や、財を生み出す人々や彼等を現地で束ねる人々が歴史に登場してきた現実の底流の根幹には、「私」の力の勃興があるのではないだろうか。中世の定義は世界的に共通して、政治権力分散、土地支配の重層化、軍事専門家層の社会的優越、だそうなので、よく合致している。

都に住んで国の政治に参加してる人数はppmオーダーでしかなく、定員もあるだろうから、天皇家にしろ摂関家にしろ、沢山生まれる子どもたちの内でそのppmに入れない人たちはどうするのかという基本的疑問がある。彼等を「貴種」と呼び、その特性を想像すると、教育を受けて知識がある、栄養が良いから体力があるし見栄えもする、人々から崇められる(もしそうでないなら、秩序が崩壊している)、財がある、血統での繋がりがある。となれば、地方のリーダーとしての需要はあるし、彼等もそこで権力と財を手に入れられる。地方だって、古代よりそこで生業を立てている豪族、百姓たちがいる。だから皇族を始祖とする源氏や平家、天皇の外戚となり皇室と権力を分有した藤原氏、みな「家」としてグループ化した実力集団と存在していた。

上皇の寵愛がポイントとなる院の政治は当然不透明で正統性はなくなり、院内は外戚を含めて葛藤と矛盾のるつぼとなる。権力継承ルールが直系父子になったのは、公的観点(天智天皇の遺言「不改常典」)とは真逆な私的動機であり、さらに皇室が摂関家から権力を剥奪しようと試みたのだろう。結果は、武士政権である鎌倉幕府によって朝廷の権力が奪われることになるのだが、これが完全とはならず、現代まで継続している不思議は興味津々だ。

平家の盛衰は「平家物語」としてよく知られているように、ドラマチックなものだ。12世紀初頭に白河院の私兵、北面の武士、院の近臣として台頭してきた伊勢平氏が、半世紀後の清盛の時代に摂関家や政治権力としての源氏を凌駕するのみならず、天皇家の最高政治権力をクーデターで奪取したが、そのわずか20年後には鎌倉幕府によって滅亡した。やはりここで興味を引くのは、清盛のプランを想像することだろう。つまり、旧来の貴族政治ではない、内政だけではなく国際経済と結びついた新しい世界を、しかも、武力としての源氏内部の血生臭く乱暴な実力世界とは一線を引いた、日本の貴族精神文化も取り入れた世界を、構想していたように見えるからだ。

ところで、平氏が清盛の死後かくもあっさりと源氏に敗れたのは何故だろうか。「奢る平家は久しからず」という言葉は、慢心するなかれという戒めとして良く聞かれてきたが、歴史の教訓としては明らかにミスリードだろう。平治の乱で清盛に命を救われて伊豆に流された頼朝少年が、彼の地で文・武・色と三拍子揃ってスクスク育つものだろうか。さらに、バラバラな源氏をまとめて、諸側面で圧倒的優勢な平氏を打倒しようと思うものだろうか。しかも、平氏で北条家創始者の時政の娘・政子が頼朝に惚れて妻となり、やがて北条氏が幕府の権力を掌握して朝廷を凌駕していくのだが、これは偶然か必然か。

※本書の読書メモは下記別ブログでまとめたから、興味があれば読んでみてね。

爺~じの日本史メモ: 岩波講座 日本通史07巻(中世1 12~13世紀の日本-古代から中世へ)通史 石井進 (gansekimind-nihonshi.blogspot.com)


2023年7月29日土曜日

東洋経済より出版された平田竹男さんの「世界資源エネルギー入門」

希望
 副題は「主要国の基本戦略と未来地図」。

この半世紀の間、世界資源エネルギー問題がどのように変わったのかを見てみようと読んでみた。注目点は主に二点、一点はエネルギー構成の変化、もう一つは地政学的視点からの変化。本書も著者も私は知らなかったが、東洋経済オンライン記事に載っていたので買ってみた。なお本書は、著者が早大で行った講義に基づいた記述とのこと。

エネルギー構成の変化が産業の拡大に重大な影響を持つだろうこと(どちらが原因かは興味があるが)、また、地政学的には国力の最も重要な源泉が人口と資源エネルギーであること、それらはいずれも50年前と同じだ。だが、その内容はかなり違っている。その間に現実に生じた大きな変化は、GX(green transformation)の必要性が広く認識されてくるような状況と、意識の上ではその真逆にみえる、近代の劣化という状況、に見てとることが出来そうである。以下、この半世紀間の変化について、本書の記述から幾つか記憶に残ったところを想い起こしてみた。

  • 世界全体のエネルギー構成は、減少気味ではあるが相変わらず化石燃料が中心で、原子力は想定されていたよりも伸び悩み、再生可能エネルギー(要するに太陽エネルギーの循環に人間社会が乗ること)が思いの外増加してきている。
  • 化石燃料供給力のトップはロシアであり、二番手は米国である。この二国がダントツで、石油の上に浮いていると言われていた中東ではない。欧州の北海を含めてその他いろいろな地域から海上油田・ガス田を含めてoil&gasが採取されている。米国が自給のみならず輸出するほどダントツなのは、堆積岩層内のoil&gasを採取可能にした技術による。探査・掘削・採取等の技術がそれらの化石燃料のコストを下げた分だけ、供給可能になるという現実は変わらず、近代が劣化しようとしまいとこれからも変わらないだろう。つまり、そのコストは誰がどこでいつどうやって決めるのか、が核心だ。
  • 需要のダントツは中国で、二番手は米国である。人口や工業化の観点で見れば中国の状況が予測通りであるほか、今後インド、ASEAN、や最近の言葉で言えばグローバルサウスの国々の需要増は明らかだろう。国際協調の枠組みが化石燃料の採取の制限を可能にしない限り、GXなどは絵に描いた餅だということは本書のデータから容易に予測できる。
  • 地政学の問題は三つのE(Energy security,Enviroment,Economic efficienncy)の視点で考えると良いと著者は指摘しているのはもっともだが、同時に、具体的な国家戦略における優先順は国家の都合により異なり、かつ三つのEは相互に関係しているとも指摘してる。では、日本国はどうするのか、について考えるネタを本書から読み取るなら、それはGXだろう。
  • ヨーロッパの人々はロシアの天然ガスパイプラインによって今まで生活が出来ていたが、ロシアのウクライナ侵攻によって突然先が見えなくなってきた。ロシアの天然ガスの恩恵を最も受けてきたドイツはたちまち脱原発政策の変更を余儀なくされている。フランスは原発が電力供給の中心であることは変わらない。イギリスはロシア産天然ガスの依存度が低く、エネルギーの自給率も高いので当面(数十年か)は大丈夫だろう。
  • 原発については、現時点では米国、フランスについで中国が三番目に多い。建設中は中国がダントツに多い。米国のスリーマイル、ソ連のチェルノブイリ、そしてそれらに続いて起こった日本の福島の事故は決定的な影響を世界に、特に欧州においてもたらしたのは周知の事実だが、欧州においてはロシアのウクライナ侵攻を受けて、地政学的視点から、新たな現実が生じつつある。新型炉開発は、中国、インド、ロシアが世界をリードしている。
  • 再生可能エネルギーが思いの外増加しているのは、GXの流れの一環だが、注目すべきは、再生可能エネルギーの製造設備を担っている中心は中国企業であることだ。これは今後のエネルギー需要の伸張地域としてだけでなく、地政学的見地からも興味あることだろう。
  • 最後に、本書のデータから、再生可能エネルギー(要するに太陽エネルギーの循環に人間社会が乗ること)が持続的可能エネルギーとして可能になる条件は、人類の知識を利用しつつ、対立ではなく共感へ、人類の驕り高ぶった意識をより謙虚な意識へ、と向かうように配慮し続けるほかはない、というのが私の感じ。現代は、科学の合理性の価値に気付かざるを得ない機会が与えられた画期であった、と後世の歴史家に認められるようになったらいいね。