『ガザとは何か』(岡真理著 大和書房 2023年)
ピース |
孫達が読書を好きになりますように♪ 文字通り、読書の日記です。時々感想も書きました。新しく読んだ本だけでなく、昔読んだ本についても思いだして書いてあります。 自分の無知を、読書で埋めることは楽しいですね
『ガザとは何か』(岡真理著 大和書房 2023年)
ピース |
芳純 |
私風に本書を纏めると以下のようになる。
社会は、その構成員達が働くことによって、お互いが必要な物やサービスを作り出したり、それぞれの抱えるる問題を解決し合ったりすることで成り立っている。人類は、歴史と通して、そのような営みを可能とする媒体として貨幣を生み出した。貨幣が有用となる前提は、社会のあり方を理解し、よりよい方向にする意思を持ち、各自が役立っているという自覚をもてることだ。この前提が崩れれば人々はお金の奴隷となり、貨幣も役目を果たせなくなり経済は破綻し、同時に社会も崩壊することになる。
ピエール・ドゥ・ロンサール |
ベルサイユの薔薇 |
著者は1956年生まれのユダヤ人哲学者で、特にフェミニズムの領域では著名であることは知ってはいたが、今回はじめてその思想に触れてみて、またちょっと無知を埋めることが出来た。折しも、パレスチナで勃発したハマスとイスラエルとの悲惨な戦闘という現実が、「どうしてこんなことになるのだろう」という問いを発生させていたことも、本書読む動機を強めていた。
印象的であった著者のテーゼを私風に書いてみると「ユダヤ性はシオニズムというイデオロギー批判を可能にする」というものだ。この言葉は著者のオリジナルではなく、特にサイードやアーレントの思想を取り入れて発展させているように見える。そして、この発展は時代の現実が要請するものだろう。この現実とは、ナチスのホロコーストが契機となり、西欧近代がパレスチナの地にイスラエルという人工的国家を出現させたことだろう。人は地上で共存するほかはなく、誰と共存するかは選べず、その現実は国家という理念より前にあったのだが。ユダヤ人のディアスポラ(離散)という歴史は、国家より先にあった現実だった。ナルホド。ずっと積ん読になっているアーレントの『全体性の起源』を読破してみるか。
あゆみ |
ついでと言っては何だが、パレスチナ問題などに関する著者の短編評論をいくつか集めた『戦争とプロパガンダ』(みすず)のも載せておいた。
●『オリエンタリズム』
ACC講座(朝日カルチャー)で、タリバンによって爆破されたバーミアン石仏修復に携わられたペルシャ学者前田耕作先生の懇切丁寧な解説を聞きながらの読書。内容が濃いので整理してからもう一度記載する予定だが、とりあえず以下のようにメモしておく。
上巻では従来のオリエンタリズムについて、下巻では今日のそれについて述べるとともにオリエンタリズムの再考をしている。サイードは、従来のオリエンタリズムというものは西洋の視点で創られたものであり、実在とは異なっていると主張している。その西洋の視点とは、植民地支配という政治を基本にした差別であり、その創り方は主として言語による表象の積み重ねである、と。その主張の根拠を、学的研究から芸術作品に至るまでその著作者の思想に遡り示している。
サイードのやり方は、ある時代にある集団に属する人間が、同時代の他の集団や別の時代の集団を理解する場合に存在する根本的問題点を提起している。それは、理解に対する政治的動機の関与という問題、理解を言語を持ってすること自体が内在する問題、学問自体が文明に従属するという問題、である。
●『戦争とプロパガンダ』
比較文学を専門とする著者は、パレスティナ難民ともいえる。この本は米国で発生した同時多発テロ前後に書かれた、パレスチナ問題などに関する著者の短編評論をいくつか集めたものであるが、パレスチナ問題についての本質をパレスチナ人自身の問題と米国に代表される西欧近代国家に潜む問題に分けて考察し、その考察には思想家としての現代人間社会に共通する鋭い感性を感じた。12世紀始めは、日本列島の政治構造が大きく変換する画期をなしていた。律令国家が目指した法治主義と公地公民思想に基づく統治が、現実に即してその実態が
ジャスミーナ |
院政が中世を通しての朝廷最高政治権力となり、口分田など消滅して荘園公領制という奇妙な土地制度や、財を生み出す人々や彼等を現地で束ねる人々が歴史に登場してきた現実の底流の根幹には、「私」の力の勃興があるのではないだろうか。中世の定義は世界的に共通して、政治権力分散、土地支配の重層化、軍事専門家層の社会的優越、だそうなので、よく合致している。
都に住んで国の政治に参加してる人数はppmオーダーでしかなく、定員もあるだろうから、天皇家にしろ摂関家にしろ、沢山生まれる子どもたちの内でそのppmに入れない人たちはどうするのかという基本的疑問がある。彼等を「貴種」と呼び、その特性を想像すると、教育を受けて知識がある、栄養が良いから体力があるし見栄えもする、人々から崇められる(もしそうでないなら、秩序が崩壊している)、財がある、血統での繋がりがある。となれば、地方のリーダーとしての需要はあるし、彼等もそこで権力と財を手に入れられる。地方だって、古代よりそこで生業を立てている豪族、百姓たちがいる。だから皇族を始祖とする源氏や平家、天皇の外戚となり皇室と権力を分有した藤原氏、みな「家」としてグループ化した実力集団と存在していた。
上皇の寵愛がポイントとなる院の政治は当然不透明で正統性はなくなり、院内は外戚を含めて葛藤と矛盾のるつぼとなる。権力継承ルールが直系父子になったのは、公的観点(天智天皇の遺言「不改常典」)とは真逆な私的動機であり、さらに皇室が摂関家から権力を剥奪しようと試みたのだろう。結果は、武士政権である鎌倉幕府によって朝廷の権力が奪われることになるのだが、これが完全とはならず、現代まで継続している不思議は興味津々だ。
平家の盛衰は「平家物語」としてよく知られているように、ドラマチックなものだ。12世紀初頭に白河院の私兵、北面の武士、院の近臣として台頭してきた伊勢平氏が、半世紀後の清盛の時代に摂関家や政治権力としての源氏を凌駕するのみならず、天皇家の最高政治権力をクーデターで奪取したが、そのわずか20年後には鎌倉幕府によって滅亡した。やはりここで興味を引くのは、清盛のプランを想像することだろう。つまり、旧来の貴族政治ではない、内政だけではなく国際経済と結びついた新しい世界を、しかも、武力としての源氏内部の血生臭く乱暴な実力世界とは一線を引いた、日本の貴族精神文化も取り入れた世界を、構想していたように見えるからだ。
ところで、平氏が清盛の死後かくもあっさりと源氏に敗れたのは何故だろうか。「奢る平家は久しからず」という言葉は、慢心するなかれという戒めとして良く聞かれてきたが、歴史の教訓としては明らかにミスリードだろう。平治の乱で清盛に命を救われて伊豆に流された頼朝少年が、彼の地で文・武・色と三拍子揃ってスクスク育つものだろうか。さらに、バラバラな源氏をまとめて、諸側面で圧倒的優勢な平氏を打倒しようと思うものだろうか。しかも、平氏で北条家創始者の時政の娘・政子が頼朝に惚れて妻となり、やがて北条氏が幕府の権力を掌握して朝廷を凌駕していくのだが、これは偶然か必然か。
※本書の読書メモは下記別ブログでまとめたから、興味があれば読んでみてね。
爺~じの日本史メモ: 岩波講座 日本通史07巻(中世1 12~13世紀の日本-古代から中世へ)通史 石井進 (gansekimind-nihonshi.blogspot.com)
希望 |
この半世紀の間、世界資源エネルギー問題がどのように変わったのかを見てみようと読んでみた。注目点は主に二点、一点はエネルギー構成の変化、もう一つは地政学的視点からの変化。本書も著者も私は知らなかったが、東洋経済オンライン記事に載っていたので買ってみた。なお本書は、著者が早大で行った講義に基づいた記述とのこと。
エネルギー構成の変化が産業の拡大に重大な影響を持つだろうこと(どちらが原因かは興味があるが)、また、地政学的には国力の最も重要な源泉が人口と資源エネルギーであること、それらはいずれも50年前と同じだ。だが、その内容はかなり違っている。その間に現実に生じた大きな変化は、GX(green transformation)の必要性が広く認識されてくるような状況と、意識の上ではその真逆にみえる、近代の劣化という状況、に見てとることが出来そうである。以下、この半世紀間の変化について、本書の記述から幾つか記憶に残ったところを想い起こしてみた。