自己紹介

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1946年9月、焦土と化した東京都内にて、食糧難と住宅難と就職難の中、運良く生き抜いた両親の新しき時代の一発目として生を受けるも、一年未満で感染症にて死にかける。生き延びたのは、ご近所に住む朝鮮人女性のもらい乳と父親がやっと手にした本の印税全部を叩いて進駐軍から手に入れたペニシリンのおかげであったらしい。ここまでは当然記憶にない。記憶になくても疑えないことである。 物心がついた頃には理系少年になっていた。それが何故なのか定かではないが、誤魔化しうるコトバより、誤魔化しえない数や図形に安堵を覚えたのかもしれない。言葉というものが、単なる記号ではなく、実は世界を分節し、意味と価値の認識それ自体をも可能にするものであることに気付きはじめたのは50歳を過ぎてからであった。 30年間程の企業勤めの後、現在は知の世界に遊ぶ自称哲学徒、通称孫が気になる普通の爺~じ。ブログには庭で育てている薔薇の写真も載せました。

2017年8月19日土曜日

8月19日(土) カント『純粋理性批判』読書メモをチョットずつ書き進めるつもりですが

『純粋理性批判』は、2002年頃から読み始めて2年ほどで大体読み終わった。一人で読むのは難しかったので、社会人講座で中島義道、竹田青嗣、西研等の諸先生方にご指導頂きながら。
2006年頃に、それまでのメモをまとめ始めて面白そうなところは大体終わったが中断している。この調子でいくと、多分全部は終わらないだろう。なぜなら、面白くなさそうなところだけが残っているから。しかし、それでも良いと思っている。孫達が、このメモの何処かで何かのとっかかりを掴むかも知れない場合、多分その箇所は、メモを書いた本人が面白いと思って書いたところだろうから。
掲載は「爺~じの”哲学系名著読解”」に少しずつアップしていくつもり。無謀にも、ヘーゲル『精神現象学』と並行して進めることになるけど、こちらの方は更に完了する確率は少ないだろうなー。

2017年8月9日水曜日

8月9日(水) 網野善彦先生の歴史観『「日本」とは何か』日本の歴史00講談社


網野先生の歴史の本は面白くて20冊ほど読んでいる。その中で2000年に出たこの本は、先生の歴史観を纏めて理解するのに適切だと思う。なので、3年ほど前に仲間の読書会で一回取り上げたことがある。その時のレジュメは別ブログhttps://gansekimind-nihonshi.blogspot.jp/2017/08/00-200010.htmlで公開したが、一部を紹介しておく。

冒頭で、人類社会の歴史についての先生の認識が述べられる。人類社会の歴史は、いまや青年時代をこえて壮年時代に入ってきた。壮年時代においては、それに相応しい思慮深さが否応なしに要求されている。近代以降の進歩史観によって切り捨てられた多様な世界をすくいあげ、それを人類史の中に位置づけて、新たな人類史像を描き出し、本当の意味での「進歩」とは何かが追求、模索され始めている。もとより日本人もまた同じ課題を負っている、と。日本人の自己意識とその現状については「・・・敗戦前の亡霊たちが姿を変えてわれわれの前にはっきりと現れてきた現在こそ、まさしくこの総括の作業を開始する最適の時点と、私は考える。」、と。
 最後に、国家とは何であったのであり、これからはどうあらねばならないのかという難題について、日本国の天皇の歴史研究がヒントを与えるだろうと、興味ある記述をしている。「そしてその上で、改めて列島社会と「日本国」との関わりの歴史を偏りなくとらえ、「日本国」の歴史を徹底的に総括しなくてはならない。これは単に「国民国家」を克服すべきものとして対象化するだけにとどまらない。先も述べたとおり、「日本」という国号を持つ国家、それと不可分に結びついた「天皇」をその称号とする王朝は、もとよりさまざまな変遷を経ているとは言え、ともあれ1300年余りの間、間違いなく続いてきたのである。これは人類社会、世界の「諸民族」の歴史の中でも、余り例のない事柄であることは間違いない。しかしそれだけに、逆に言って、この国家と王朝の歴史を真に対象化(この対象化とは、対象と概念との弁証法的展開における対象化であろう)し、徹底的に総括することが出来るならば、それは人類社会の歴史全体の中での「国家」そのものの果たした役割、また「王権」の持ってきた意味を、根底から解明し、その克服を含む未来への道を解明する上で、大きな貢献をすることが出来るのではなかろうか。」、と。

2017年8月5日土曜日

8月5日(土) マーク・マゾワー『暗黒の大陸』

 仲間の読書会でやるというので、高価で長いが思い切って買って読んでみた(500ページ以上もあって、本体で¥5,800)。出版は1998年。一人では読まなかったであろう価値ある本に出会うのは、やはり楽しいことだと思う。
 20世紀のヨーロッパ通史という野心作で、自分たちヨーロッパの歴史認識にやや批判的内容となっている。今はコロンビア大学教授の著者は1958年生まれの著名な歴史学者だそうで、豊富な知識に基づいて書かれている歴史解釈は面白く読むことができた。
 20世紀前半、ヨーロッパでは戦争や国家の暴力によって6000万人が殺された。その後に開発された大量破壊兵器を用いた国家同士の戦争はまだ起こってはいないが、経済的格差は異常な速さで進行中だ。これは史実だが、そこからわれわれはどう未来を構想するのだろうか?
  読む視点によって注目するポイントは違ってくるだろうが、人々が平和に共存するためには、人間個人はみんなホモ・サピエンスという同じ仲間であってそこに差別はないことがまずは前提されなければならず、共同体としての社会の仕組みは民主主義と制御された資本主義という組み合わせ以外にはあり得ない、ということが本書から読み取れる。
 それらは、焦って極論に走ったり、自分で考えられずに偏見に犯されて簡単な事実すら見えなくなったりせずに、常に鍛え続けることでしか存続し得ないのだ。20世紀のヨーロッパ通史は、そのことが充分にはできていなかった歴史となっている。
 尚、本書は読書メモとし別ブログに残しておく価値があると思うが、内容が多いから少し時間がかかりそう。出来上がったら、この日記で知らせるつもりだ。