自己紹介

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1946年9月、焦土と化した東京都内にて、食糧難と住宅難と就職難の中、運良く生き抜いた両親の新しき時代の一発目として生を受けるも、一年未満で感染症にて死にかける。生き延びたのは、ご近所に住む朝鮮人女性のもらい乳と父親がやっと手にした本の印税全部を叩いて進駐軍から手に入れたペニシリンのおかげであったらしい。ここまでは当然記憶にない。記憶になくても疑えないことである。 物心がついた頃には理系少年になっていた。それが何故なのか定かではないが、誤魔化しうるコトバより、誤魔化しえない数や図形に安堵を覚えたのかもしれない。言葉というものが、単なる記号ではなく、実は世界を分節し、意味と価値の認識それ自体をも可能にするものであることに気付きはじめたのは50歳を過ぎてからであった。 30年間程の企業勤めの後、現在は知の世界に遊ぶ自称哲学徒、通称孫が気になる普通の爺~じ。ブログには庭で育てている薔薇の写真も載せました。

2019年12月11日水曜日

12月11日(水) トマスモア『ユートピア』

ホワイトクリスマス
13年前の読書メモを少し訂正して書いたものです。平井正穂訳の岩波文庫版を読みました。

 著者は500年ほど前のイングランドの法律家で、大法官まで務めたが反逆罪でヘンリー8世に処刑されたとのことです。この本が著された頃の欧州は、人々が個人として目覚め始め、神の呪縛から解放されつつ社会や国家との関係において幸福の追求を意思し始めていまし
た。

 ユートピアという言葉は「どこにも無い」という意味の著者による造語ですが、その内容は、人間の幸せを実現するための望ましい社会のことです。その社会を一言で言えば、善意と尊敬と勤労に基づいた公共社会で、そこでは私有財産は無く平等で、市民は精神の自由な活動による幸福を享受している、というものです。昨日のブログに書いた、同時代の『君主論』と併せて読んでみると面白いと思います。

 ユートピアの具体的記述はもちろん現代とはマッチしませんが、そこで提出されている問いと解決法の原理は、現代においてもそこから汲み取るに値するような普遍性を持っていると思います。彼のヒューマニズム思想は、その後の近代思想に大きな影響を与え、現代人も知らず知らずにその影響を蒙っていることを思い起こさせます。

2019年12月10日火曜日

12月10日(火) マキャベリ『君主論』

リモンチェッロ
10年ほど前に岩波文庫(河島英昭訳)で読んだ書いた感想文を一部修正したものです。

 この本は西暦1532年にフィレンツェで出版されたそうだ。この頃、日本は戦国時代で家康が生まれる10年前になる。その内容を一言で言えば、君主の権力の根拠を解析し、権力保持の条件と方法を明確にした本である。

 まず感心するのは、客観的に社会を観察して分析し、そこにあった権力の法則を見出して言語化するという彼等の文化自体に対してである。本書を読んで、なるほど権力とはこういうものだったのかと感心して、それを現代に生かそうと考える向きがあるならば、当時は君主と貴族、都市住民と農民は同一の人間でありながら生まれながらにして異なる階層を成すことが是認され前提されているから、むしろ大事なことは、現代社会に対して実際に応用出来る部分はむしろ当時と同じなのだ気付くことなのかもしれない。


2019年12月3日火曜日

12月3日(火) デカルト『方法序説』を再読した

夢香

2007年頃に読書会でデカルトの『省察』を紹介することになったときに、参考資料に付録として纏めたものを見つけた。ここでは感想文だけ掲載します。まとめたのは別ブログに掲載した⇒爺~じの「本の要約・メモ」

感想】
 数学や理科が好きな子は、この本を読むと良いと思いました。本当のことは、先人に学び ながらそれを批判できるくらい自分で考えることによって知ることが出来る、ということがわかるのではないでしょうか。

この本は今から370年ほど前に著された、近代学問・思想の原点が示されている古典です。もともと、当時のいわば先端科学技術に関する主著である「屈折光学」「気象学」「幾何学」の序として著されたもので、デカルト自身が、「この序説が長すぎて一気に読みきれないといけないから六部に分けてある(そんなに長いとは思えないのですが)」、と書いてあるほどですから、何が書かれているかは比較的容易に理解できます。

しかし、その内容には哲学的にとても深いものが含まれていて、それは、自然を対象にしたものに限らず「何が真理で何が偽物なのか」について考えるための方法なのです。真偽は自分で考え、自分で納得したものであって、他人のそれではないのです。知識を学ぶことも大切ですが、真偽を判断する方法を学ぶことは更に大切なのです。
 
 デカルトの言葉としてよく引き合いに出される「我思うゆえに我あり」とは、デカルトが「何が真理で何が偽物なのか」ということをとことん突き詰めていった末に辿り着いた言葉だと思います。つまり、すべてが夢かもしれないと疑い尽くしたけれども、どうしても疑えないことが一つだけある、それは、そう考えているこの自分が考えている、ということ自体である、と。この思想は、先ず、自然科学をそしてその応用である科学的知識に裏付けられた技術を飛躍的に発展させました。あまりすばらしい発展だったので、その結果である知識に圧倒されて、デカルトが示したこの思想自体は現代においてかえって忘れられてしまったように思えます。 感想としては、数学や理科が好きな子は、この本を読むと良いと思いました。数学や理科だけではなくて、真理(本当のこと)を知ると言うことは、先人に学びながらそれを批判できるくらい自分で考えることである、ということがわかるのではないでしょうか。

2019年11月23日土曜日

11月23日(土) 岩波講座 日本歴史 現代史Ⅰ 「地租改正と地域社会」

岩波講座 日本歴史 現代史Ⅰ の読書メモを再開した。今回は明治時代の「地租改正と地域社会」についてです。内容はココ⇒「爺~じの日本史メモ」をクリックすると見ることが出来る別のブログを見てね。

東シナ海の夕焼け
経済と政治は切り離せないから、国家にとって税の徴収は最も大切な政策であるのに、明治維新のそれについては殆ど無知(私が)であることに改めて気がついた。経済の基盤が土地にあるのは、当時の主力産業が農業をはじめとする一次産業なのだから尚更であることはわかるが、その土地から近代国家として、政府が村単位の請負ではなくて、個人単位として、個人の土地所有を前提とし税を徴収すると言うことは、社会の仕組みの根幹を変えることなのであった。つまり近代国家という理念だけの机上の空論では実施不可能であった。

2019年10月7日月曜日

10月8日(火) 『道徳感情論』アダム・スミス 1759年 通読メモ

芳純(良い香り)
おとといスミスの『国富論』の日記を書いたので、スミスと言えばこちらはどうだろうと調べたら、2011年頃に、仲間の読書会で取り上げられ時に通読してみたときのメモ、といっても、各篇・章ごとに印象的部分を一言二言記している記録があったので掲載した。

 本書は、章じたいの項目名というのか説明が長いので、これだけ羅列するだけでも面白い。岩波文庫上下2冊(水田洋訳)。( )内は私の補足


第一部    行為の適宜性について
第一篇    同感について
・人間の本性にはいくつかの原理がある。哀れみ、同情に対する情動ではその一つである
・われわれの想像力は諸感覚印象によるほかはなく、それによって観念を形成する(デヴィッド・ヒュームと同じ)。
・想像力が同胞感情の根拠である
・想像力による幻想によりへの恐怖が生じる

第二篇    われわれが他の人びとの諸情念と諸意向を、彼らの諸目的にとって適合的なものとして、あるいは適合的でないものとして、是認または否認するさいの、感情について(確かに題目が長いけど、スミスが問題にしているところが分かって面白い)
第一章    相互的同感の快楽について
・同胞感情を観察すること以上に喜ばしいものはない。なぜなら援助を受けられる確信を与えられるから
・愛は快適な、憤慨は不快な、情念である。愛顧より憤慨への同感のほうが望まれる

第二章    われわれが他の人びとの諸意向の適宜性または不適宜性を、それらがわれわれ自身の諸意向と協和しているかいないかによって、判断するやりかたについて
・その判断は同感できるか否かである
行為と悪徳は、究極的には心の感情または意向に依存するが、これらは二方面から考察することができる。原因つまり諸動機目的つまり効果との関連においてである

第三章    同じ主題のつづき
・他人の諸感情の適宜性についての判定基準は二つある。一つは科学や趣味の世界の基準で、もう一つは同胞感情を持っている仲間世界での基準である
・仲間内だけではなく他人を含めて、是認・協和は可能である
社会交際は、平静さを取り戻すための最も強力な手段である

第四章    愛すべき、および尊敬すべき諸について
すべき諸徳=率直謙遜寛大人間愛→相手の諸感情に入りこむ努力
尊敬すべき諸徳=偉大畏怖すべき、自己統御名誉行動の適宜性に従属できる徳→情念規制の徳
・諸徳は普通でない程度が要求される

第三篇    適宜性と両立しうる、さまざまな情念程度について
序論
・情念の適宜性には相手が了解出来る程度で→大体は高過ぎ、例えば悲嘆、憤慨。低過ぎは愚鈍、無気力

第一章    肉体に起源をもつ諸情念について
・肉体に起源をもつ諸情念が強いと不快→不快感の本当の原因は、そこに入りこめないから
・肉体的苦痛についてはかなり同感を得やすい
想像に起源をもつ諸情念は、肉体的なものよりも同感を得やすい。→動揺不安観念によってひきおこされる。
・肉体の苦痛に耐えうるのは、それに対する同感がわずかであることに由来する。→(肉体を自己から切り離しうること、それによって他者から認められることを知っている)

第二章    想像力の特定の傾向または慣習に起源をもつ諸情念について
・慣習や個別事情から出てくる想像力に基づいた諸情念は、自然に基づくようなもので同感を得にくい。→の情念は他人にはどうでも良いばかばかしいもの。
・われわれの関心をひくのは、他の情念、即ち希望不安、困苦を生み出す状況としての情念、である。

第三章    非社会的な諸情念について
憎悪憤慨およびそれらの変容のすべてである。第三者がどちらに同感するか?
憎悪怒りは善良な精神の幸福にとって最大のである。落ち着きと平静さは幸福にとって極めて必要であって、それらは感謝愛情という反対の諸概念によって最も促進される
・憎悪が抑制されると寛容で高貴でさえあると認められるであろう

第四章    社会的な諸情念について
寛容親切同情、相互の友情尊敬、社会的な仁愛的な意向、の態度、顔つきは利害関係抜きに人を喜ばせる。
侵害の残虐性はどこから生まれるか?
嫉妬は一つの根拠だが大した問題ではない。憎悪憤慨への激しい情念は、普遍的恐怖嫌悪の対象であって、市民社会から追放されるべきものである。

第五章    利己的な諸情念について
・社会的と非社会的の中間に利己的な諸概念がある
・成り上がりにたいする嫉妬。成り上がった人のもつべき配慮、例えば丁寧さや謙虚や簡素
幸福は愛されていることに由来するが、幸運にはあまり由来しない。だから、運命による大きな成り上がりに対する歓喜には同感は得られず、小さな歓喜は容易に同感される

第四篇    行為の適宜性に関する人類の判断にたいして、繁栄と逆境が与える影響について、および、まえの状態にあるほうが、あとの状態にあるよりも、かれらの明確な是認がえやすいのはなぜか
第一章    悲哀にたいするわれわれの同感は、一般に、歓喜にたいするわれわれの同感よりも、いきいきとした感動であるのに、主要な当事者によって感じられるもののはげしさには、はるかにおよばないのがふつうであること
悲哀への同感歓喜にたいする同感より普遍的である
嫉妬がなければ、歓喜への同感の方が悲哀への同感よりもはるかに強く、同胞感情も当事者のそれにずっと近くなる。なぜなら、健康で負債が無く良心に疚しさがない幸福な状態に付け加えうるものは少ないが、そこから奪われで悲惨となる迄の距離は無限大であるから、同感の程度において第三者当事者にはるかに及ばないから
・なぜ笑うことより泣くことを恥じなければならないか。

第二章    野心の起源について、および諸身分の区別について
・くらべられぬほど悔しいのは、貧困を公共にさらすことである。
貪欲野心権力優越の追求の目的は何か?自然の諸要求を満たすためではない。注目され、同感と行為によって明確な是認をうることである。
・われわれの関心は安逸や喜びではなく虚栄であり、虚栄はわれわれの信念に基づく。
地位ある人びとの状態にたいして、われわれは特殊な同感をもつ。例えばたちの悲運は恋人たちの悲運に似ている。想像力に基づく演劇への同感
・富裕な人や有力な人の情念に付いていくこと。国王の処刑理性哲学の学説であり、自然の学説ではない。ルイ14世は偉大な王の範例であり、彼の前では、知識、勤勉、武勇、慈恵は、ふるえ、赤面し、あらゆる威厳を失った。
身分の低い人びとは、自分の肉体、精神の労働以外に資金をもたないから、それらを磨くしかない

第三章    ストア哲学について
[付録一 六版 第一部第三篇第三章 富裕な人びと、地位ある人びとに感嘆し、貧乏で卑しい状態にある人びとを軽蔑または無視するという、この性向によってひきおこされる、われわれの道徳諸感情の腐敗について]<省略>

第二部    値うち欠陥について、あるいは報償処罰の対象について
第一篇    値うちと欠陥の感覚について
序論
・人類の諸行為を為す諸資質には、適宜性の他に値うちがある。値うちには報酬が値する(反対は処罰)。
・諸行為の値うちについての感覚の本質を、ここでは考察する。

第一章    感謝の正当な対象であるように見えるものは、すべて報償にあたいするように見えること、また同様にして、憤慨の正当な対象であるように見えるものは、すべて処罰にあたいするように見えること
<省略>

第二章    感謝と憤慨の正当な諸対象について
<省略>

第三章    恩恵を授与する人物の行動について、明確な是認がないばあいは、それをうけるものの感謝にたいする同感は、ほとんど存在しないということ、そして、反対に、危害を与える人物の諸動機について、明確な否認がないばあいは、それを受けるものの憤慨にたいして、いかなる種類の同感も存在しないということ
意識的な恩恵の授与でない限り、それに対する感謝を感じ取ることはできないし、意識的な否認なくば、加害者は被害者の憤慨を感じ取ることは出来ない。

第四章    先行諸章の要約
<省略>

第五章    値うちと欠陥についての感覚の分析
<省略>

第二篇    正義慈恵について
第一章    それらふたつの徳の比較
慈恵無償=自由であり、原理的に力づくでは奪えないものである。
憤慨は防衛のためだけに自然からあたえられているもので、正義を保護し、罪を犯さぬ安全保障である。
・慈恵的な諸徳ではない徳がある。その徳は正義である。
正義を守るには、われわれ自身の意思の自由が制限され、力ずくが許容される。
正義の侵犯は憤慨(処罰)の対象となる。

第二章    正義の感覚について、悔恨について、および値うちの意識について
<省略>

第三章    自然のこの構造効用について
自然は、正義を守るための性質、意識を人間にあたえた。例えば侵犯が処罰に値すると意識でき、処罰への恐怖をもつ
・人は生まれつき同感的である。
・スミスの自然認識→宇宙の適合性(整合的)。生命体の作用原因と目的原因の存在。諸物体の作用原因と目的原因の存在。精神のはたらきは物体のはたらきと違ってこの二つの原因を混同すること。

第三篇    諸行為の値うちまたは欠陥にかんして、人類の諸感情に偶然性があたえる影響について
序論
第一章    偶然性のこの影響の諸原因について
<省略>

第二章    偶然性のこの影響の範囲について
<省略>

第三章    諸感情のこの不規則性の究極原因について
・自然のあらゆる部分は、創造者であるの配慮の証明であり、人間の弱さと愚かさの中にさえ、神の智恵善性をみることが出来る。

第三部    われわれ自身の諸感情行動に関する、われわれの判断の基礎について、および義務感覚について
第一篇    称賛または非難される値うちがあるという意識について
<省略>

第二篇    われわれ自身の判断は、どのようなやり方で他の人びとの判断であるべきものに依拠するか、および、一般的諸規則の起源について
<省略>

第三篇    良俗の一般的諸規則の影響と権威について、および、それらは最高存在の諸法とみなされるのが正しいということについて
々があたえた良俗は、自然に叶うものである

第四篇    どんなばあいに、義務の感覚がわれわれの行動の唯一の原理でなければならないか、また、どんなばあいに、それが他の諸動機と協働しなければならないか
感謝慈善公共精神寛容正義、これらの諸義務を遂行する行為の唯一の原理と動機は、がわれわれに命令したといいうことである
・人間が間違った義務感覚に従ってしまうのは、彼の行動が彼の弱さによるのであって、原理の結果ではないことを理解すれば、不快には成らないが、到底是認することも出来ない

[付録二 六版第三部への追加]<省略>
第二章    称賛への愛好について、称賛にあたいすることへの愛好について、また、非難への恐怖について、非難にあたいすることへの恐怖について
第三章    良心の影響と権威について[追加分]

第四部    明確な是認感情にたいする効用効果について
第一篇    効用があるという外観が、技術のすべての作品にあたえる美しさについて、そしてこの種の美しさの広範な影響について
効用は、の主要な源泉の一つである。
・意図された目的を実現するのに適していることは、効用である。
効用喜びをあたえ、その喜びの原因は効用快楽便宜をもたらすからである(ヒューム礼賛)。
の対象が永続的となるのは、同感による。効用が喜びをあたえるのはその外観による。
効用以上の値うちをもつことがある。地位快楽は、哲学的見方からすればつまらぬものであろうとも、われわれは自然に、何か偉大で美しく高貴なものとして、想像力に強い印象をもつ。この自然の欺瞞は科学と技術と生産と土壌の改良と大洋の資源化と荒れた森林の平原化と贅沢品の生産およびそれの分け前としての生活必需品の――――。

第二篇    効用があるという外観が、人びとの生活と行動にあたえる美しさについて、そしてこの美しさの知覚が、どれだけ、明確な是認の本源的な諸原理のひとつとみなされるかについて
・われわれは、個別事情があたえられたときだけ感受作用是認・否認知覚同感感謝憤慨徳・悪徳判断、を持つことが出来る。
効用が是認の第一の理由ではない
・明確な是認の感情には、効用の知覚とは区別された適宜性の感覚をつねに含む
有用な(効用)諸資質は第一に理性理解力、第二に自己規制
人間愛正義寛容公共精神は、他の人びとにとって有用な諸資質である
人間愛女性の徳で、寛容男性の徳、――――。

第五部    明確な道徳的是認および否認の諸感情にたいする、慣習流行の影響について
第一篇    美しさみにくさについてのわれわれの諸見解にたいする、慣習と流行の影響について
<省略>

第二篇    道徳的諸感情にたいする、慣習流行の影響について
<省略>

[付録一 六版第六部]<省略>
第六部    徳の性格について
序論
第一篇    その人自身の幸福に作用するかぎりでの、個人の性格について、あるいは、真慮について
第二篇    他の人びとの幸福に作用しうるかぎりでの、個人の性格について
序論
第一章    諸個人が自然によって、われわれ自身の配慮と注意にゆだねられているその順序について
第二章    諸社会が自然によって、われわれの慈恵にゆだねられる、その順序について
第三章    普遍的仁愛について
第三篇    自己規制について
第六部の結論

第六部    道徳哲学の諸体系について
第一篇    道徳的諸感情の理論において、検討されるべき諸問題について
良俗の諸原理を考えるときに二つの問題がある。一つはの所在(性格、気質の調子、行動の色合い)、一つはこの性格をもたらす精神の能力とは何か。

第二篇    の本性にかんしてこれまであたえられてきた、さまざまな説明について
序論
・これまでのの説明は三つある。徳は適宜性にある、徳は真慮にある、徳は仁愛にある、の三つ
・諸意向の大きな区分は、利己的仁愛的である。

第一章    適宜性にあるとする諸体系について
・プラトン、アリストテレス、ゼノン。プラトンは判断する能力を理性と予備全体の統治(真偽だけでなく欲望と意向)原理資格を与えた。

第二章    真慮にあるとする諸体系
・エピクロス、自然的欲求の一次的対象は、肉体的な快楽と苦痛(プラトンは知や幸福などイデアもそう)。

第三章    仁愛にあるとする諸体系について
・アウグストゥス、後記プラトン主義者、キリスト教

第四章    放縦な諸体系について
・その他に、悪徳と徳との区別をしない徳の体系がある。スミスはそれらを否認する。

第三篇    明確な是認の原理に関して形成されてきた、さまざまな体系について
序論
・是認の原理は三つあり、それぞれ異なった源泉、即ち自愛心理性感情をもつ。しかし、この原理の考察は哲学的好奇心の対象ではあっても、実際においては重要性を持たない。

第一章    明確な是認の原理を自愛心から引き出す諸体系について
・ホッブズなどの体系。

第二章    理性を明確な是認の原理とする諸体系について
・ホッブズに対抗して、国家権力を超える是認原理を理性に求める体系。徳が理性との一致にあるということは、ある部分では真実だが、つまり経験からの帰納判断する力が理性だから。だが、正邪についての最初の諸知覚は理性の対象ではなく、感覚気分の対象である

第三章    感情を明確な是認の原理とする諸体系について
・この体系は二つに分かれる

第四篇    さまざまな著者たちが、良俗の実際的な諸規則を、とりあつかってきたそのやり方について
<省略>

[付録二 諸言語の起源にかんする論文]
諸言語の最初の形成および本源的ならびに複合的諸言語の特質のちがいについての諸考察
<省略>

2019年10月6日日曜日

10月6日(日) 『諸国民の富』アダム・スミス 1776年 通読概要

ピース
私の書棚のリストには2500冊ほどが記載されていて、目を通したのはそのうちの1700冊くらいと記録されている。このブログを書き始めたのは2017年10月からだが、日記というにはほど遠く、月に数回しか書いていない。そこで、昔読んだ本の内で感想とか読後のメモが残っているものを思い出しながら掲載してみることにした。

 アダム・スミスの『諸国民の富』は、大内兵衛先生の訳で岩波文庫5冊に収録されている本の題名で一般に『国富論』と呼ばれている経済学の古典。

 これを通読したのは2001年9月と記録にあるのだが、実はあまり記憶にないのだが、感想じみた文章が残っている。つまり当時は本書を読みたいという欲望からではなく、ただ教養として目を通さなければ恥ずかしいという気分で通読したのだろうが、それでも何か感じるところがあったのだろう。ここまでは、これからもこの読書日記の常套文句になるであろう言い回し。

 スミスは、この著作以外の原稿は全て破棄することを友人に遺言し、構想から27年後に出版したとのこと。
第一編(労働の生産諸力における改善の諸原因について、また、その生産物が人民のさまざまの階級のあいだに自然に分配される秩序について)
 経済学の基本的概念を理解出来る。先ず、経済的価値の源泉は労働にあること、生産力の源泉は分業にあることを示し、貨幣の意味、価格の意味、利潤の意味、地代の意味、賃金の意味などを説明している。
第二編(資材の性質、貯蓄および用途について)
 経済学の基本的概念を更に追加して理解出来る。資本の意味と価値、利息の意味、資本が動員される法則
第三編(さまざまの国民における富裕の進歩の差異について)
 都市の商業と農村の生産活動の関係、富裕の意味、それらの歴史的考察
第四編(経済学の諸体系について)
 自由な経済活動が最大の富を生むという自由主義経済理論の原点が示されている。国家による経済への干渉は弊害のみをもたらす
第五編(主権者または国家の収入について)
 省略

2019年10月の追記:現代は当時とは違うから、例えば自由な経済活動を放任すれば格差社会を生むし、さりとて共産主義は人間の自由を奪ってしまったのも史実になっているし、しかし、スミスの考えたことから今でも生かせる部分をくみ取れるという、そのこと自体に価値があるのだ。


2019年9月21日土曜日

9月20日(金) 『ケインズ』伊東光晴著 岩波新書 ~序説まで

ピエール・ドゥ・ロンサール
”新しい経済学“の誕生、が本書の副題。この新しい経済学は『雇用・利子および貨幣の一般理論』(1936年)、略称「一般理論」として広く知られている。本書の要約は別ブログ、爺~じの「本の要約・メモ」に掲載する予定だが、「はしがき」と「序説」に端的に示されていたケインズ経済学の意義について簡単に纏めてみた。( )は私の補い「 」は本文引用。

はしがき
*経済学の歴史には大きな曲がり角がいくつかある。アダム・スミス(1723~1790年。経済学の父、『国富論』1776年)、リカード経済学の成立(1772~1823年。近代経済学創始者、比較優位理論)、マルクス経済学の出現(1818~1883年。『資本論第1巻』1867年)、1870年代の限界革命(生産の立場に立つ労働の価値「労働価値説」ではなく、需要の立場、換言すれば個々人の欲望に基づいた経済学「限界効用理論」。これにより経済学の数学化が進んだ)、そして一番新しい曲がり角が1930年代にケインズによって拓かれた新しい経済学の成立(資本主義社会変革の可能性を拓いた『一般理論』)
*長い間、経済学の正流は、自由競争さえあるならば経済社会は調和ある状態を続ける、ということを論理的に明らかにすることであった。しかし19世紀の後半以後、自由競争が現実のものとなると、それ(古典派経済学)はなにもしないことであり、現実の説明をするだけのものに過ぎなくなった
*新しい経済学は、それまでの経済学の予定調和観の誤りを経済分析の武器を通して指摘し、国家の政策無くしては失業問題の解決も、不景気の克服も不可能であることを論証した。それは政治を経済という基礎から批判するものであり、政治経済学の復活であった
*第一線で活躍している政治家も実業家も、実は過去の経済理論の奴隷である、という諺があるが、ケインズ経済学の登場も古い政治家や実業家の通念とは摩擦を引き起こした。しかし、新しい経済学が古い通念に取って代わるにつれて、現実の経済社会も、同じ資本主義でありながら大きな変化を見せ始めた
*私(著者)は、ケインズ経済学の生誕の背景である1920年代から30年代にかけてのイギリス資本主義に目を向け、この危機(1929年は世界恐慌)に対処する伝統的経済学の政策と、ケインズの政策との対立を、ケインズ自身に内在して描いていこうと努めた
*ケインズは、イギリスにとって真理であり叡智であったものを、資本主義国どこにでも当てはまる真理であり叡智であるものに高めたといわれている
*本書の特徴の一つ目は、ケインズは植民地帝国主義国家としての老大国イギリス特有の三つの階級の利害構想を元に新しい経済理論と政策を作ったのだが(三つの階級については後述)、この点について、ケインズ理論と伝統的理論の対立が、海外投資を中心とする資本と国内産業に関係する資本の利害の抗争にあるという視点から意味づけた部分にある。著者が杉本栄一教授から与えられて研究テーマの一つとのこと
*本書の特徴の二つ目は、イギリス経済思想の視点から見れば、ケインズ理論はそれまでの経済学を支配してきたベンタム主義的思想(⇒イギリスの伝統的考え方である功利主義的な思想で、人々の幸福は測定・計算が可能とした。「最大多数の最大幸福」という言葉が有名だが、この言葉だけでは意味不明)の否定だという点を強調したところにある(⇒人間の期待・行動・幸福・利害は計測・計算だけでは理解不能なのだから、経済学にとってより重要なのは人間の内的洞察の方である、というような意味だろう)。宮崎義一氏から多くを学んだとのこと
*本書の特徴の三つ目は、新しい資本主義をつくりだす武器としてのケインズ理論という視角を強調したところ(例えば乗数理論⇒後述)。都留重人先生の影響が大きいとのこと

序説
*ケインズは、20世紀以来「衰えていくイギリス社会と、第一次世界大戦以来揺るぎだした資本主義経済とともに歩み、その変質のための処方箋を書き、しかもその処方箋が資本主義そのものの変化を可能にしたという意味で、一人の偉大な”経済”学者であった」
*ケインズは、現実をいろいろの意味で変えた。例えば下記
 ・自由放任主義を批判し、公共投資や景気振興策など経済政策の重要性を説いた
 ・貨幣制度を変えることに努力し、金本位制から離れて管理通貨への移行に積極的だった
 ・資本主義が既に変貌していることを認識したケインズの政策の正しさが、後に立証されている。例えば、景気を自動的に調節するメカニズムの制度化によって、第二次世界大戦後は第一次世界大戦後とは違って大きな不況に襲われていない(後のリーマンショックで顕在化した金融資本主義の台頭という新局面に対処可能な経済学は未だ出現していないように思われるが、少なくともいわゆる新自由主義ではなさそうだ)
・(ケインズの理論が現実を変える力を持つのは)「他の近代経済学者、シュンペーター、ヒックス、ワルラスのような書斎だけのものではないのである。」からである
・ケインズの社会的影響は、経済学者だけではなく政治家や実業家を変え、多数の追従者を生んだ
*ケインズ理論は生まれるべくして生まれた理由があるのだろうことは、同時代のいろいろな経済学者も別々に同じような考えに達していることから、明らかであろう
*ケインズの多様な肩書きは多方面での活躍及び特異な人間性を暗示している。下記参照
 ・ケンブリッジ大学キングス・カレッジの教師兼会計官
 ・29歳で、イギリスを代表する経済学雑誌「エコノミック・ジャーナル」の編集者
 ・第一次大戦後のパリ平和会議大蔵省主席代表
 ・大蔵大臣顧問
 ・国民相互保険会社社長
 ・三つの投資会社の経営者
 ・「ネーション」後に「ニュー・ステイツマン・アンド・ネーション」誌の社長
 ・イギリス貨幣制度を動かしたマクミラン委員会の委員
 ・王立インド通貨委員会の委員
 ・第二次大戦後の世界金融のあり方を決めたブレトン・ウッズ協定のイギリス代表とそれに基づく国際通貨基金と国際復興開発銀行の理事
 ・二十世紀文芸運動の一つであったブルームズベリー・グループの一員
 ・国立美術館の理事
 ・音楽美術奨励会の会長
 ・後に貴族となって上院議員
 ・ロシア・バレーのバレリーナ、ロポコヴァの夫
*本書の章立ては以下
Ⅰ(第一章) 三つの階級・三つの政党ーーーケインズの階級観ーーー
 1920年代、イギリス経済学の変貌に対処した持論家としてのケインズ。ケインズの階級観と経済分析をもととする政治批判
Ⅱ(第二章) 知性主義ーーー若き日のケインズの思想ーーー
 人間ケインズの若い時代の彼に焦点を合わせて、19世紀の人間像と異なる20世紀の人間像を問題にする
Ⅲ(第三章) 新しい経済学の誕生
 主著『一般理論』の解説
Ⅳ(最終章) 現代資本主義とケインズ経済学
 ケインズ理論が残したものを検討するために、現代資本主義とケインズの理論との関係を問題にする


2019年9月16日月曜日

9月14日(土) 加藤典洋『人類が永遠に続くのではないとしたら』新潮社2014年


今日は、神山睦美主催の書評研究会で五月に逝去した加藤典洋『9条入門』をとりあげるとのことなので参加させてもらった。神山以外に、笠井潔、添田馨など文学系の人々も参加するということ、加藤の盟友で私の師匠(と勝手に思っている)の竹田青嗣が出席するというのも一つ参加理由であった。

竹田青嗣の冒頭発言は、この場においてはとても的を射ていた。しかもいつもと同じブレない言い方を基調に、一言で言えば、「今は文芸評論ではなく哲学にずーとはまっていって、文学とも離れたところにいる。社会を論じるには経済学など(他の社会科学)の勉強が不足しているので橋爪大三郎らと勉強会をしている。加藤典洋の『9条入門』については文学の視点から読んでみた。」というようなことであった。

出席者達の発言は、確かに文学者達の自由の感度に触れさせるものであったが、9条をテーマにして何かの合意を彼らから取り出すことは難しそうに思えたのは、個々の実存を主題として生きる彼らにとっては当然のことなのだろう。

ところで、このブログの表題の本についてだが、同時代を生きてきた同世代の人間として、著者が問題としてきたことに対して、私としては素直に共感できる部分が沢山あることに気づいた。現代世界の外部的な制限とそれに対する思考、例えば、ローマクラブの一連の研究(『成長の限界』など)、レイチェル・カーソン、シューマッハ、等々。更には、その問題をどのように受け止めてこの先どう乗り越えることが出来るかという思索の糧として、見田宗介の『現代社会の理論』で展開されている論理に共鳴しているところなどは、私の感覚と共振する。


9月1日(日) 高橋源一郎×鹿島茂 スペシャル読書対談―加藤典洋『9条入門』を読む

仲間のからの情報で、東京堂ホールにてこの対談があると聞いていってきた。
ベビーロマンチカ


興味は5月になくなった加藤典洋の著作の方にあったのだが、対談していた二人の顔を見て、「英雄達の選択」というNHKテレビの番組に度々ゲストとして出てくるあの人達であった。つまり、磯田道史と繋がっていると。
 
 それはさておき、加藤典洋の『9条入門』についての、というよりは、加藤典洋の思想を支えている態度についての対談者の感度は、私の感度と良く一致していた。つまり、社会で生じている事象についての「ほんとう」のところは、自分の内省に基づいたリアルにある、と言う、この感度が。具体的なこと、例えば9条をどう書き換えたり削除したり他の条項も関連してどうするが、あるいはなにもしないのか、などについては加藤典洋も高橋源一郎も鹿島茂もすっかり一致することはないのだろが、この感度が共通していれば、ある時点において仮に結論を出さなければならないとしても、本質的困難つまり対立から合意へと至ることの出来ないような困難はすでに除去されているのだろう。

2019年9月1日日曜日

8月31日(土) 加藤典洋『9条入門』追悼

モッコウバラ
最近逝去した同年代の文芸評論家の遺作的な本。加藤典洋さんは竹田青嗣さんの友人で、竹田さんが雑誌への追悼文を依頼されたが、なかなか書けなかったといっていたのを思い出す。
 本棚を見ると加藤さんの本が5-6冊並んでいる。本書と同じくそこには一貫して自分を内省して「ほんとうのところ」を探ろうとしている著者の態度が伺えることが思い出される。
 9条とは言わずとしれた日本国憲法第9条のことで、そこには平和主義に加えて軍隊の放棄が記載されているものだ。加藤さんは、戦後70年以上にわたる改憲と護憲論争には、「ほんとうのところ」に触れようとする態度が見られないと言っている。もちろん思い込みを避けて客観的事実を知ることは大事だから、本件についてもちゃんと調べているが、そこについては専門家のそれを読むのが良いだろう。
 
 要するに、憲法9条についての主権者としての国民の判断は、同じく主権者としての国家の判断に対して、自分で感じ取ったものを自分で考えるという態度で望む以外には原理的に無いのだ。個々人が事実に基づく(歴史とその時代の人々の心)ことの大切さと、内省すること(頭と心の納得の追求)の大切さを認識することによって。

2019年8月14日水曜日

8月14日(水) 竹田青嗣『欲望論』から、「善」の審級について

ベルサイユのばら
8/24~25にかけて竹田青嗣先生の哲学合宿が行われる。私の担当範囲は『欲望論』第69節「善の審級」なので、数日前にレジュメを作ってNHKカルチャーセンター担当者に送った。

 「善」とは何だろう?という問いかけ、数千年前から善悪に悩んだであろうみんなの問いかけだ。哲学史を通観してみると、善のイデアがイデア中のイデアとして真善美の中でも一番大事なもの、という謎を比喩として残したのは2500年前のギリシャプラトン。素晴らしい!でも、ほんとうはどういう意味?。弟子のアリストテレスは謎じゃいやだと別のことを言う。
 
 それから2000年以上経て、ヨーロッパの思想家、哲学者達が続々と登場した。そして「善」についてのそれぞれ異なる、難しそうなことを言い始める。カントの後継者の一人として数えても良いだろうと思う日本の西田幾多郎も『善の研究』を著した。面白いことに『リヴァイアサン』の著者ホッブズがその中での一番の先輩として登場する。そしてスピノザ、ヒューム、『国富論』のスミス、そしてもちろんカント。カントの後継者達も頑張るがなぜか段々と一番大事なところからずれていくみたい。カントの痛烈な批判者である、かの偉大なヘーゲルには、その痛烈さとしての確固たる根拠があった。ヘーゲルとは似ても似つかないようなニーチェは「神は死んだ」と言いながら道徳の哲学を著して、なんと「善」にたいするヘーゲルの素晴らしい直感を説明しているという。内的な自己エロスの力動として、自由の本能として!。

 なるほど、善や倫理・道徳の本質はエロス(生きる喜びの力)、自由の本能なんだ。

2019年8月2日金曜日

8月2日(金) 資本論全三巻の読解完了 

ジャスミーナ
資本論第三部第七篇の読解が終了し、別ブログに掲載した。これで全巻(大月文庫で全9冊)の読解の掲載が終了して一段落となった。
第三部第七篇の読解の冒頭部分だけを転記する。

第七篇 諸収入とそれらの源泉

「資本論」の第一部は「資本の生産過程」第二部は「資本の流通過程」と名付けられている。「資本主義的生産の総過程」と名付けられている第三部の最後の篇である第七篇「諸収入とそれらの源泉」でのポイントは、諸収入つまり、労賃、利潤、地代の源泉は、それぞれ別々に、労働力、資本、土地であるという考えは誤りであって、収入の源泉はただ一つ、労働であるということである。しかし、この最終篇は、単にその名称通りの項目の説明ではなく、それまで展開していたマルクスの経済理論と、第一部と二部においてその都度の論の進み具合に応じて記述されていた歴史観と社会批判とを、この最後の篇において纏めてあるように思える、と同時にマルクスがこの篇で主題にしたかったのは恐らく階級社会についてであったのだと思う。つまり、西欧近代以降に人類がはじめて気づいた自由という普遍的価値が、次第に共有されて実現していくはずであったにもかかわらず、19世紀における最先進国だったイギリスにおいてさえも、物質的配分についても人権の尊重についても著しい格差が存在するということ、この篇に即して言えばすべての人にとって収入の源が同一であるにもかかわらず賃金労働者、資本家、土地所有者という三大階級が存在するということの理由を主題にしたかったのだと思う。しかし、最後の五十二章「諸階級」の書き始めのところで絶筆となっている。


2019年7月28日日曜日

7月28日(日) 田原総一郎さんが選んだ現代哲学者は西研さんだった

香りのよい「芳純」
2015年に『憂鬱になったら哲学の出番だ(田原総一郎、西研)幻冬舎』を読んだ感想を転記したものです。

ジャーナリストの田原総一郎さんが、「なぜ哲学が人々の疑問に応えないのか」と哲学者を経巡り辿り着いた人が、西研でした。田原さんの容赦ない突っ込みは、一般人を代弁したものでもありますが、本質を突いた鋭いものなので、その様な質問に全部真っ正面から答え尽くした西研さんのコトバは、より説得性をもって響いてくる。
田原さんのモチーフは、「この先行き不透明な時代に、みんながその答え(生きることの意味と価値)を知りたいと思っている<中略>まさに哲学の出番だといってよい」のに「哲学は何をしている?」という序章の言葉に表れています。

対話形式の本書の一部を抜粋してみます。
●田原さんの突っ込み:難解な『純粋理性批判』等の著者カントに関して、普通ハナから解けないことが分かっている問い(世界の、究極原因、始原、果てはあるか)が解けない問いであることの証明に厖大な労力を費やしているが「そんなこと考える必要があるあるのだろうか。カントは苦しむことが好きで、哲学とは苦しむことだと考えておるのではないか」
●西研さんの受け:カントが言いたいのは、人間の思考(=理性)はさまざまな解けない難問を生み出すものであるとまず指摘すること、つぎに「そのような難問にかかずらうのは不毛だよ、きちんと難問を始末して、本当に考えるべきことを考えようよ」ということです。

田原さんは西さんとの対話を通して、難解なわりには役に立たないという「哲学」のイメージをかなり払拭することに成功していると思う。例えばヘーゲルの『精神現象学』について、原典を読んでも、西研らが書いた解読本を読んでもわからなかったけど「本人に相当、文句を言った上で、何を言っている本なのか、徹底的に聞いたところ、何とよくわかったのです」と述べています。

田原さんは、自分とは二回り近く年下の西研さんを現代のソクラテスと述べていますが、先に結論(これが真理)ありきではなくて、ほんとうのこと求めて徹底的に議論すること(普遍性の追求)を旨としてきた田原さんもまた、無知の知を説いたソクラテスなのかもしれません。

一般に、哲学と聞くと理屈っぽく面倒な割には役に立たないと思われている。しかし、本当は、困ったときには何時もみんなやっていることなのだ。

だから、誰でも使えるコトバのツールとして世界にもっと広まれば、みんなの日常生活から、更には世界中で起きている様々な争い事にまで、きっと役立つはずだ。

追記、タイトルに「憂鬱になったら」はいらないでしょうね。せめて、「悩ましいときには」くらいでどうですかね。

2019年7月12日金曜日

7月12日(金) 資本論の読解シリーズも残すところ第三巻のあと一篇となったぞ

アイスバーグ
『資本論』全三巻は昨年四月に完読したつもりになって、その後別ブログに逐次読解を掲載している。
第一巻(資本の生産過程)は大月文庫三冊分に当たるが、この巻が全体の中心をなすので、各章ごとにわけて掲載した。
第二巻(資本流通過程)については、大月文庫二冊分に当たるが、エイッと纏めて全巻を一度に掲載した。
第三巻については大月文庫三冊分に当たるが、学者ではない小生にとっては原理的部分についての繰り返しが目についてきて、次第に忍耐力が薄れて短く纏めるのが困難となり、結果各篇ごとに掲載してきたのだが、第六編についてはもう五ヶ月も放置していた。今回やっと短く纏めて掲載した。残りは元々短い第七篇だけとなったから、『資本論』読解シリーズもいよいよ千秋楽となる。



2019年7月2日火曜日

6月28日(金) 世界は新しい暴力サイクルに入ったのか? ジョン・ダワー

ジョン・w・ダワー『敗北を抱きしめて』 2004年増補版  岩波書店


 2006年よりはじめた、仲間との定例読書会はすでに70回以上となったが、その第一回目に私が取り上げたのがこの本であった。そのときの内心の問いは、日本の現代史としての太平洋戦争開始とその後の出来事について、その本質とは何かということであった。本書はそのための歴史的事実を知るのに選定したもので、日本近代史を専攻する米国の著名な歴史家の著作であることにはそれなりの理由もあった。
 米国との戦争開始の10年ほど前、日本国は中国に対して侵略戦争を始め、それが太平洋戦争に拡大して米国を中心とする連合国に敗退した(1945年)。国家は統治能力を失い国土は焦土と化し経済は破綻し人々は悲惨な生活を強いられた。死者は同胞だけで300万人ほどに達し中国大陸だけでも1500万人に及んだ。そして無条件降伏をしてアメリカが占領軍としてやってきた。
 占領軍は敗戦後7年間にわたり占領政策を実施した。それは日本の非軍事化と民主化を実現するという基本戦略に基づいていた、しかし直ぐに非共産化政策が付け加えられて東西冷戦下での西側陣営に組み込まれた。著者はこの間における日本の現代史を、時が経過して公開された部分を含んだ多様な資料と一般の人々の真意に対する独自の視点に基づいて、いくつもの切り口から浮彫りにしている。
 10年以上も前の読書メモを再掲しているのは、上記のような内心の問いへ応えられる準備が多少できたところで、初心を思い出すのもいいかもしれないと思ったからである。以下は、当時記しておいた本書の序文的な部分のまとめである。

 (カッコ内の赤小文字は小生の注記)
【増補版序】
l  原本は1999年に出版された。2001年の同時多発テロ以降世界は新しい暴力のサイクルに入った(ことを受けて、写真などを追加して増補版を発行した)
l  イラク戦争とその後の占領は、先の大戦における日本占領と異なっている。その相違を問い、理解したい。これは過去を問い直す「歴史への問い」でもある。なぜ日本は、悲惨と混乱の最中で無秩序と無縁でありえたか、なぜ日米はかっての敵同士が急速に善意と信頼を取り戻しえたのか、等々。これらすべては過ぎ去った歴史なのだろうか?

【日本の読者へ】
l  この本の著者の趣意は、日米が残虐な戦争に陥った後に一転して友好国・同盟国になったのはなぜ?という問いへの回答を得ること。
l  歴史学は科学的で公正であるのは当然で、真の問題は「何を問うか」である。
l  歴史学の方法として、伝統的な文献史学だけではなく「人の思考や行動の理解を対象にした研究」に注力した(国家、社会、だけでなく、そこに生活している人間個人に注目して歴史を解釈する方法だろう。当然、方法と普遍性に課題がある)
l  米国においては、社会、文化、政治の複雑な歴史の研究は、欧米については沢山あるが日本については稀である。だから、日本は画一的で西欧と異なった人たちである思われがちだが、それは間違いである。
l  敗北は死と破壊を終わらせてくれたから、日本人は「敗北を抱きしめ」たのだ。新時代の日本の理想として抱きしめるべきものを自問するなら、それは先の大戦後の歴史の瞬間である(それは確かに大事なことであるとは思うが一つの見方に過ぎない。小生は、現代日本の現状を認識して将来を語ろうとするのであれば、アジアとの近隣関係を含めて当事者で作った二三千年程の東アジア史を背景にして、中世日本に遡らねばならないだろうと感じている)

【序】
l  ペリー来航による開港から第二次世界大戦に至るまでの日本の近代化の成功と挫折のおさらい。
l  三年八ヶ月の戦争の後、日本人だけで300万人、中国という地域だけで多分1500万人が死んで大東亜共栄圏は消滅した。(この戦争自体の異常性は、死者数が多いことだけではなく、自他に対する日本軍兵士の残虐行為や統治者達の「一億玉砕」宣伝などの不可解行動、これは彼らの感覚からすれば特に肥大化されているであろうことは推定できる、が欧米に対して日本国を野蛮で狂信的な人々の集団として印象付けた)。その後六年八ヶ月の軍事占領時代に入ったが、このこと自体を、(程度の問題としてではなく原理原則的問題として考えるならば)この間は国家主権を失い国際社会から隔離され軍事力で占領されていたという異常なこと(例え占領されていた割にはその前に比べて当面は平和であっても)として捉えねばならない。
l  日本の占領は実質的に米国の単独占領であり、植民地主義の最後の実例ともいえる(サイードのオリエンタリズムが参考になる)。その最高司令官であるマッカーサーにとっては救済されるべき東洋の異教徒国であり、米国は独善的で空想的で傲慢な理想主義の稀有な実例である「非軍事化と民主化」の改革プログラム(内容明細の理解必要)を日本に押し付けただけでなく、その後冷戦の従属的パートナーに仕立て上げた。だが、「平和と民主主義」という理想は日本に根を下ろした(しかし、手にした自由とお金に目を奪われて、見掛け倒しのところが沢山あることに気付かねば元も子もなくなることに気付かねばならない)
l  占領は異常なほど抵抗なく行われた。それは、民衆が、人々を破滅に追いやった軍国主義者たちを憎み、戦争を嫌悪してそのような過去を乗り越えることを強く希望していたからである(多分民衆にはそれが可能であることを信じる根拠があったから絶望による破滅的行動をとらなかったのだろう。その信じる根拠に対する問いは本質的なものだろう。その問いに対する答えの一つは、政府は信じる根拠ではなく、単なる“お上”であったと思う。)
l  破壊と占領は圧倒的であったから、米国(人)が日本(人)に何をするかが問題であり、敗者は影響力を持って語ることはできなかった。だが、敗者の目を通して世界を見ることによって学ぶものは多く、今日はそれが可能になった。そのためには「民衆意識」に注力することが有効であるので、社会や文化にも諸点を当てて日本人の敗北の体験を「内側から」伝える努力をした。
l  英米の「旧世代のアジア派」の日本理解は「東洋人は従順な家畜の群れである」という単純化された考えにとりつかれていたものであった(サイードのオリエンタリズムが参考になる)。敗戦後の日本人の行動はこの考えに基づく予測とは全く外れて、多彩で千変万化に富んだものであったが、それは敗北が徹底的であったから、人生や社会に対する価値観にまで遡って再考することになったからだろう。
l  戦時中に宣伝されていた人種や社会的団結は敗戦によって一夜で消失し、社会の上層部は私服を肥やすことに専念し、民衆はそれを見て思考と行動を根底から変えてしまっていた(しかしその割には秩序が保たれていたが、それはなぜだろうか。その問いは、日本における統治の根源を問うもので、今後の国家のあり方を問うものであろう。)
l  占領軍がやってきて、自国内では過激と思われる「民主化」を民主的な思想とは全く逆の厳格な権威主義的方法によって遂行し始めると、日本の民衆はエネルギッシュに社会の実態を変えて行き、中堅官僚は本気で押し付けられた民主化の改革を始めた。それは、労働運動、カストリ文化、闇市、教育、宗教、等々の多方面にわたる。
l  マッカーサーは天皇と同じ不可侵であり、GHQと日本政府は二重の官僚構造であった。これは、官僚制民主主義、あるいは天皇制民主主義であった。
l  米国は天皇の戦争責任を問わない決定をしたが、これは戦争責任それ自体を実効あるように問えなくした。
日本の敗戦の観察から人間社会の共通項が取りさせる。①1930から1945年までの15年にわたる軍国主義が一夜にして崩壊したことは、イデオロギーの脆さを示している。これは20世紀の他地域における全体主義的な統治組織の崩壊として見られる現象と類似である。だが、多くの王室が没落したのに日本では君主制=天皇制が支持されたことは政治とイデオロギーの問題について示唆する(どう示唆するのか判明でない)。②日本人が自分の悲惨さは感じとれても他人のそれは無視しがちであったことは、民族のアイデンティティーが被害者意識によって染め上げられることを示している。③戦争犯罪に関して、社会共通の記憶の形成と偽の記憶作り(戦争責任は、敗戦国だけでなくもっと広く捉えるべき)。④日本人が呪文のように唱えてきた「平和と民主主義」は意味内容の対立や闘争の重い歴史を持っていて、日本特有の問題ではない(当然のことながら)

2019年6月19日水曜日

6月19日(水) 岩井克人『貨幣論』 あたらしい『資本論』の始まりである、のか?

ハニーブーケ
『貨幣論』岩井克人 ちくま学芸文庫 1998年

 表題は本書の末尾に書かれていた一文「「貨幣論」の終わりとは、あらたな「資本論」の始まりである。」からの借用であるが、私は勝手にそこには次のような意味をがあると思う。

 マルクスは、個人の人権や自由に目覚め、自然を制御して富を生む力を獲得した19世紀のヨーロッパにおいて、現実においては、人々が日々を生きていくためには生命を危険にさらすほどの過酷な労働を強いられるという悲惨な社会状況がどうして発生しているのかを問い、当時の社会つまりマルクスの言う「資本主義的生産体制」の社会は必然的に崩壊することを予測し、新しい社会を構想して「資本論」を著した。その「資本論」の中で語られている「貨幣論」では、貨幣というものは「資本論」が前提している「労働価値説」(商品価値の源泉は労働という実在にあるという説)を根拠とするものであるから、著者によれば間違っている。従って、マルクスの「貨幣論」は終焉し、「資本論」とは異なる新しい社会を構想した「資本論」が始まるのだと。

 著者は文庫版への後記で「『貨幣論』とは、「貨幣とは何か?」という問いを巡る考察を通じて、「資本主義」にとって何が真の危機であるかを明らかにしようとした書物である。」と述べている。結論だけ言えば、それはマルクスが言うような「恐慌」(デフレの極)ではなくて、その反対の、それよりもはるかに資本主義の本質に関わる「ハイパーインフレ」ということになる。何故かについては、「貨幣とは何か?」という問いを巡る著者の考察から導き出されているのだが、考察の重要なプロセスはマルクスの貨幣論批判を通じて、同じ事だがマルクスの労働価値説批判を通じてなされている。つまり、貨幣が持つ価値の根拠は労働という実在にはない、と。しかし、もっと重要なことは、「貨幣とは何か?」という問い自体の視線を変更することにある。

 どういうことかというと、著者は貨幣と言語は類似していると言う。その比喩が意味していることは、ある共同体において、言語は既に昔からそこに存在しているものであって、共同体のメンバーは言語が通じることを普通は疑わないように、貨幣が通用するのは著者の言葉の「貨幣共同体」がそれが通用することを疑わない限りのことである、ということなのだろう。ここで「言語とは何であるか?」という問いに対する考察は、後期ヴィトゲンシュタインの言語ゲーム(言語の本質は、対象の記号化やその論理的構成物ではなくて、関係の中で編み帰られ続ける意味の束、かな?)と思って良いだろう。

 すると、共同体自体が言葉の通じぬ関係体になれば崩壊するであろうと推測できるように、「貨幣共同体」の崩壊は、つまりハイパーインフレによって人々が貨幣(それが札束でも電子記号データでも)を信じなくなる状態とは、恐ろしいことであっても、人間が人間である以上回避できる可能性を持っていることになるのだろう。相互にそれを信頼できる条件を追求し続けることによって。

2019年5月28日火曜日

5月28日(火) 口語訳 遠野物語 佐藤誠輔訳

ハニーブーケ
もちろん原作は柳田国男の文語体の著作で、その口語訳のひとつがこの河出文庫版。1992年に佐藤誠輔さんという岩手県の小学校の先生が口語訳をして、小田富英さんという専門家の注釈がついている。

 遠野という東北の山間にある盆地、そのような土地に代々生き続けた人々の歴史の心性、著者の柳田国男はそこに人間の営みの表現を見いだしたのだろう。口語体訳なので、私でもその心性に触れることができたようだ。東北学の赤坂憲雄さんの解説も良かった。

 ここに語られているのは、高々100年ほど前の明治時代に柳田が遠野の土地の人から直接聞いた、当時の出来事についての短い物語の羅列。その出来事は、語った人にとっては事実である。しかし、合理的に考えればあり得ないことである。つまり、その言葉達は歴史の心性の表現なのだ。そのことに少しでも触れられたのでOK。

2019年5月22日水曜日

5月22日(水) 岩波『日本歴史』版籍奉還後の廃藩置県は薩長主導で断行されたが・・・

岩波講座 日本歴史 第15巻 近現代Ⅰ(2014.2.19)
戊辰戦争と廃藩置県

三 廃藩置県と維新政権
ピンクのクイーンエリザベス

1        藩体制の解体

明治22月段階の新政府は、関東に東京府と神奈川県など9県を、中部には度会府(わたらいふ)と5県を、北陸には新潟府と新潟県を置いている[1]。この(⇒この地域を指すと思う)府県行政に関しては、大隈重信が政府財政の確保に向けて、明治元年から翌年78日の太政官制の改革で大蔵大輔(⇒読み方は、たゆうorたいふ)に任じられるまで[2]、監督強化と租税収奪を強行している。大隈の元には井上馨、伊藤博文、五代友厚らの「西洋主義者」が結集していた。39月には参議[3]に任じられた大隈が大輔を務める大蔵省は政府の財政難救済のために全国的増税策を進めたが、この新政府の地方政策に対しては、戦禍や軍事負担に伴う蜂起、農民闘争が多発していた。明治2年は特に東北地方が凶作で、3年末にかけて、帰農に伴う諸負担に反発した仙台藩士の蜂起を含めた農民闘争が発生した。4年の2月に発生した福島県の伊達郡での暴動には二万人が参加したと言われている。

政府では、昨年提示した諸務変革11カ条に続き、明治39月に「藩制」を頒布(はんぷ)して、三治一致を進めた。これは要するに府県藩の経営合理化を政府が指導する事で、特に藩については大中小の三ランクに分けた上で、職員数、藩高に対する海陸軍資、公廨費[4]などを定めている他、藩債の「償却」義務化、藩札回収指示などがなされた。集議院[5]での禄制改革の審議において、無条件に禄米の平均化を主張した藩が23藩あった(⇒多分、小藩の茹でガエル状態の事例としての記述だろう)。また、有力藩も旧禄の十分の一程度の削減を余儀なくされた。
 政府の府県藩三治政策、版籍奉還とその後の諸務改革のなかで、中小藩の廃藩が現実化し、明治4年7月14日の廃藩置県に至るまでに16藩が廃藩となり他藩への併合や県へ移行した(⇒藩の経済的破綻の明確化が改革の要)。御三卿の一橋家と田安家を除く大藩では盛岡藩が含まれている。盛岡藩と対照をなすのは米沢藩で、戊辰戦争で四万石の冊封処分を受けたにもかかわらず、明治3年以降の急進的な改革によって切り抜けている。


[1] 府県は明治元年より旧幕府の直轄地で、この時点でも全国に多数存在した
[2] この間、大隈は政府の金札通用と外交問題の処理に尽力し、元年12月には外国官副知事、二年正月に参与となり及び会計官副知事を兼任
[3] 参議は実質的に政府の最高幹部。この時の参議は、大久保利通、広沢真臣、木戸孝允等6
[4] 公廨費(くげひ、給与)
[5] 集議院は明治27月に公議所が改組されて発足した(⇒公議所と異なり立法権は剥奪されていた)



2 三藩親兵と廃藩論

明治2617日に勅許された版籍奉還と政府が提示した諸務変革11カ条および翌年9月に頒布された「藩制」によって藩体制の解体は現実化していく、と同時に諸抵抗も顕在化してくる。藩経済の破綻やそれに基づいた秩序破壊や新政府の集権的施策に対する反発の他にも、攘夷から開国へと方向を転換した新政府に対する攘夷論者や守旧論者の反政府的行動も少なくなく、また、新政府内における政府改革についての意見も統一されているとは必ずしも言えなかった。

従って、新政府にとっては、統一した意思決定の仕組みの模索、廃藩後の地方統治方法、政府の軍事力確保は根本的課題であった(⇒薩長によるクーデター直後のこの時期における喫緊の課題は、暴力的反政府行動を新政府として制圧可能な軍事力の保持であったろう)。そのためには、鹿児島、山口、高知の三藩はもとより、戊辰戦争で新政府側に協力した名古屋、福井、徳島、鳥取などの有力大藩、新政府にとって役立つ力を持つとともに改革に積極的とみられた熊本、佐賀、彦根および米沢などの藩の取り込み、そして強力な改革推進者達の参画と合意が必要であった。

大納言[1]岩倉具視は明治3年中頃には政府の将来的な在り方の追求や郡県制を基本とした「政令一途」を企図するようになり、明治4年初め頃には有力大藩を集めた会議を計画している。高知藩を筆頭とする改革派の諸藩の中では、明治4年春頃には「人民平均」を具体化した上で、政府が議院を開くという考えも醸成されていた。

明治2年正月の横井小楠の暗殺に続き、同年9月に兵部大輔[2]大村永敏(⇒長州藩出身、益二郎)が山口藩関係者に襲撃されて11月に死去する。明治211月、山口藩は諸隊改編令[3]を発し、そのことで多数の兵士が脱退し、明治3年正月に知藩事の山口公館を包囲する「脱隊騒動」が発生した(⇒2月11日、木戸孝允は藩兵を率いて脱隊兵を鎮圧している)。山口藩脱退兵の大楽源太郎[4]は、日田県[5]庁襲撃を企図した周防大島襲撃後に、九州の反政府士族河上彦斎[6]のもとに逃れ、久留米藩[7]大参事水野正名[8]、応変隊[9]参謀小河真文[10]らに匿われていた。明治2年~3年にかけての、このような反政府運動に対して、参議木戸孝允は大楽らの暗躍を憂慮し、政府は2年12月に陸軍少将四条隆謌を巡察使任じて兵部省直属の兵員を派遣し、また、弾正少忠[11]の河野敏鎌[12]を日田県に出張させた(⇒山口県脱退兵の策動を鎮圧するため。311月)。明治4年正月に参議広沢真臣が暗殺され、同年3月に華族の外山光輔と愛宕通旭を盟主とする攘夷派の政府打倒計画が発覚し、政府は弾圧の徹底を余儀なくされていた(⇒外山と愛宕は37日に逮捕後12月に自刃の処断、久留米藩大参事水野正名は314日に河野敏鎌に捉えられ、後に弘前監獄で獄死)。

このような状況において、岩倉は島津久光や毛利敬親、そして鹿児島藩士族に絶大な影響力を持つ西郷隆盛を政府に取り込むことに尽力し、参議大久保利通も鹿児島藩の取り込みに注力し、兵部少輔山県有朋も、政府の軍隊について重視する部分には相違があるものの西郷隆盛を上京させることについては同意している。明治31218日、勅使として岩倉は大久保と山県とともに鹿児島に入り、忠義と久光へ勅書を与え、両者が「王室ノ羽翼」「国家の柱石」であることを強調している(⇒承認欲求を満たす力の行使だろう)。明治3年末頃に西郷隆盛の政府への取り込みに成功した後、明治4年正月7日に岩倉は西郷を伴って山口に入り、敬親にも勅語を授けて上京を促した。大久保と木戸の両参議らは西郷の意向を受けて高知藩に赴き、明治4年正月19日、高知藩大参事板垣退助らと会談し、高知藩にも政府改革に参加するように求めた。かくして大久保、西郷、木戸、そして岩倉が東京に帰着すると、明治428日に三藩親兵の上京に向けた会議が三条実美の屋敷で開催された。翌日の三職会議[13]で鹿児島、山口、高知の三藩の兵を徴して御親兵[14]とすることが合意されている。
 三藩の兵の東京集結が具体化した後に東京に戻った木戸孝允は、611日に岩倉に対して「天下速に一途に帰し諸藩の方向弥一定する」ことの必要を伝えた。これは版籍奉還を第一段とし、第二段に「此期を以て諸藩へ同一の命を下し、帰一の実を挙げん」という廃藩へ向けた思いであった。政府改革案に関して大久保等と木戸孝允は対立していた。木戸は伊藤の進言もあって、大納言と参議の必要を強調し、それを上院にあたる議政官にすることを主張している(⇒木戸は議会の重視、大久保と岩倉は行政制度重視であったと思う)。大久保は木戸を参議に擁立することを提起したが、木戸はこれを固持して膠着状態となった(⇒木戸以外の参議[15]は全員辞任して、三藩の行政参加代表を木戸に一人にするという意味だと思う)。しかし、木戸は6月25日には西郷とともに参議を受諾し、7月には制度取調会議[16]を開催していた(⇒意見の相違があったとしても、国家のルール作りに大久保も木戸も岩倉も西郷も参加したことに意味があるのだろう)。


[1] 明治278日に太政官に設置され明治4729日に廃止された行政の重要役職
[2] 国の防衛と治安維持を管轄する機関である兵部省の次官
[3] 版籍奉還後の山口藩の兵士削減策、奇兵隊など平民出身者が冷遇された
[4] 尊皇攘夷派の長州藩士、反政府分子の嫌疑多く、明治4年に応変隊員により斬殺される
[5] 明治政府が慶応四年に設置した県、現在の大分県と福岡県東部に相当する
[6] 攘夷派の熊本藩士、佐久間象山の暗殺者、危険人物と見られ明治4年に小伝馬町で斬首
[7] 幕末には攘夷派と佐幕派の争いで消耗し、反政府分子の土壌あり、廃藩置県で消滅
[8] 大参事として藩の立て直し実施中、尊王攘夷派への藩の関与嫌疑で自身が調査中捕縛され、明治五年11月に弘前監獄で獄死
[9] 久留米藩尊皇攘夷派水野正名が創設した、武士・町民・農民混成軍団
[10] 新政府に対するクーデター計画に連座した尊攘派久留米藩士で、新政府に逮捕され斬罪
[11] 警察官僚16等級中8等級
[12] 1844年生まれの土佐藩郷士、後に立憲改進党副総理、文部大臣等歴任
[13] 総裁、議定、参与による当時の政府の意思決定会議
[14] 新政府直属の軍隊で、当面天皇及び御所の護衛を目的とする
[15] 岩倉、大隈、広沢が暗殺されているから他二名だと思う
[16] 明治憲法制定のために設置された「制度取調局」の前身だと思う


3 廃藩置県の決断

明治479日夕刻から、鹿児島藩と山口藩による廃藩を決断する密議が木戸邸にて行われた。参加者は山口藩から木戸と井上と山県、薩摩藩からは西郷と大久保と西郷従道と大山巌が参加し、主役は木戸と西郷及び大久保であった。軍事力行使もいとわないことも決められ、兵員は西郷が、資金は井上が担当した。廃藩の発表は、知事を上京させてから行うのではなく、直ちに行うことに決まった(⇒版籍奉還は天皇に土地を返還することを意味するが、廃藩とは藩という一つのクニが消滅することを意味する。薩長だけでこれを決断した新政府の実力者達の、この時点での夫々の本当の判断根拠には興味がある)。
 この密議の内容は712日に三条と岩倉に伝えられた。鹿児島、山口両藩をはじめとする有力藩の一大会議の開催を準備し「大藩同心意見書」(⇒大隈が岩倉のもとで作成)作成などに尽力していた岩倉は狼狽し「恭悦と申迄もなく候得共狼狽」[1]であった。同日三条のもとへ向かう岩倉に対して、大久保は、王政復古の際の心境を伝え、必ず廃藩断行の裁断を下されるよう釘をさし、「大を取而小を去ル之趣意」で決断、同意したと岩倉を説得した[2]


[1] 「岩倉具視書翰」明治四年七月十二日『岩倉具視関係文書587
[2] 『大久保利通日記2』明治四年七月十三日の条、178


2019年4月19日金曜日

4月19日(金) 岩波『日本歴史』版籍奉還をさせるための木戸孝允等の努力を支えたものは?

岩波講座 日本歴史 第15巻 近現代Ⅰ(2014.2.19)
戊辰戦争と廃藩置県


二 版籍奉還の上表
ピンクパンサー

1        版籍奉還の論形成
慶応三年1014日の大政奉還以降翌年の明治元年末にかけて、薩摩藩、長州藩のキーマンが主導して版籍奉還の議論が煮詰まって行く(⇒幕末より、弱体化した徳川幕府に代わって近代に相応しい新政府を樹立すべきだという考えを持った勢力が力を蓄えつつあったが、その内実は多様であった。新勢力にとっては、慶喜の大政奉還という手に対して、300程の藩という組織体の統治権力を掌握して新しいコンセプトの下で再編成することは喫緊の課題であったものの、これをどのように実行するかと言う合意を得るには段階を踏む必要があった。しかも短時間の内に。そのことを新旧体制の一部の指導者達は理解していたのだろう)

2 版籍奉還の上表
東京から京都に還幸する(明治元年12月8日~22日)天皇に同行していた大久保利通は、同年末から翌年正月にかけて、版籍奉還論に関し、岩倉具視、長州の木戸孝允・広沢真臣、薩摩の小松帯刀・吉井友美・伊地知貞聲らと会談を重ね、岩倉に対しては京都で木戸との調整を画策し、薩摩藩に対しては長州藩への「信宜」貫徹を強調していた。
長州藩の広沢は版籍奉還論に関して、明治元年12月に兵庫で伊藤博文に会った翌月1日に京都にて世子の毛利元徳から下問を受け、在京の土佐藩主山内豊範に呼びかけて同意をえていた(⇒同月14日以前のはず)。
明治2年正月14日、京都の円山瑞療に薩摩藩の大久保利通、長州藩の広沢真臣、土佐藩の板垣退助(⇒土佐藩参加の背景は戊辰戦争での活躍だろう)等が集まり、三藩による「土地人民返上」の会議が、広沢の主導で開かれた。まず三藩が同心・戮力して朝廷を輔翼することに合意した。会議の概要は大久保が岩倉に宛てた書面に記載されている。18日には肥前が加わった「薩長土肥御連盟御建白書一件」が「治定」となり、20日に「重臣一同」が参朝して、毛利敬親、島津忠義、鍋島直大、山内豊範の四藩主名の上表が行われた。その後、因習(鳥取)・佐土原(宮崎)・越前・肥後・大垣・米沢などの奉還願いが相次いだが、版籍奉還の上表は、諸藩が必ずしも大隈重信の「昔日譚」に記されたような、「判物の書換」に欺かれて提出したわけではない(⇒諸藩の上表提出には各藩なりの判断があった)。



3 侯伯大会議の開催
明治二年正月20日に行われた、薩長土肥藩主による版籍奉還の上表以後、木戸、岩倉、大久保は、その趣旨を全国にわたり実行可能にすべく迅速な行動を開始した。木戸は天皇の東京再幸にあわせての奉還を企図し、岩倉は上局会議[1]として「侯伯大会議」を予定するとともに薩長両藩への勅使を具体化した。しかし、京都や東京の政府内にも、薩摩、長州の藩内にも、木戸や岩倉や大久保などの思惑に反する状況も存在していた。
岩倉は東京での「侯伯大会議」の開催と、そこでの版籍奉還問題の推進に全力を傾注し、天皇は3月7日に発輦して3月28日に東京に到着した。版籍奉還問題について岩倉と密議を重ねていた木戸は、四藩の上表後の再幸にあわせて、数十藩が奉還上表を行い、政府がそれを断行できるように企図し、三条実美は54日、薩長土肥の公議人を招いて、版籍奉還に関する「機務」を下問し、郡県制の是非についての意見を徴し、517日に答申が行われた。
同時期に公議所では郡県制への移行が議論され、軍務官判事議事取調兼務の森有礼が54日に「御国体之儀ニ付問題四条」を提起して、それを「衆議院」連名の議案としてしている。版籍奉還問題に対する制度面については、制度療で具体案作成していた。岩倉は「侯伯大会議」に向けて腹心を参画させて原案の作成を試み「岩倉案」として政府会議に提示した。
東京での「侯伯大会議」は上局会議として開催され、521日に、行政官や六官の五等官以上、上級の公卿と有力諸侯の麝香間祗候(⇒名誉職)に対して、皇道興隆、知藩事選任、蝦夷地開拓の三件が諮詢された(⇒知藩事選任が諮詢された。要するに天皇の命によって、廃藩置県の実行を目指したプランが動き始めた)。



[1] 明治初年の立法機関。議定・参与などで構成され、政体の創立、法律の制定、条約の締結などを職掌した



4 版籍奉還と諸務変革
版籍奉還は、その断行を巡って、政府内は改革に急進的な木戸孝允、後藤象二郎と漸進的な大久保利通と副島種臣の対立が生じたが、調整を重ねた結果、明治二年617日に勅許され、同日、公卿、諸侯の称が廃されて「華族」に統一された。藩主は藩知事に任じられ、25日までの藩知事任用は262藩となった(⇒この段階では藩の実質的統治は前藩主である藩知事にある)。大藩の有力家臣の地方知行[1]が廃されて稟米支給[2]に改められた。この勅許の直後に、政府は諸務変革11カ条を提示した。
版籍奉還の断行は、知藩事任用と公卿、諸侯の廃止に伴う華族の勅許が最優先され、その後に藩政の在り方や改革が検討された。この諸務変革については、大久保の原案が政府内の主な検討案とされたようである。大久保の検討案文は、625日に知藩事等に対して出された行政官達の根幹となった。それは、政府が諸藩の職制、兵制、家禄などを把握してその改革を指示するものと理解され、奉還後の郡県制への移行や各藩の改革の推進に繋がるものであった。




[1] 家臣に土地の支配権、つまりその土地からの収益に対する処分権を与えること
[2] 蓄えられた米の支給