自己紹介

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1946年9月、焦土と化した東京都内にて、食糧難と住宅難と就職難の中、運良く生き抜いた両親の新しき時代の一発目として生を受けるも、一年未満で感染症にて死にかける。生き延びたのは、ご近所に住む朝鮮人女性のもらい乳と父親がやっと手にした本の印税全部を叩いて進駐軍から手に入れたペニシリンのおかげであったらしい。ここまでは当然記憶にない。記憶になくても疑えないことである。 物心がついた頃には理系少年になっていた。それが何故なのか定かではないが、誤魔化しうるコトバより、誤魔化しえない数や図形に安堵を覚えたのかもしれない。言葉というものが、単なる記号ではなく、実は世界を分節し、意味と価値の認識それ自体をも可能にするものであることに気付きはじめたのは50歳を過ぎてからであった。 30年間程の企業勤めの後、現在は知の世界に遊ぶ自称哲学徒、通称孫が気になる普通の爺~じ。ブログには庭で育てている薔薇の写真も載せました。

2019年9月16日月曜日

9月14日(土) 加藤典洋『人類が永遠に続くのではないとしたら』新潮社2014年


今日は、神山睦美主催の書評研究会で五月に逝去した加藤典洋『9条入門』をとりあげるとのことなので参加させてもらった。神山以外に、笠井潔、添田馨など文学系の人々も参加するということ、加藤の盟友で私の師匠(と勝手に思っている)の竹田青嗣が出席するというのも一つ参加理由であった。

竹田青嗣の冒頭発言は、この場においてはとても的を射ていた。しかもいつもと同じブレない言い方を基調に、一言で言えば、「今は文芸評論ではなく哲学にずーとはまっていって、文学とも離れたところにいる。社会を論じるには経済学など(他の社会科学)の勉強が不足しているので橋爪大三郎らと勉強会をしている。加藤典洋の『9条入門』については文学の視点から読んでみた。」というようなことであった。

出席者達の発言は、確かに文学者達の自由の感度に触れさせるものであったが、9条をテーマにして何かの合意を彼らから取り出すことは難しそうに思えたのは、個々の実存を主題として生きる彼らにとっては当然のことなのだろう。

ところで、このブログの表題の本についてだが、同時代を生きてきた同世代の人間として、著者が問題としてきたことに対して、私としては素直に共感できる部分が沢山あることに気づいた。現代世界の外部的な制限とそれに対する思考、例えば、ローマクラブの一連の研究(『成長の限界』など)、レイチェル・カーソン、シューマッハ、等々。更には、その問題をどのように受け止めてこの先どう乗り越えることが出来るかという思索の糧として、見田宗介の『現代社会の理論』で展開されている論理に共鳴しているところなどは、私の感覚と共振する。


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