自己紹介

自分の写真
1946年9月、焦土と化した東京都内にて、食糧難と住宅難と就職難の中、運良く生き抜いた両親の新しき時代の一発目として生を受けるも、一年未満で感染症にて死にかける。生き延びたのは、ご近所に住む朝鮮人女性のもらい乳と父親がやっと手にした本の印税全部を叩いて進駐軍から手に入れたペニシリンのおかげであったらしい。ここまでは当然記憶にない。記憶になくても疑えないことである。 物心がついた頃には理系少年になっていた。それが何故なのか定かではないが、誤魔化しうるコトバより、誤魔化しえない数や図形に安堵を覚えたのかもしれない。言葉というものが、単なる記号ではなく、実は世界を分節し、意味と価値の認識それ自体をも可能にするものであることに気付きはじめたのは50歳を過ぎてからであった。 30年間程の企業勤めの後、現在は知の世界に遊ぶ自称哲学徒、通称孫が気になる普通の爺~じ。ブログには庭で育てている薔薇の写真も載せました。

2019年8月14日水曜日

8月14日(水) 竹田青嗣『欲望論』から、「善」の審級について

ベルサイユのばら
8/24~25にかけて竹田青嗣先生の哲学合宿が行われる。私の担当範囲は『欲望論』第69節「善の審級」なので、数日前にレジュメを作ってNHKカルチャーセンター担当者に送った。

 「善」とは何だろう?という問いかけ、数千年前から善悪に悩んだであろうみんなの問いかけだ。哲学史を通観してみると、善のイデアがイデア中のイデアとして真善美の中でも一番大事なもの、という謎を比喩として残したのは2500年前のギリシャプラトン。素晴らしい!でも、ほんとうはどういう意味?。弟子のアリストテレスは謎じゃいやだと別のことを言う。
 
 それから2000年以上経て、ヨーロッパの思想家、哲学者達が続々と登場した。そして「善」についてのそれぞれ異なる、難しそうなことを言い始める。カントの後継者の一人として数えても良いだろうと思う日本の西田幾多郎も『善の研究』を著した。面白いことに『リヴァイアサン』の著者ホッブズがその中での一番の先輩として登場する。そしてスピノザ、ヒューム、『国富論』のスミス、そしてもちろんカント。カントの後継者達も頑張るがなぜか段々と一番大事なところからずれていくみたい。カントの痛烈な批判者である、かの偉大なヘーゲルには、その痛烈さとしての確固たる根拠があった。ヘーゲルとは似ても似つかないようなニーチェは「神は死んだ」と言いながら道徳の哲学を著して、なんと「善」にたいするヘーゲルの素晴らしい直感を説明しているという。内的な自己エロスの力動として、自由の本能として!。

 なるほど、善や倫理・道徳の本質はエロス(生きる喜びの力)、自由の本能なんだ。

2019年8月2日金曜日

8月2日(金) 資本論全三巻の読解完了 

ジャスミーナ
資本論第三部第七篇の読解が終了し、別ブログに掲載した。これで全巻(大月文庫で全9冊)の読解の掲載が終了して一段落となった。
第三部第七篇の読解の冒頭部分だけを転記する。

第七篇 諸収入とそれらの源泉

「資本論」の第一部は「資本の生産過程」第二部は「資本の流通過程」と名付けられている。「資本主義的生産の総過程」と名付けられている第三部の最後の篇である第七篇「諸収入とそれらの源泉」でのポイントは、諸収入つまり、労賃、利潤、地代の源泉は、それぞれ別々に、労働力、資本、土地であるという考えは誤りであって、収入の源泉はただ一つ、労働であるということである。しかし、この最終篇は、単にその名称通りの項目の説明ではなく、それまで展開していたマルクスの経済理論と、第一部と二部においてその都度の論の進み具合に応じて記述されていた歴史観と社会批判とを、この最後の篇において纏めてあるように思える、と同時にマルクスがこの篇で主題にしたかったのは恐らく階級社会についてであったのだと思う。つまり、西欧近代以降に人類がはじめて気づいた自由という普遍的価値が、次第に共有されて実現していくはずであったにもかかわらず、19世紀における最先進国だったイギリスにおいてさえも、物質的配分についても人権の尊重についても著しい格差が存在するということ、この篇に即して言えばすべての人にとって収入の源が同一であるにもかかわらず賃金労働者、資本家、土地所有者という三大階級が存在するということの理由を主題にしたかったのだと思う。しかし、最後の五十二章「諸階級」の書き始めのところで絶筆となっている。