岩波講座 日本歴史 第15巻 近現代Ⅰ(2014.2.19)
戊辰戦争と廃藩置県
1
藩体制の解体
明治2年2月段階の新政府は、関東に東京府と神奈川県など9県を、中部には度会府(わたらいふ)と5県を、北陸には新潟府と新潟県を置いている[1]。この(⇒この地域を指すと思う)府県行政に関しては、大隈重信が政府財政の確保に向けて、明治元年から翌年7月8日の太政官制の改革で大蔵大輔(⇒読み方は、たゆうorたいふ)に任じられるまで[2]、監督強化と租税収奪を強行している。大隈の元には井上馨、伊藤博文、五代友厚らの「西洋主義者」が結集していた。3年9月には参議[3]に任じられた大隈が大輔を務める大蔵省は政府の財政難救済のために全国的増税策を進めたが、この新政府の地方政策に対しては、戦禍や軍事負担に伴う蜂起、農民闘争が多発していた。明治2年は特に東北地方が凶作で、3年末にかけて、帰農に伴う諸負担に反発した仙台藩士の蜂起を含めた農民闘争が発生した。4年の2月に発生した福島県の伊達郡での暴動には二万人が参加したと言われている。
政府では、昨年提示した諸務変革11カ条に続き、明治3年9月に「藩制」を頒布(はんぷ)して、三治一致を進めた。これは要するに府県藩の経営合理化を政府が指導する事で、特に藩については大中小の三ランクに分けた上で、職員数、藩高に対する海陸軍資、公廨費[4]などを定めている他、藩債の「償却」義務化、藩札回収指示などがなされた。集議院[5]での禄制改革の審議において、無条件に禄米の平均化を主張した藩が23藩あった(⇒多分、小藩の茹でガエル状態の事例としての記述だろう)。また、有力藩も旧禄の十分の一程度の削減を余儀なくされた。
政府の府県藩三治政策、版籍奉還とその後の諸務改革のなかで、中小藩の廃藩が現実化し、明治4年7月14日の廃藩置県に至るまでに16藩が廃藩となり他藩への併合や県へ移行した(⇒藩の経済的破綻の明確化が改革の要)。御三卿の一橋家と田安家を除く大藩では盛岡藩が含まれている。盛岡藩と対照をなすのは米沢藩で、戊辰戦争で四万石の冊封処分を受けたにもかかわらず、明治3年以降の急進的な改革によって切り抜けている。
[1] 府県は明治元年より旧幕府の直轄地で、この時点でも全国に多数存在した
[2] この間、大隈は政府の金札通用と外交問題の処理に尽力し、元年12月には外国官副知事、二年正月に参与となり及び会計官副知事を兼任
[3] 参議は実質的に政府の最高幹部。この時の参議は、大久保利通、広沢真臣、木戸孝允等6人
[4] 公廨費(くげひ、給与)
[5] 集議院は明治2年7月に公議所が改組されて発足した(⇒公議所と異なり立法権は剥奪されていた)
2 三藩親兵と廃藩論
明治2年6月17日に勅許された版籍奉還と政府が提示した諸務変革11カ条および翌年9月に頒布された「藩制」によって藩体制の解体は現実化していく、と同時に諸抵抗も顕在化してくる。藩経済の破綻やそれに基づいた秩序破壊や新政府の集権的施策に対する反発の他にも、攘夷から開国へと方向を転換した新政府に対する攘夷論者や守旧論者の反政府的行動も少なくなく、また、新政府内における政府改革についての意見も統一されているとは必ずしも言えなかった。
従って、新政府にとっては、統一した意思決定の仕組みの模索、廃藩後の地方統治方法、政府の軍事力確保は根本的課題であった(⇒薩長によるクーデター直後のこの時期における喫緊の課題は、暴力的反政府行動を新政府として制圧可能な軍事力の保持であったろう)。そのためには、鹿児島、山口、高知の三藩はもとより、戊辰戦争で新政府側に協力した名古屋、福井、徳島、鳥取などの有力大藩、新政府にとって役立つ力を持つとともに改革に積極的とみられた熊本、佐賀、彦根および米沢などの藩の取り込み、そして強力な改革推進者達の参画と合意が必要であった。
大納言[1]岩倉具視は明治3年中頃には政府の将来的な在り方の追求や郡県制を基本とした「政令一途」を企図するようになり、明治4年初め頃には有力大藩を集めた会議を計画している。高知藩を筆頭とする改革派の諸藩の中では、明治4年春頃には「人民平均」を具体化した上で、政府が議院を開くという考えも醸成されていた。
明治2年正月の横井小楠の暗殺に続き、同年9月に兵部大輔[2]大村永敏(⇒長州藩出身、益二郎)が山口藩関係者に襲撃されて11月に死去する。明治2年11月、山口藩は諸隊改編令[3]を発し、そのことで多数の兵士が脱退し、明治3年正月に知藩事の山口公館を包囲する「脱隊騒動」が発生した(⇒2月11日、木戸孝允は藩兵を率いて脱隊兵を鎮圧している)。山口藩脱退兵の大楽源太郎[4]は、日田県[5]庁襲撃を企図した周防大島襲撃後に、九州の反政府士族河上彦斎[6]のもとに逃れ、久留米藩[7]大参事水野正名[8]、応変隊[9]参謀小河真文[10]らに匿われていた。明治2年~3年にかけての、このような反政府運動に対して、参議木戸孝允は大楽らの暗躍を憂慮し、政府は2年12月に陸軍少将四条隆謌を巡察使任じて兵部省直属の兵員を派遣し、また、弾正少忠[11]の河野敏鎌[12]を日田県に出張させた(⇒山口県脱退兵の策動を鎮圧するため。3年11月)。明治4年正月に参議広沢真臣が暗殺され、同年3月に華族の外山光輔と愛宕通旭を盟主とする攘夷派の政府打倒計画が発覚し、政府は弾圧の徹底を余儀なくされていた(⇒外山と愛宕は3月7日に逮捕後12月に自刃の処断、久留米藩大参事水野正名は3月14日に河野敏鎌に捉えられ、後に弘前監獄で獄死)。
このような状況において、岩倉は島津久光や毛利敬親、そして鹿児島藩士族に絶大な影響力を持つ西郷隆盛を政府に取り込むことに尽力し、参議大久保利通も鹿児島藩の取り込みに注力し、兵部少輔山県有朋も、政府の軍隊について重視する部分には相違があるものの西郷隆盛を上京させることについては同意している。明治3年12月18日、勅使として岩倉は大久保と山県とともに鹿児島に入り、忠義と久光へ勅書を与え、両者が「王室ノ羽翼」「国家の柱石」であることを強調している(⇒承認欲求を満たす力の行使だろう)。明治3年末頃に西郷隆盛の政府への取り込みに成功した後、明治4年正月7日に岩倉は西郷を伴って山口に入り、敬親にも勅語を授けて上京を促した。大久保と木戸の両参議らは西郷の意向を受けて高知藩に赴き、明治4年正月19日、高知藩大参事板垣退助らと会談し、高知藩にも政府改革に参加するように求めた。かくして大久保、西郷、木戸、そして岩倉が東京に帰着すると、明治4年2月8日に三藩親兵の上京に向けた会議が三条実美の屋敷で開催された。翌日の三職会議[13]で鹿児島、山口、高知の三藩の兵を徴して御親兵[14]とすることが合意されている。
三藩の兵の東京集結が具体化した後に東京に戻った木戸孝允は、6月11日に岩倉に対して「天下速に一途に帰し諸藩の方向弥一定する」ことの必要を伝えた。これは版籍奉還を第一段とし、第二段に「此期を以て諸藩へ同一の命を下し、帰一の実を挙げん」という廃藩へ向けた思いであった。政府改革案に関して大久保等と木戸孝允は対立していた。木戸は伊藤の進言もあって、大納言と参議の必要を強調し、それを上院にあたる議政官にすることを主張している(⇒木戸は議会の重視、大久保と岩倉は行政制度重視であったと思う)。大久保は木戸を参議に擁立することを提起したが、木戸はこれを固持して膠着状態となった(⇒木戸以外の参議[15]は全員辞任して、三藩の行政参加代表を木戸に一人にするという意味だと思う)。しかし、木戸は6月25日には西郷とともに参議を受諾し、7月には制度取調会議[16]を開催していた(⇒意見の相違があったとしても、国家のルール作りに大久保も木戸も岩倉も西郷も参加したことに意味があるのだろう)。
[1] 明治2年7月8日に太政官に設置され明治4年7月29日に廃止された行政の重要役職
[2] 国の防衛と治安維持を管轄する機関である兵部省の次官
[3] 版籍奉還後の山口藩の兵士削減策、奇兵隊など平民出身者が冷遇された
[4] 尊皇攘夷派の長州藩士、反政府分子の嫌疑多く、明治4年に応変隊員により斬殺される
[5] 明治政府が慶応四年に設置した県、現在の大分県と福岡県東部に相当する
[6] 攘夷派の熊本藩士、佐久間象山の暗殺者、危険人物と見られ明治4年に小伝馬町で斬首
[7] 幕末には攘夷派と佐幕派の争いで消耗し、反政府分子の土壌あり、廃藩置県で消滅
[8] 大参事として藩の立て直し実施中、尊王攘夷派への藩の関与嫌疑で自身が調査中捕縛され、明治五年11月に弘前監獄で獄死
[9] 久留米藩尊皇攘夷派水野正名が創設した、武士・町民・農民混成軍団
[10] 新政府に対するクーデター計画に連座した尊攘派久留米藩士で、新政府に逮捕され斬罪
[11] 警察官僚16等級中8等級
[12] 1844年生まれの土佐藩郷士、後に立憲改進党副総理、文部大臣等歴任
[13] 総裁、議定、参与による当時の政府の意思決定会議
[14] 新政府直属の軍隊で、当面天皇及び御所の護衛を目的とする
[15] 岩倉、大隈、広沢が暗殺されているから他二名だと思う
[16] 明治憲法制定のために設置された「制度取調局」の前身だと思う
3 廃藩置県の決断
明治4年7月9日夕刻から、鹿児島藩と山口藩による廃藩を決断する密議が木戸邸にて行われた。参加者は山口藩から木戸と井上と山県、薩摩藩からは西郷と大久保と西郷従道と大山巌が参加し、主役は木戸と西郷及び大久保であった。軍事力行使もいとわないことも決められ、兵員は西郷が、資金は井上が担当した。廃藩の発表は、知事を上京させてから行うのではなく、直ちに行うことに決まった(⇒版籍奉還は天皇に土地を返還することを意味するが、廃藩とは藩という一つのクニが消滅することを意味する。薩長だけでこれを決断した新政府の実力者達の、この時点での夫々の本当の判断根拠には興味がある)。
この密議の内容は7月12日に三条と岩倉に伝えられた。鹿児島、山口両藩をはじめとする有力藩の一大会議の開催を準備し「大藩同心意見書」(⇒大隈が岩倉のもとで作成)作成などに尽力していた岩倉は狼狽し「恭悦と申迄もなく候得共狼狽」[1]であった。同日三条のもとへ向かう岩倉に対して、大久保は、王政復古の際の心境を伝え、必ず廃藩断行の裁断を下されるよう釘をさし、「大を取而小を去ル之趣意」で決断、同意したと岩倉を説得した[2]。
[1] 「岩倉具視書翰」明治四年七月十二日『岩倉具視関係文書5』87頁
[2] 『大久保利通日記2』明治四年七月十三日の条、178頁
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