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1946年9月、焦土と化した東京都内にて、食糧難と住宅難と就職難の中、運良く生き抜いた両親の新しき時代の一発目として生を受けるも、一年未満で感染症にて死にかける。生き延びたのは、ご近所に住む朝鮮人女性のもらい乳と父親がやっと手にした本の印税全部を叩いて進駐軍から手に入れたペニシリンのおかげであったらしい。ここまでは当然記憶にない。記憶になくても疑えないことである。 物心がついた頃には理系少年になっていた。それが何故なのか定かではないが、誤魔化しうるコトバより、誤魔化しえない数や図形に安堵を覚えたのかもしれない。言葉というものが、単なる記号ではなく、実は世界を分節し、意味と価値の認識それ自体をも可能にするものであることに気付きはじめたのは50歳を過ぎてからであった。 30年間程の企業勤めの後、現在は知の世界に遊ぶ自称哲学徒、通称孫が気になる普通の爺~じ。ブログには庭で育てている薔薇の写真も載せました。

2019年4月19日金曜日

4月19日(金) 岩波『日本歴史』版籍奉還をさせるための木戸孝允等の努力を支えたものは?

岩波講座 日本歴史 第15巻 近現代Ⅰ(2014.2.19)
戊辰戦争と廃藩置県


二 版籍奉還の上表
ピンクパンサー

1        版籍奉還の論形成
慶応三年1014日の大政奉還以降翌年の明治元年末にかけて、薩摩藩、長州藩のキーマンが主導して版籍奉還の議論が煮詰まって行く(⇒幕末より、弱体化した徳川幕府に代わって近代に相応しい新政府を樹立すべきだという考えを持った勢力が力を蓄えつつあったが、その内実は多様であった。新勢力にとっては、慶喜の大政奉還という手に対して、300程の藩という組織体の統治権力を掌握して新しいコンセプトの下で再編成することは喫緊の課題であったものの、これをどのように実行するかと言う合意を得るには段階を踏む必要があった。しかも短時間の内に。そのことを新旧体制の一部の指導者達は理解していたのだろう)

2 版籍奉還の上表
東京から京都に還幸する(明治元年12月8日~22日)天皇に同行していた大久保利通は、同年末から翌年正月にかけて、版籍奉還論に関し、岩倉具視、長州の木戸孝允・広沢真臣、薩摩の小松帯刀・吉井友美・伊地知貞聲らと会談を重ね、岩倉に対しては京都で木戸との調整を画策し、薩摩藩に対しては長州藩への「信宜」貫徹を強調していた。
長州藩の広沢は版籍奉還論に関して、明治元年12月に兵庫で伊藤博文に会った翌月1日に京都にて世子の毛利元徳から下問を受け、在京の土佐藩主山内豊範に呼びかけて同意をえていた(⇒同月14日以前のはず)。
明治2年正月14日、京都の円山瑞療に薩摩藩の大久保利通、長州藩の広沢真臣、土佐藩の板垣退助(⇒土佐藩参加の背景は戊辰戦争での活躍だろう)等が集まり、三藩による「土地人民返上」の会議が、広沢の主導で開かれた。まず三藩が同心・戮力して朝廷を輔翼することに合意した。会議の概要は大久保が岩倉に宛てた書面に記載されている。18日には肥前が加わった「薩長土肥御連盟御建白書一件」が「治定」となり、20日に「重臣一同」が参朝して、毛利敬親、島津忠義、鍋島直大、山内豊範の四藩主名の上表が行われた。その後、因習(鳥取)・佐土原(宮崎)・越前・肥後・大垣・米沢などの奉還願いが相次いだが、版籍奉還の上表は、諸藩が必ずしも大隈重信の「昔日譚」に記されたような、「判物の書換」に欺かれて提出したわけではない(⇒諸藩の上表提出には各藩なりの判断があった)。



3 侯伯大会議の開催
明治二年正月20日に行われた、薩長土肥藩主による版籍奉還の上表以後、木戸、岩倉、大久保は、その趣旨を全国にわたり実行可能にすべく迅速な行動を開始した。木戸は天皇の東京再幸にあわせての奉還を企図し、岩倉は上局会議[1]として「侯伯大会議」を予定するとともに薩長両藩への勅使を具体化した。しかし、京都や東京の政府内にも、薩摩、長州の藩内にも、木戸や岩倉や大久保などの思惑に反する状況も存在していた。
岩倉は東京での「侯伯大会議」の開催と、そこでの版籍奉還問題の推進に全力を傾注し、天皇は3月7日に発輦して3月28日に東京に到着した。版籍奉還問題について岩倉と密議を重ねていた木戸は、四藩の上表後の再幸にあわせて、数十藩が奉還上表を行い、政府がそれを断行できるように企図し、三条実美は54日、薩長土肥の公議人を招いて、版籍奉還に関する「機務」を下問し、郡県制の是非についての意見を徴し、517日に答申が行われた。
同時期に公議所では郡県制への移行が議論され、軍務官判事議事取調兼務の森有礼が54日に「御国体之儀ニ付問題四条」を提起して、それを「衆議院」連名の議案としてしている。版籍奉還問題に対する制度面については、制度療で具体案作成していた。岩倉は「侯伯大会議」に向けて腹心を参画させて原案の作成を試み「岩倉案」として政府会議に提示した。
東京での「侯伯大会議」は上局会議として開催され、521日に、行政官や六官の五等官以上、上級の公卿と有力諸侯の麝香間祗候(⇒名誉職)に対して、皇道興隆、知藩事選任、蝦夷地開拓の三件が諮詢された(⇒知藩事選任が諮詢された。要するに天皇の命によって、廃藩置県の実行を目指したプランが動き始めた)。



[1] 明治初年の立法機関。議定・参与などで構成され、政体の創立、法律の制定、条約の締結などを職掌した



4 版籍奉還と諸務変革
版籍奉還は、その断行を巡って、政府内は改革に急進的な木戸孝允、後藤象二郎と漸進的な大久保利通と副島種臣の対立が生じたが、調整を重ねた結果、明治二年617日に勅許され、同日、公卿、諸侯の称が廃されて「華族」に統一された。藩主は藩知事に任じられ、25日までの藩知事任用は262藩となった(⇒この段階では藩の実質的統治は前藩主である藩知事にある)。大藩の有力家臣の地方知行[1]が廃されて稟米支給[2]に改められた。この勅許の直後に、政府は諸務変革11カ条を提示した。
版籍奉還の断行は、知藩事任用と公卿、諸侯の廃止に伴う華族の勅許が最優先され、その後に藩政の在り方や改革が検討された。この諸務変革については、大久保の原案が政府内の主な検討案とされたようである。大久保の検討案文は、625日に知藩事等に対して出された行政官達の根幹となった。それは、政府が諸藩の職制、兵制、家禄などを把握してその改革を指示するものと理解され、奉還後の郡県制への移行や各藩の改革の推進に繋がるものであった。




[1] 家臣に土地の支配権、つまりその土地からの収益に対する処分権を与えること
[2] 蓄えられた米の支給



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