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1946年9月、焦土と化した東京都内にて、食糧難と住宅難と就職難の中、運良く生き抜いた両親の新しき時代の一発目として生を受けるも、一年未満で感染症にて死にかける。生き延びたのは、ご近所に住む朝鮮人女性のもらい乳と父親がやっと手にした本の印税全部を叩いて進駐軍から手に入れたペニシリンのおかげであったらしい。ここまでは当然記憶にない。記憶になくても疑えないことである。 物心がついた頃には理系少年になっていた。それが何故なのか定かではないが、誤魔化しうるコトバより、誤魔化しえない数や図形に安堵を覚えたのかもしれない。言葉というものが、単なる記号ではなく、実は世界を分節し、意味と価値の認識それ自体をも可能にするものであることに気付きはじめたのは50歳を過ぎてからであった。 30年間程の企業勤めの後、現在は知の世界に遊ぶ自称哲学徒、通称孫が気になる普通の爺~じ。ブログには庭で育てている薔薇の写真も載せました。

2019年4月15日月曜日

4月15日(月) 岩波『日本歴史』戊辰戦争が終わって近代日本が始動し始める

 15巻からが近現代が始まる。章ごとに纏まった時点で別ブログに掲載していくつもりで、緒言的な「近現代史への招待」(吉田裕著)は既に掲載したが、本章に入った途端に色々調べつつ読まないと分からなくなり、進まなくなった。
そこで、このブログには各節くらい毎の概要のみを掲載して、一つの章が纏まったら別ブログに掲載していく事にした。

岩波講座 日本歴史 第15巻 近現代Ⅰ(2014.2.19)
戊辰戦争と廃藩置県

はじめに
ピース

慶応三年(1867)1014日の大政奉還、129日の王政復古と続くが、新政権の基盤をなす内政、外交などの実権の掌握と、土地人民の掌握である「王土王民」の原則を貫徹するには、慶応四年(1868)正月の鳥羽伏見の戦いに始まる戊辰戦争の勝利が不可欠であった。戊辰戦争は、翌明治2518日の函館の奪回まで続く。戊辰戦争と軌を一にして版籍奉還が企図されて明治26月に実行され、続いて明治47月に廃藩置県が断行される。戊辰戦争、版籍奉還、廃藩置県によって新政権の権力基盤が形成されていったが、これらについては尚研究が進行中である(⇒新政府の誕生や権力構造についての理解は、その後に形成された歴史意識によって曇らされているようだ。一般理解に至っては著名な歴史小説家の言説に依存しているのだろう)。

一 王政復古と戊辰戦争
1 鳥羽・伏見戦争と徳川慶喜
慶応四年正月三日に始まった鳥羽・伏見の戦いは、幕府側が大敗し、「朝敵」と断じられた。王政復古が断行されると二条城から大阪城へ移っていた徳川慶喜は正月六日夜に大阪城を抜け出して天保山沖に出て米国の軍艦に助けられ、翌朝幕府の開陽丸に移り、八日に開纜(ともづな)して江戸に逃れた。大阪城中では七日になって慶喜脱出を知り愕然となった。
新政府は七日には徳川慶喜に対して征討令を発することで諸侯の去就を確定させた。次いで徳川諸藩の要職に就いていた姫路藩は帰順し、板倉老中の出身である備中松山藩は開城した。江戸詰の老中稲葉正邦の淀藩は戦い早々に撤退してきた幕府側の入城を拒んでいた。(⇒要するに幕府側は一体になって闘う状況には無かったのだろう。しかし、なぜ?の疑問に対しては前史に溯ることで理解が深まる)
  
2 新政府軍と江戸開城
慶応四年正月六日に始まった鳥羽伏見の戦いがわずか数日で幕府側の大敗で終わった直後、新政府側は東征軍(⇒主力は薩長軍)を東海道、東山道、北陸道の各方面に分けて進軍させ、315日には江戸城進撃というその前日、幕府陸軍総督の勝海舟と新政府大総督府参謀西郷隆盛が江戸薩摩藩邸にて面談し、徳川氏処分と翌日の江戸城進撃中止と江戸開城について合意する。新政府側は勝との合意を無視して先鋒総督参謀海江田信義(⇒薩摩藩士、西郷、大久保の盟友)が411日明け方に兵力を動員して江戸城に入城した。
その間、新政府は、統治体制、官僚組織、財政政策、軍の掌握などに関連した施策を急速に進めた。しかし、外交的配慮が幕府側に比べて遅れていたために、東征に際しては幾つかの問題が発生した。江戸に逃げ帰った慶喜は、当初は新政府に反発していたが「朝敵」にされるや212日に寛永寺に閉居し、411日未明に江戸城を退去し水戸へ向かった。その後戊辰戦争終了までの幕府側の抵抗については、事項にて述べられる。

3 関東の騒乱
江戸開城後も旧幕府勢力は、市中では上野に彰義隊が残り、江戸周辺では江戸周辺の旧幕府軍と連繋して新政府側と閏4月末ほどまで対峙したが、519日に彰義隊が半日で壊滅し、新政府は同日、江戸鎮台の設置と徳川家達を70万石にて駿河府中移封を命じた。

*新政府軍に抵抗した19歳の小藩主のエピソード
 請西藩の藩主主林忠崇の反抗。請西藩は木更津の小さな藩であるが、藩主主林忠崇は、江戸を脱走した旧幕府遊撃隊と連繋して新政府軍に抵抗した。当時20歳程であった請西藩主は、近辺の勝山藩、飯野藩、館山藩等から出兵させ、小田原藩に協力を求め、韮山代官江川英武にも出兵協力を要請し、駿河藩や駿河勤番与力等の応援部隊と合流し、御殿場から甲府へ進撃して占拠を試みたが、山岡鉄舟等の出張などで断念し、上野の彰義隊の戦いに呼応して箱根の関所を守る小田原藩と戦い、最後は後述の東北戦争に参加中に降伏する(⇒請西藩は最後に改易された藩となった。かなり長い困窮生活の後、忠崇は1893年になってやっと華族に復権し、194192歳で最後に生き残った大名として逝去)

4 奥羽越列藩同盟と箱館戦争
新政府は鳥羽伏見の戦い直後の正月15日に奥羽諸藩に対して応援を要請する一方、江戸開城後も東征軍は東山道、北陸道を進軍し、奥羽鎮撫総督九条道孝以下は仙台へ派遣され、艦隊は兵を乗船させて太平洋沿岸を北上した。しかし、新政府側が奥羽と越後の諸藩を統治下に置くのは、紆余曲折を経た後、会津藩が降伏する922日頃となる。この内戦で、奥羽越列藩同盟を結んで抵抗した諸藩においては、その対応の様は多様であった。
旧幕府の海軍副総裁は、江戸開城後も軍艦の引き渡しに抵抗し、彰義隊に擁された輪王寺宮や関東近辺の旧幕府側抵抗勢力の一部を茨城県の平潟や福島県の小名浜に送っていた。そして、慶喜の静岡移封を見届けた上で前老中板倉勝重、同小笠原長行、前若年寄永井尚  志、前所司代松平定敬等、総勢2500名が819日に北海道へ向かい1025日に函館を占領したが、翌年518日に榎本が立てこもった五稜郭が降伏して箱館戦争は終結した。
この戊辰戦争による処罰については、会津藩主松平容保、喜徳父子が死一等を減じて永禁錮、継子とされた容保の子容大が削封に処され、仙台藩主伊達慶邦、庄内藩主酒井忠篤、南部藩主南部利剛、長岡藩主牧野忠訓、二本松藩主丹羽長国などが隠居、謹慎とされたほか、諸藩の首謀者は13人が斬罪と永禁錮に処された。また藩としての処分は石高の削減、転封、削封等に処された。(⇒戊辰戦争による戦死者は8500人程で、内新政府軍と旧幕府軍は大体同数、旧幕府軍の内会津藩が大体半数。近代の内戦としては極めて少ない。例えばアメリカの南北戦争では4年間で60万人程、フランス革命ではナポレオン戦争を含めてではあるが23年間で兵士と民間人がそれぞれ200万人ほどと言われている)。



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