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1946年9月、焦土と化した東京都内にて、食糧難と住宅難と就職難の中、運良く生き抜いた両親の新しき時代の一発目として生を受けるも、一年未満で感染症にて死にかける。生き延びたのは、ご近所に住む朝鮮人女性のもらい乳と父親がやっと手にした本の印税全部を叩いて進駐軍から手に入れたペニシリンのおかげであったらしい。ここまでは当然記憶にない。記憶になくても疑えないことである。 物心がついた頃には理系少年になっていた。それが何故なのか定かではないが、誤魔化しうるコトバより、誤魔化しえない数や図形に安堵を覚えたのかもしれない。言葉というものが、単なる記号ではなく、実は世界を分節し、意味と価値の認識それ自体をも可能にするものであることに気付きはじめたのは50歳を過ぎてからであった。 30年間程の企業勤めの後、現在は知の世界に遊ぶ自称哲学徒、通称孫が気になる普通の爺~じ。ブログには庭で育てている薔薇の写真も載せました。

2024年1月7日日曜日

加藤典洋『敗戦後論』を今頃ゆっくり読んでみた、読書感想文

ピエール・ドゥ・ロンサール
 “戦後とは何か。それは、敗戦によってすべのものがあべこべになった、「さかさまの世界」である。そして、それが、誰の目にも「さかさま」には見えなくなった頃から、わたし達はそれを、「戦後」と呼び始めている” 著者のこの意識が捉えているものは何だろうか?

 「ねじれ」という独特のキーワードが出てくる。これは、事象の核心に迫ることを何故か邪魔するような存在を表現したコトバのようだが、その意味は文学的でなかなか捉えにくい。まず、「義」のない戦をした敗戦国は、その後「ねじれ」た時間強いられるのだ、という言い方で出てくる。以後、天皇の戦争責任、日本国憲法、戦死者の追悼、他国への謝罪、冷戦下の外交、等々、「われわれ」の国家存続に関わる根本的問題に対する議論の場面において発生してくる奇妙な政治・社会現象に対して、著者はこの「ねじれ」というコトバを用いて説明を続けていく。 

 「戦後」というコトバについては、その本質は、ジキル氏とハイド氏のような人格的分裂にあるのではないか、と表現をしている。もちろん、戦争は第二次世界大戦のことだが、この戦争は日本の「侵略戦争」だと明確に位置づけられている。つまり義のない戦争だったから、人格的分裂を起こし、ねじれた戦後が半世紀経っても巻き戻らないのだ、と。

  もう一つ「汚れ」というキーワードが出てくる。義のない戦争であったことでその死が無意味となってしまった同胞兵士の死を弔うことさえ出来ない、日本の侵略戦争で死んだ2000万人とも言われているアジアの人々に対する謝罪も出来ない、このような現象が生じているのは、「ねじれ」ているからで、それは死を弔うという人間社会の根源的営みもできなくするのだと。そして、この種の「ねじれ」の根底には「汚れ」と呼ばれるようなもの、つまり「悪」があって、その汚れた己を恐ろしくて見ることが出来ないから「ねじれ」が生じるのだと、著者は言っている。そして、「わたし達に残されている道は、汚れた場所からつまり悪から善を作り出さねばならない外部のない道だ」と表現する。

  著者は本書の最後を、『俘虜記』『レイテ戦記』の著者である捕虜経験兵士の大岡昇平を「戦後というサッカー場の最も身体の軸のしっかりしたゴールキーパーだった」と評価し、次のような文章で締めくくっている。“1945年8月、負け点を引き受け、長い戦後を、敗者として生きた。きっと、「ねじれ」からの回復とは、「ねじれ」を最後まで持ちこたえる、ということである。そのことの方が、回復それ自体より、経験としては大きい。” 

 考察の基本となる事柄、事象の主なものは、さまざまな戦中記録、日本国憲法、戦争責任、靖国問題、謝罪問題、反戦活動、論壇の風景、文学界の風景、等々。それらの事柄に関する、思想家、評論家、文学者、学者などの認識の仕方・考え方を紹介しながら対比し、自説を語っている。その語りの中で一貫しているのは、史実に忠実であろうとする態度(勢い余った重大な史実誤認を訂正して注記した箇所があった)と、もう一つ、「ねじれ」認識の有無という独特の指標だ。ねじれ認識ありの人を自覚派と呼べば、もちろん自覚派は少数となる。単純にし過ぎると問題ありだが、事柄・事象ごとに自覚派と無自覚派が記載されている。それらの事柄・事象に対する両派の論理やそれを踏まえた著者の見解はそれぞれ面白い。以下に、印象に残った所二カ所を挙げてみる。

  一つは、新憲法に反対した美濃部達吉の主張。美濃部は、連合国最高司令官マッカーサーがそれを見て占領軍司令部の憲法案を「押しつける」以外はないと決断させた、所謂「松本私案」の内容を作成した憲法学者で、もし、他国の占領下において新憲法を作ることを受け入れるのであれば、次善の策として憲法案の第一条に「日本帝国ハ連合国ノ指揮ヲ受ケテ 天皇之ヲ統治ス」とすべき、主張した。美濃部は、日本国が主権を回復後に自国民が自らの手によって新憲法を制定しなければならないと考えていたのは明らかであろう。美濃部を批判した無自覚派には家永三郎、松尾尊兊(たかよし)、が挙げられており、批判の視点はそれぞれ違うが無自覚派という点では共通している。その後、「護憲派」と「改憲派」間の論争が不毛なものである理由が「ねじれ」にある、ということよく分かる。尚、1945/9/2(戦艦ミズリー艦上でのマッカーサー演説)から翌年11月3日の公布にいたる憲法制定プロセスを良く見てみると、占領下での憲法であったことがよく理解できる。

  もう一つは、『戦艦大和ノ最後』(吉田満)に出てくる21歳の白淵大尉の発言記録。生きては帰れぬことを覚悟して、いわば特攻出撃した戦艦大和の士官室内で青年士官達の間で自由討議の場が出現した。その場で、この作戦は軍事的に無意味だという点では全員が一致したが、一人の士官白淵大尉の発言が記録されている。「進歩ノナイ者ハ決シテ勝タナイ 負ケテメザメルコトガ最上ノ道ダ 日本ハ進歩トイウコトヲ軽ンジスギタ(中略)敗レテ目覚メル、ソレ以外ニドウシテ日本ガ救ワレルカ 今日目覚メズシテイツ救ワレルカ 俺タチハソノ先導ニナルノダ」、と。著者は、わたし達だけではなくこの戦で無意味に死んだ死者達も、わたし達のもとでは二様の死者として分裂している。だから、戦後にセットで行うべきである謝罪と鎮魂をできていない、と認識し、この分裂を乗り越える道はどこにあるのだろうと、問うている。その問いに答えるヒントが、白淵大尉の上記記録にあるという。つまり「たとえ一人(白淵)であれ、わたし達がこのような死者をもっていることは、わたし達にとって、一つの啓示ではないだろうか。死者は顔をもたなければならないが、ここにいるのは、どれほど自分たちが愚かしく、無意味な死を死ぬかを知りつつ、むしろそのことに意味を認めて、死んでいった一人の死者だからである」、と。この啓示は何だろうか?。

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