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1946年9月、焦土と化した東京都内にて、食糧難と住宅難と就職難の中、運良く生き抜いた両親の新しき時代の一発目として生を受けるも、一年未満で感染症にて死にかける。生き延びたのは、ご近所に住む朝鮮人女性のもらい乳と父親がやっと手にした本の印税全部を叩いて進駐軍から手に入れたペニシリンのおかげであったらしい。ここまでは当然記憶にない。記憶になくても疑えないことである。 物心がついた頃には理系少年になっていた。それが何故なのか定かではないが、誤魔化しうるコトバより、誤魔化しえない数や図形に安堵を覚えたのかもしれない。言葉というものが、単なる記号ではなく、実は世界を分節し、意味と価値の認識それ自体をも可能にするものであることに気付きはじめたのは50歳を過ぎてからであった。 30年間程の企業勤めの後、現在は知の世界に遊ぶ自称哲学徒、通称孫が気になる普通の爺~じ。ブログには庭で育てている薔薇の写真も載せました。

2020年7月15日水曜日

7月15日(水) プラトン『饗宴』を中澤務訳(光文社文庫版)で再読してみた(追記2021/1/3)

 『饗宴』はプラトンの中期対話編の作品で、『パイドロス』『パイドン』とともに文学的作品としても優れていると評判が高い。

本書は8年ほど前に、竹田青嗣さんと西研さんが講師を務めた朝日カルチャー哲学講座「完全解読・ギリシャ哲学」の中で取り上げられていたときに、岩波
プリンセス・ドゥ・モナコ
文庫(久保務訳)で読んだことがあったのだが、その時は、この作品がもっている哲学的な意味あいを私はあまり深く考察してはいなかったと思える。

 今回、中澤訳で本書を再び読む気になったのは、西研さんの新著『哲学は対話する』の中の「知である徳を育てていくプロセス=愛知の営みがある、というプラトンの想いは隠されたままに『メノン』は終わる。だが、この“育成プロセスとしての愛知のあり方”は、続く『饗宴』『国家』『パイドロス』などの中期対話編で、はっきりと語られることになる」という行があって、つまり、育成プロスとしての愛知(=哲学)のあり方が、本書のテーマである「エロス論」に語られている、と述べられていたからである。読んでみると、確かにプラトン哲学に対する理解が一歩進んだように思えた。エロスは、はじめは恋愛とか性欲の場面で理解しやすいのだが、死をもいとわない名誉という場面での生の強烈さを発現するものでもあり、よいものの究極としての美を、その価値の本質としてもっているのだ、と。

 本書の要点は「第8章 ソクラテスの話」にでてくるエロス論となる。その記述は、ソクラテスが、ペロポネソス半島にあるマンティネイアというポリスのからやって来たディオティマという名前の巫女風の賢者の話という形をとっている。ディオティマは、エロス(=愛)は、よいものを永遠に自分のものにすることを求め、名誉と不死を求め、そのエロス道には5つの段階があって、それぞれの段階は美に関係づけられながら次第に進み、最終段階ではある驚くべき本性をもった美を目の当たりにする、と言う。第8章の最後の行は以下のようなものである。

ディオティマ:『いや、むしろこうは思わぬか。―――そのような生(=エロ-スの道を極めた段階にある人間の生)においてのみ、人間はしかるべき力を用いて美を見る。だから、そのような者が徳の幻影を生み出すようなことはない。なぜなら、彼が触れているのは、幻影ではないのだから。むしろ、彼は真実に触れているから、真実の徳を生み出すことができる。そして彼は、真実の徳を生み出して育むことにより、神に愛されるものとなり、また不死なる存在にすらなれるのだと―――もっとも、そんなことが人間に許されればの話だがな。』

 ソクラテスの言うエロスのもっている強烈さが、中澤訳では良く表現されていたと思ったので、その一例も抜粋してみた。

ディオティマ:『ためしに、人間の持つ名誉欲というものをよく見てみよ。さきほど私がした話の意味をよく考えるのだ。さもなくば、おまえは〔名誉愛に取りつかれた人間の行動は〕なんと不合理なのかと、びっくりすることになるぞ。なにしろ、人は、名をあげて〈不死なる栄誉を永遠に手に入れること〉を求めるエロスゆえに、ものすごい状態に陥るのだからな。すなわち、人は子どものためよりもはるかに熱心に、名誉のためにあらゆる危険を冒し、金を使い、あらゆる苦難に耐え、そして死をもいとわぬのだ』

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