夢香 |
初期対話編の最後の著であるそうな『メノン』には、他の初期対話編のように個別の「徳=アレテー=卓越性」、つまり『ラケス』では「勇気」、『弁明』では「弁論」などの技能や「正義」、ではなくてそれらが共通に「徳」と呼ばれている契機(本質)に対する問い、つまり「徳とは何か」に対するソクラテスの考えが述べられている、と西研さんは言っている。しかし、ソクラテスは例によって「徳とはかくかくしかじかのものです」のような答えを言わない。だが、西研さんはそこにとどまらずに解釈を加えている。「<徳は簡単には教えられないとしても、知である徳を育てていくプロセス=愛知の営みがある>というプラトンの想いは隠されたままに『メノン』は終わる。」のだが、この愛知のあり方は『饗宴』『国家』『パイドロス』などの中期対話編の中でハッキリ語られることになる、と。ナルホド。
対話の一部を抜粋してみると
○ソクラテス:神々に誓って、メノン、君は徳とは何であるかと主張するのかね? どうか惜しまずに教えてくれ給え
○メノン:いや、ソクラテス、お答えするのは別にむずかしいことではありません。まず、男の徳とは何かとおたずねなら、それを言うのはわけないこと、つまり、国事を処理する能力を持ち、かつ処理するにあたって、よく友を利して敵を害し・・・。これが男の徳というものです。さらに、女の徳と言われるなら・・・。というふうに、なんなく説明できます。そして子供には・・・、年配のものには・・・、自由人には自由人の徳、召使いに召使いの徳があります」
○ソクラテス:もしさまざまの人間の徳が同じものでなかったとしたら、同じ仕方ですぐれた者であるということは、ありえなかっただろう。君はその徳とは何であると主張するのか、言ってみてくれたまえ。
○メノン:人びとを支配する能力を持つこと、というよりほかはないでしょう。もしあなたが、あらゆる場合にあてはまるような、何か一つのものを求めているのでしたら。
○ソクラテス:支配する能力を持つこと、と君は主張するけれども、われわれはそこに、「正しく、不正にではなく」と付け加えるべきではないかね?
○メノン:たしかに付け加えるべきでしょうね。正義は、ソクラテス、徳なのですから。
○ソクラテス:徳、だろうか、メノン、それとも、徳の一種だろうか?
○メノンとソクラテス:いろいろな例を挙げて徳には他に沢山あることに同意する。例えば勇気、節制、知恵、度量の大きさ。
○ソクラテス:君の挙げたすべての徳目を貫いているただ一つの徳を、どうしてもわれわれは見つけ出すことが出来ないのだ。
この部分の対話から、ソクラテスはメノンが主張した徳、すなわち「徳とは正しく人を支配する能力である」という命題は背理であることを指摘することになる。つまり、徳とは徳の一部である正義をもって説明できるという論理は循環論法であると(結論の証明にその結論を用いている。この場合は、徳が何であるか不明→その徳の一部である正義も不明→徳の説明に正義を用いることは出来ない)。だが、問題はメノンの命題が背理であることではなくて、徳とは何かという問いの答えが出てこないことである。
さらに、ソクラテスに自分の循環論法を指摘されたメノンは、ついに逆ギレ的に(とは西研さん表現)ソクラテスに問う。
○メノン:おや、ソクラテス、いったいあなたは、それが何であるかがあなたにぜんぜんわかっていないとしたら、どうやってそれを探究するおつもりですか?
ソクラテスはこの「知らないことを探究することは、何を探究すべきか知らないのだから、それはできない」というソフィスト好みの難問に対する議論を、神々の事柄について知恵を持っている人達から聞いた話を引用して、一蹴してしまう。つまり、「不死の魂が既に学んでしまっていることを思い出せばよいのだ(想起説)」と。西研さんは、この部分について「---これは神話的に語られているが、徳などの探究はまったくの無知から始まるのではなく、体験的にわかっていること(実感)を明確化することだ、と私としては読んでみたいところである。」と述べている。ナルホド。
プラトンはソクラテスに最後まで「徳とは何か」の答えを言わせないどころか、謎めいた仕方で『メノン』は終わっている。
○ソクラテス:それでは、メノン、これまでの推論にしたがうかぎり、徳というものは、もし徳が誰かにそなわるとすれば、それは明らかに、神の恵みによってそなわるのだということになる。しかしながら、これについてほんとうに明確なことは、いかにして徳が人間にそなわるようになるかということよりも先に、徳それ自体はそもそも何であるかという問いを手がけてこそ、はじめてわれわれは知ることが出来るだろう。
と、そう述べてソクラテスはその場を去って行くのであった・・・・。