自己紹介

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1946年9月、焦土と化した東京都内にて、食糧難と住宅難と就職難の中、運良く生き抜いた両親の新しき時代の一発目として生を受けるも、一年未満で感染症にて死にかける。生き延びたのは、ご近所に住む朝鮮人女性のもらい乳と父親がやっと手にした本の印税全部を叩いて進駐軍から手に入れたペニシリンのおかげであったらしい。ここまでは当然記憶にない。記憶になくても疑えないことである。 物心がついた頃には理系少年になっていた。それが何故なのか定かではないが、誤魔化しうるコトバより、誤魔化しえない数や図形に安堵を覚えたのかもしれない。言葉というものが、単なる記号ではなく、実は世界を分節し、意味と価値の認識それ自体をも可能にするものであることに気付きはじめたのは50歳を過ぎてからであった。 30年間程の企業勤めの後、現在は知の世界に遊ぶ自称哲学徒、通称孫が気になる普通の爺~じ。ブログには庭で育てている薔薇の写真も載せました。

2018年10月28日日曜日

10月28日(日) 『呪われた部分』(ジョルジュ・バタイユ)を読んでみました

モッコウバラ
この本は11月4日(日)の読書会で紹介する予定にしている。

なぜこの本を読もうかと思った理由にはいくつかあるようだ。ひとつは、資本論を読んだ後になって更に明確になってきた本質的な問い、人間自体のより深い理解が必要なのではないかと言うと問いであった。もう一つは、現代に至り明確になってきた疑念、すなわち近代が切り開いた産業社会は、なるほどそれまでの時代に比べてより多くの人々に豊かな暮らしをもたらしたが、将来に向かって更により多くの、あるいは全ての人々に豊かな暮らしを実現する可能性をもたらすという期待に対する疑念、に経済学はどのように答えることが出来るのだろうかという問いである。

内容は、別ブログ「爺~じの「本の要約・メモ」を参照してもらうことにして、以下に本書の紹介文を書いておく。



 著者(1897年~1962年)はフランス 人の哲学者・思想家・文学者。本書は副題にあるように経 済学の本として書き始められたものだが、既に邦訳されて いる『エロチシズムの歴史』『至高性』と一体をなすものだ と言われている、つまり未完の書なのだ。

 本書の主張は常識とはかけ離れている。経済学が問題と すべきは非生産的で無駄な活動である消費・浪費・蕩尽だ というのだ。そのことは、地表に棲息する生物に含まれい て且つその系の頂点に立つ人間の営み、おそらくそれはエ ロチシズムと至高性に本源を持つ営みであろうが、その「呪 われた部分」を自覚的に見ればわかってくると。

  本書初版本の裏表紙には、「今日の人間の前には問題が突 きつけられている。すなわち彼が創り上げた富をどうする か?無限に、戦争を繰り返すか?富の、また全般に使用可 能エネルギーの氾濫が、かくまで深刻に世界を脅かしたた めしはいまだ嘗てない。」と、記されている。