河口湖から見えた富士山 |
なるほどねー、でも、この考えに賛同しないと日本国民ではないと言われたら、それは違うだろうね。本文でとりあえず目についた箇所から抜粋した文章をいくつか記しておきました。
第一章(現代世界の国家構造解説)のなかの「日本の君主制」という節より
「日本の皇室は、私の考えでは決して能力主義者ではない。君主にとっては、知能、武勇そのほかの政治能力も大切であるが、その能力が第一義ではない。なにが大切かといへば「公正無私」の精神的統合の資質である。」
「それ(=公正無私の高貴なる精神)は、神を祭ることによって生じる。日本の天皇は、神の祭り主としての任務を第一とされ、公正無私を第一とされた。」
「日本の天皇とは、祭り主としての公正無私を第一義とされた。国民は、人間的能力を基準として、国の最高位者を考えないで、祭り主の公明正大さを尊いとした。」
「私は、これ(=直前記の「 」内文章)を日本の国家構造の根本だと信じている。」
第三章(神聖を求める心)より
「自らがいいと信ずる政策の勝利をもとめ、自らの適切と認める政権担当者を選ぶためには、大いに自由であったがいい。だが当然、そこには対決闘争と謀略が生ずる。しかしそれはしかたがない。けれども、それを仕方がないからと言って、ただそれだけに放任しておけば、国民の精神は、ただ分裂して統合するところを知らず、謀略闘争にのみ終始して、罪けがれの泥沼におちて、人間の神聖感を失ってしまふであらう。」
第五章(祭りと祭り主)より
「私は、端的にいって霊感を信ずるものです。〈中略〉神道人の立場から考へれば、通常的な人間知性とか感情といっても、もともと神々から生みつけられ授かったものです。ただ霊感者だけが神意に通ずる能力があるのではない。霊感を無視する近世近代の知性人は、とかく神意から遠ざかる傾向に流れやすい。私は、近世近代の知性人が、霊感を無視しがちなのには不満です。」
*********
ついでに、2014年に読んでみた、同じく葦津氏の著作である『新版 国家神道とは何だったのか』(神社新報創刊60周年記念出版 神社新報社 平成18年)からの抜粋も記してみた。
十七 国家神道に対する評論、より
「「国家神道」とは、明治いらいの国家と神社との間に存した法制度であって(その法の思想を含むとして)もいいが、それは「非宗教」の一般国民精神とも称すべきものであった。」