自己紹介

自分の写真
1946年9月、焦土と化した東京都内にて、食糧難と住宅難と就職難の中、運良く生き抜いた両親の新しき時代の一発目として生を受けるも、一年未満で感染症にて死にかける。生き延びたのは、ご近所に住む朝鮮人女性のもらい乳と父親がやっと手にした本の印税全部を叩いて進駐軍から手に入れたペニシリンのおかげであったらしい。ここまでは当然記憶にない。記憶になくても疑えないことである。 物心がついた頃には理系少年になっていた。それが何故なのか定かではないが、誤魔化しうるコトバより、誤魔化しえない数や図形に安堵を覚えたのかもしれない。言葉というものが、単なる記号ではなく、実は世界を分節し、意味と価値の認識それ自体をも可能にするものであることに気付きはじめたのは50歳を過ぎてからであった。 30年間程の企業勤めの後、現在は知の世界に遊ぶ自称哲学徒、通称孫が気になる普通の爺~じ。ブログには庭で育てている薔薇の写真も載せました。

2022年5月19日木曜日

5月18日(水) 『教養としての地政学』出口治明著 日経BP

フレンチレース
 本書は、著者の博学と経済人としてのリアルな経験をベースにした、とても面白い語り下ろしの本です。世界史上に出現してきた多くの国々の興亡、またその理由がとても簡潔に解説されているので、楽しく読むことができます。もっとも時代が下って現代になってくると、楽しいだけでなく、生き延びる知恵を持たねば、と緊張感が漂ってきますが、過去の地政学的知見がどのくらい有効なのかは、変化が早くて複雑かつ危うい現代に対しては、よく吟味することが必要でしょう。

「はじめに」で著者は地政学について次のように語っています。「地政学とは、本来、天下国家を論じる学問ではなく、人間の生きる知恵と関係するような学問だと僕は考えてます。そのあたりのことを中心に話したいと思います。」それには理由がありそうです。つまり、かっての地政学がドイツや日本で悪い意味で流行っていたことがあり、世界情勢が不安定になってきている現代において地政学の再流行の兆しが見えるからでしょう。

地政学の古典には、マハンの『海上権力史論』(海の地政学)とマッキンダーの『デモクラシーの理想と現実』(陸の地政学)があるので、この二つ著作の概要も語られています。著者は地政学のことを次のように説明しています。「ある国や国民は、地理的なことや隣国関係をも含めて、どのような環境に住んでいるのか。その場所で平和に生きるために、なすべきことは何か。どんな知恵が必要か。そのようなことを考えること学問です。」また、地政学が存在する前提を「国は引っ越しできない」、という短い言葉で説明しています。

世界の国の興亡史各論における、その国々が置かれている自然環境上(地理上)の規定に加えて、「生き延びる知恵、あるいは知恵のなさ」の歴史的事実や因果関係について簡潔な説明がなされていいます。世界史や人文地理の分野における説明には、地名、地理上の位置、事実の時間関係、人名、血統図、などが沢山出てくるので理解しにくいのですが、それをあまり感じさせない程巧みな説明です(⇒説明の妥当性は別の興味の問題としてあります)。

それらの個別の事実や事象から一般性を抽出してみると、いくつかの基本的な事柄が浮かび上がってきました。その国が現実のおかれている地理上の特徴以外に、資源や気候などの自然条件の他、血縁、マンパワー、合理的思考、宗教、文化、偶然、などです。これらの項目は独立でもなく、それらの組み合わせから生じる諸事態、例えば経済力、軍事力などを挙げれば沢山あるでしょう。

著者の挙げているキーワードの一つに、「サンドイッチの具」というのがあります。これは、敵対する国によって地理的に挟まれた状態になると戦いで負けてしまうという意味で、陸の地政学に特に当てはまるとのことです。つまり、サンドイッチの具にならないように、敵味方を選定して謀略を企てたり戦争をしかけたり、あるいは婚姻関係を結んだりする知恵を絞るのが地政学だと。海の地政学では、やはり交易です。ローマの賢人キケロは「戦争は要するにお金」だと言ったとか。大航海時代以降は新しい市場が開拓されて、いわゆる地球規模でのシーレーンが重要となり、その確保戦争に勝利したスペインは大国になりましたが、暗愚な君主が続いて衰退したそうです。

いろいろな面白いエピソードが語られています。例えば、大した戦争もせず、謀略も巡らさず、ただ結婚した相手が死んだり病気になったりしたことで、わずか三代でオーストリアやスペイン及び南アメリカやメキシコまでを支配するに至ったハプスブルグ家には「ハプスブルグよ、汝は結婚せよ」という言葉が残されているそうです。ハプスブルグ家の暗愚な君主達は結局スペインを衰退させますが、血縁・血統・出自が地政学上のキーワードの一つになっていた証拠でもあるのでしょう。つまり、人々が納得する統治原理だったからでしょう。専制国家の時代には国家の統治に関与する人々がきわめて少数なために、特に大きな要素だったのでしょう。

合理的思考が地政学としても大切な要素であるのは、思い込みではなくて現実の事実や事象を基にして考えるからなのでしょう。要するに世界は妄想でも来世でもなく現実なのですから(⇒国家は幻想である、と言った人もいますが)。宗教やイデオロギーに囚われずに交易による利益で覇権を獲得した諸都市国家から現代の国民国家にいたるまで、これは通用しそうです。

国家政略についてのエピソードも面白いです。プロイセンの宰相ビスマルクなどの優れた知略ものエピソードも面白いのですが、専制君主の信じられないほどの暗愚な行為についてのエピソードはそれにまして面白そうですね。暗愚な人が国家の指導者ではなくて普通人であるという事態は一般的なのですから、彼等が指導者になってしまうことが地政学的には大問題なのだろうと思いました。


2022年5月13日金曜日

5月12日(木) ロシア・ソヴィエト哲学史(ルネ・ザパタ著、原田佳彦訳)

夢香
 動機は、ロシアのウクライナ侵攻。ヨーロッパと陸続きというより、ヨーロッパの中では後進地域であるとはいえヨーロッパの一部であるロシアには、西欧近代の思想や制度の原理を生み出した西欧哲学思想が全く根付いていないのかもしれない、とフト思った。もちろん、ロシアについての理解が不足しているからなのだが、この無知を埋めるための基本的分野がここかもしれないと。

ということで、ネットで検索して選んでみたのが本書なのだが、面白いことに、本書の著者がどのような人なのかは、訳者も分からないと書いてある。それでも、白水社文庫クセジュに収録され、JapanKnowledgeには「文庫クセジュベストセレクション」に選定されて閲覧対象となっている。20世紀初頭のロシア革命によって誕生したソヴィエト連邦が約70年後に崩壊するまでの哲学史の部分は、今はあまり興味がないから読んでいない。

まず、本書の「はじめに」を読んでみると、あらかたの状況が見えてくる。その冒頭に「ルネッサンス期のヨーロッパに存在していたような哲学は、ロシアではずっと遅れ、18世紀になって、エカテリーナ二世治下、ロシア文化の西欧化という歴史的文脈のなかに、その姿を現すのである。」と書かれ、最後の方には「ロシアの思想家たちが文学と文芸批判とに付与した第一級の重要性を強調しておこう。それは、文学言語の形成と文学の隆盛と哲学の誕生が、ロシア民族意識の出現という、一層広範な歴史的文脈の中で同時的に起こった過程だという事実に起因する。」と書かれている。

読書日誌なので、内容の紹介は印象に残った箇所の一部分だけの抜粋だけで勘弁してもらうことにしよう(ついでに、これからも)。と言うことで以下。
・11世紀から1459年(ロシア正教会が東方正教会のなかで独立を宣言し、モスクワ大公の支配下となった)にかけて、ロシア的霊性はその特徴的性格を持つようになった。
・こうして(⇒東ローマ帝国の滅亡とキリスト教正教帝国というローマ帝国の滅亡)、モスクワ公国を中核とするロシアは(⇒第三のローマとして)、15世紀からすでにこの二重の使命を与えられることになる。
・1654年、ウクライナがロシア帝国に併合された後、キエフはロシアにおける西欧哲学思想普及の中心地になっていく。
・ピョートル大帝(在位1689-1725)は近代国家の基礎を築き、ロシア文化を極端なまでの西欧化に曝した。
・ロシア哲学の開花=成熟に果たしたエカテリーナ二世(在位1761-96)の役割は、きわめて重要なものである。彼女はヨーロッパ---とりわけフランス---の哲学者たちの著作と思想の普及を奨励し[・・・]。これ(⇒ブガチョフの反乱1772-75)以降、カテリーナは貴族階級の権利を強化することに没頭する。女帝は熱狂的なヴォルテール主義を棄て、世界主義と西欧の腐敗堕落に対して、ロシアの過去の光栄をたたえる偏狭な民族主義に結びつく。
・19世紀はナポレオン戦争の終結とともに始まる。ドイツ戦役とフランス戦役が、若き貴族たちにとって真の研修旅行になったのである。遅れたロシアが、孤立し、いまなお農奴制の軛の下にあるロシアに対して、輝きに満ちた文明の明示のように見えるヨーロッパが、ロシアの若き貴族達の前にそびえ立っている。
・「我がロシアの現状を見るに、われわれに対しては、人類の普遍的法則が無効とされているかのようである。世界に孤立したわれわれは、世界に何も与えず、世界から何も得てこなかった。」「存在するのはただ、実際に思索と霊魂への関心によって導かれるようなキリスト教社会(⇒ロシア正教)だけである」(⇒どちらも、ピョートル・チャダーエフ著『哲学書簡』1829年)。
・(⇒その後、哲学・思想界は大きくはスラブ派と西欧派などに分かれて進展するも、ニコライ一世治世末期に弾圧され、死刑、シベリア流刑、または沈黙、の暗黒の7年(1848-55)を迎える。ドストエフスキーは死刑宣告をされるが減免されシベリア流刑となる)
・長かったクリミア戦争(1853-56)でロシア軍が敗北した結果、専制体制は窮地を脱するため譲歩し、農奴制を廃止する(1861年2月19日の農奴解放令)が、しかし、諸改革の策定とその実施に際して、この国のエリート達が実際にそこに参画することを保障するいかなる機構も設置されなかった。
・(⇒その後、思想界は自由主義、進歩主義、虚無主義等も加わっての分裂状態に陥る。同時期、ドストエフスキー、ツルゲーネフ、トルストイ、等の文豪は多大な影響を及ぼす。1870-80年代になって人民主義が出てきて、マルクス、エンゲルスと繋がるが、ロシアにおけるマルクス主義は一層教条的で普及の歴史は長く複雑であった)

ロマノフ王朝という専制国家の必要性においての西欧化であるならば、弊害が生じれば暴力によって禁止されることは、もちろん哲学も例外ではない。ロシアという地域は、ヨーロッパの一部として200年以上も西欧化の努力を継続した。しかし、結局はヨーロッパ文明の礎であるルネッサンスを経験しないままに、20世紀に入るやいなや社会主義国家ソヴィエト連邦になって、さらに80年近く近代文明・文化から取り残されたのではないだろうか。そして、ソ連崩壊後の今日、「ロシア的霊性」の顕在化は何をもたらすのだろうか。