自己紹介

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1946年9月、焦土と化した東京都内にて、食糧難と住宅難と就職難の中、運良く生き抜いた両親の新しき時代の一発目として生を受けるも、一年未満で感染症にて死にかける。生き延びたのは、ご近所に住む朝鮮人女性のもらい乳と父親がやっと手にした本の印税全部を叩いて進駐軍から手に入れたペニシリンのおかげであったらしい。ここまでは当然記憶にない。記憶になくても疑えないことである。 物心がついた頃には理系少年になっていた。それが何故なのか定かではないが、誤魔化しうるコトバより、誤魔化しえない数や図形に安堵を覚えたのかもしれない。言葉というものが、単なる記号ではなく、実は世界を分節し、意味と価値の認識それ自体をも可能にするものであることに気付きはじめたのは50歳を過ぎてからであった。 30年間程の企業勤めの後、現在は知の世界に遊ぶ自称哲学徒、通称孫が気になる普通の爺~じ。ブログには庭で育てている薔薇の写真も載せました。

2022年5月13日金曜日

5月12日(木) ロシア・ソヴィエト哲学史(ルネ・ザパタ著、原田佳彦訳)

夢香
 動機は、ロシアのウクライナ侵攻。ヨーロッパと陸続きというより、ヨーロッパの中では後進地域であるとはいえヨーロッパの一部であるロシアには、西欧近代の思想や制度の原理を生み出した西欧哲学思想が全く根付いていないのかもしれない、とフト思った。もちろん、ロシアについての理解が不足しているからなのだが、この無知を埋めるための基本的分野がここかもしれないと。

ということで、ネットで検索して選んでみたのが本書なのだが、面白いことに、本書の著者がどのような人なのかは、訳者も分からないと書いてある。それでも、白水社文庫クセジュに収録され、JapanKnowledgeには「文庫クセジュベストセレクション」に選定されて閲覧対象となっている。20世紀初頭のロシア革命によって誕生したソヴィエト連邦が約70年後に崩壊するまでの哲学史の部分は、今はあまり興味がないから読んでいない。

まず、本書の「はじめに」を読んでみると、あらかたの状況が見えてくる。その冒頭に「ルネッサンス期のヨーロッパに存在していたような哲学は、ロシアではずっと遅れ、18世紀になって、エカテリーナ二世治下、ロシア文化の西欧化という歴史的文脈のなかに、その姿を現すのである。」と書かれ、最後の方には「ロシアの思想家たちが文学と文芸批判とに付与した第一級の重要性を強調しておこう。それは、文学言語の形成と文学の隆盛と哲学の誕生が、ロシア民族意識の出現という、一層広範な歴史的文脈の中で同時的に起こった過程だという事実に起因する。」と書かれている。

読書日誌なので、内容の紹介は印象に残った箇所の一部分だけの抜粋だけで勘弁してもらうことにしよう(ついでに、これからも)。と言うことで以下。
・11世紀から1459年(ロシア正教会が東方正教会のなかで独立を宣言し、モスクワ大公の支配下となった)にかけて、ロシア的霊性はその特徴的性格を持つようになった。
・こうして(⇒東ローマ帝国の滅亡とキリスト教正教帝国というローマ帝国の滅亡)、モスクワ公国を中核とするロシアは(⇒第三のローマとして)、15世紀からすでにこの二重の使命を与えられることになる。
・1654年、ウクライナがロシア帝国に併合された後、キエフはロシアにおける西欧哲学思想普及の中心地になっていく。
・ピョートル大帝(在位1689-1725)は近代国家の基礎を築き、ロシア文化を極端なまでの西欧化に曝した。
・ロシア哲学の開花=成熟に果たしたエカテリーナ二世(在位1761-96)の役割は、きわめて重要なものである。彼女はヨーロッパ---とりわけフランス---の哲学者たちの著作と思想の普及を奨励し[・・・]。これ(⇒ブガチョフの反乱1772-75)以降、カテリーナは貴族階級の権利を強化することに没頭する。女帝は熱狂的なヴォルテール主義を棄て、世界主義と西欧の腐敗堕落に対して、ロシアの過去の光栄をたたえる偏狭な民族主義に結びつく。
・19世紀はナポレオン戦争の終結とともに始まる。ドイツ戦役とフランス戦役が、若き貴族たちにとって真の研修旅行になったのである。遅れたロシアが、孤立し、いまなお農奴制の軛の下にあるロシアに対して、輝きに満ちた文明の明示のように見えるヨーロッパが、ロシアの若き貴族達の前にそびえ立っている。
・「我がロシアの現状を見るに、われわれに対しては、人類の普遍的法則が無効とされているかのようである。世界に孤立したわれわれは、世界に何も与えず、世界から何も得てこなかった。」「存在するのはただ、実際に思索と霊魂への関心によって導かれるようなキリスト教社会(⇒ロシア正教)だけである」(⇒どちらも、ピョートル・チャダーエフ著『哲学書簡』1829年)。
・(⇒その後、哲学・思想界は大きくはスラブ派と西欧派などに分かれて進展するも、ニコライ一世治世末期に弾圧され、死刑、シベリア流刑、または沈黙、の暗黒の7年(1848-55)を迎える。ドストエフスキーは死刑宣告をされるが減免されシベリア流刑となる)
・長かったクリミア戦争(1853-56)でロシア軍が敗北した結果、専制体制は窮地を脱するため譲歩し、農奴制を廃止する(1861年2月19日の農奴解放令)が、しかし、諸改革の策定とその実施に際して、この国のエリート達が実際にそこに参画することを保障するいかなる機構も設置されなかった。
・(⇒その後、思想界は自由主義、進歩主義、虚無主義等も加わっての分裂状態に陥る。同時期、ドストエフスキー、ツルゲーネフ、トルストイ、等の文豪は多大な影響を及ぼす。1870-80年代になって人民主義が出てきて、マルクス、エンゲルスと繋がるが、ロシアにおけるマルクス主義は一層教条的で普及の歴史は長く複雑であった)

ロマノフ王朝という専制国家の必要性においての西欧化であるならば、弊害が生じれば暴力によって禁止されることは、もちろん哲学も例外ではない。ロシアという地域は、ヨーロッパの一部として200年以上も西欧化の努力を継続した。しかし、結局はヨーロッパ文明の礎であるルネッサンスを経験しないままに、20世紀に入るやいなや社会主義国家ソヴィエト連邦になって、さらに80年近く近代文明・文化から取り残されたのではないだろうか。そして、ソ連崩壊後の今日、「ロシア的霊性」の顕在化は何をもたらすのだろうか。





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