自己紹介

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1946年9月、焦土と化した東京都内にて、食糧難と住宅難と就職難の中、運良く生き抜いた両親の新しき時代の一発目として生を受けるも、一年未満で感染症にて死にかける。生き延びたのは、ご近所に住む朝鮮人女性のもらい乳と父親がやっと手にした本の印税全部を叩いて進駐軍から手に入れたペニシリンのおかげであったらしい。ここまでは当然記憶にない。記憶になくても疑えないことである。 物心がついた頃には理系少年になっていた。それが何故なのか定かではないが、誤魔化しうるコトバより、誤魔化しえない数や図形に安堵を覚えたのかもしれない。言葉というものが、単なる記号ではなく、実は世界を分節し、意味と価値の認識それ自体をも可能にするものであることに気付きはじめたのは50歳を過ぎてからであった。 30年間程の企業勤めの後、現在は知の世界に遊ぶ自称哲学徒、通称孫が気になる普通の爺~じ。ブログには庭で育てている薔薇の写真も載せました。

2019年2月9日土曜日

2月7日(木) 酒井直樹 なんで今まで読まなかったの?

南紀白浜の夕日
昨日までの旅先での空き時間に読んだのが、『歴史と方法4』(青木書店、2000年)に掲載されていた「戦後歴史学を総括するために 日本史と国民的責任」と題した20頁ほどの文章だった。こんな素敵な人の本をどうして今まで読まなかったのだろう(一応積ん読はあったが)、それは私がアホだからだが、何故旅先に持っていったのかというと偶然だからだ。偶然と言っても、読む理由が二個も重なったからである。一つは、読み始めた岩波講座『日本歴史』(近現代Ⅰ)で吉田裕さんが肯定的に取りあげていたからで、もう一つは先日ヘーゲル哲学者の野尻英一さんから、酒井さんをお招きしたシンポを開催すると教えてもらったからである。関係ないが酒井さんは私と同い年、何という違い!。

この本からのほんの一部の抜粋だけを以下に掲載しておく。

「日本史研究会のご招待を頂き、とても感謝を感じています。私は奇妙なことに、日本史という分野でも仕事をしてきましたが、日本史における私の仕事は「日本史」という学問分野の成立そのものを問うこと、「日本史」という学問がなくても私たちは歴史家として、研究者としてやっていけるのではないか、という可能性を提出することにかかわってきたからです。」

「戦争が終わった後に生まれた日本人であったとしても、私は日本人としての戦争責任から逃れられません。自分が責任を問われてもおかしくない立場にあることは、恥の感情として私を襲うでしょう。恥は私が恣意的に左右できるような感情ではありません。それは、社会的客観性を告げ知らせる感情なのです。」

「戦争犯罪者を日本国民の中から、はっきりと、突き出すことです。日本人の内実を大きく変えていくためには、日本人を統合するするどころか、日本人の即自的な共同性に分裂を持ち込むことが必要なはずです。」

「十八世紀の啓蒙以来、歴史学と批判意識は密接な共存関係を持ってきました。われわれの知識や判断力に内在する限界を見きわめ、人間理性の為しうることと為しえないことをはっきり見きわめ、理性の越権を抑制することから批判意識は出発しました。啓蒙は、そのような批判意識を歴史学の中にも持ち込んだと思います。しかし、今日、批判意識はもはや、人間理性の限界を問うよりも、歴史実践的な批判に向かい、いかにして、われわれがわれわれ自身から逸脱し他者と横断的な関係を創り出すことが出来るか、という問題を巡って展開しているように思えるのです。」

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