自己紹介

自分の写真
1946年9月、焦土と化した東京都内にて、食糧難と住宅難と就職難の中、運良く生き抜いた両親の新しき時代の一発目として生を受けるも、一年未満で感染症にて死にかける。生き延びたのは、ご近所に住む朝鮮人女性のもらい乳と父親がやっと手にした本の印税全部を叩いて進駐軍から手に入れたペニシリンのおかげであったらしい。ここまでは当然記憶にない。記憶になくても疑えないことである。 物心がついた頃には理系少年になっていた。それが何故なのか定かではないが、誤魔化しうるコトバより、誤魔化しえない数や図形に安堵を覚えたのかもしれない。言葉というものが、単なる記号ではなく、実は世界を分節し、意味と価値の認識それ自体をも可能にするものであることに気付きはじめたのは50歳を過ぎてからであった。 30年間程の企業勤めの後、現在は知の世界に遊ぶ自称哲学徒、通称孫が気になる普通の爺~じ。ブログには庭で育てている薔薇の写真も載せました。

2024年8月29日木曜日

はじめて、佐々木隆治さんの本を読んでみた。『私たちはなぜ働くのか』(旬報社)

ヨハネパウロ2世
著者は1974年生まれのマルクス研究者のようで、斉藤幸平さんの著書で、確かマルクスの物質代謝論に関する記述で紹介されていたので興味を持ち、手に取ってみた。その興味とは、私よりも30歳ほども若い人たちが新しい観点からマルクスの研究をし始めていたようだという部分にある。以下は通読後の感想文。

マルクスの物質代謝論は、大雑把に言えば生物学の代謝という概念を経済に転用した論で、自然界の物質を労働によって取り込みながら生きている人間の営みのこと。マルクスの経済理論において、実は土台となる概念らしい。そして、これは本書のテーマと関連している、「私たちはなぜ働くのか」と。

「なぜ働くのか」と問われれば、先ずは「生きるため」だろうが、問題は、働くことが強制されている、もうすこし言えば、気付かないうちに私たちは自由を奪われて働くことを強制されている一方、周りを見ればなぜか富裕な人たちもいる、というようなことなのだろう。このような現実がもたらされている原因は、マルクスが指摘したように、資本主義経済に基づいた社会の仕組みにあり、しかもそのような仕組みは私たちの意思とは関わりなく肥大化し続けている。ではどうするのか。問題に気付き、原因を正す方向に行動する他はないが、マルクスは以下のようなアイデアを提示しているのだという。

私たちが働くということを、資本主義経済の中での賃貸労働から、アソシエート(自由な意思により,自発的に,人格的な結合を形成すること)された労働へと変化させていくことがポイントだと。言い換えれば、私たち自身の生き方を変えていく、そしてそのことで、社会を支える仕組みを資本主義経済からまだ名付けられない経済へと変えていくことだと。

資本主義経済の社会で既に不可能になっている物質代謝は、アソシエートされた人々の集まって出来る経済社会においては可能性を見いだせそうだ。私たちがいつまでも「資本」に隷属して自由を奪われた強制労働によって資本の拡大再生産に手を貸し続けるかぎり、それは不可能だろう。ホッブズも人間社会の原理を、自然状態における「万人の万人に対する戦い」と表現したが、第一の原理は「平和の希求であり」それを可能にするものは人間理性だと言っていたな、そういえば。

著者は締めくくりとして、資本論第三部の一部を掲載している。「じっさい、自由の国は,必要と外的な合目的性によって規定される労働がなくなったところで、はじめて始まる。したがって、それは、当然に,本来の物質的生産の領域の彼岸にある。未開人が,自分の欲求を満たすために,自分の生活を維持し再生産するために,自然と格闘しなければならないように,文明人もそうしなければならず、しかも、すべての社会形態において、ありうべきすべての生産様式のもとで、そうしなければならない。かれの発達とともに、かれの諸欲求も増大するのだから、この自然必然性の国は増大する。しかし、同時に、この諸欲求を満たす生産諸力も増大する。この領域における自由は、ただ、社会化した人間、アソーシエイトした人間たちが、盲目的な力としての、自分たちと自然との物質代謝によってコントロールされることをやめて、この物質代謝を合理的に規制し、自分たちの共同的なコントロールのもとにおくということ、つまり、力の最小の消費によって、自分たちの人間性にもっともふさわしくもっとも適合した諸条件のもとでこの物質代謝をおこなうということである。しかし、これはやはりまだ必然性の領域である。この領域のかなたで、自己目的として認められる人間の力の発展が、真の自由の領域が始まるのであるが、しかし、それはただ、かの必然性の領域をその基礎としてのみ開花することが出来るのである。労働時の短縮が土台である。(資本論第三部14401441頁/⇒マルクス=エンゲルス全集版 第3巻 第7編 第48章 大月文庫第8冊目339頁)


『共産党宣言』(岩波文庫)大内兵衛、向坂逸郎訳

突然、何だ?今ごろ?。実は斉藤幸平さんの『マルクス解体』を先日読んだときに紹介されていた佐々木隆治さんの著書『私たちは何故働くのか』を通読していた際、パラパラと昔の読書メモをみていたら、2003年の読書メモに『共産党宣言』があったので、そのまま記載してみた、という次第。『資本論』を真面目に完読したのがこれから15年後だから、今読めば,このメモも変わるだろうけど。
百合

 読むのに時間がかかると思っていた本が不思議なことにスーと読めてしまった。使った時間は電車の往復に要した二時間ほど。だから読み落としも読み違いもたくさんあるだろうが、この本は大体次のようなことを言っている。「社会は様々なグループに分かれているが、本質的な区別として階級があり、この階級間では争いが起こるものである。また、社会は歴史的に段階を追って発展するもので、先進地域である欧州の近代ブルジョワ革命は内包する矛盾(資本による人間疎外など)があるから崩壊し、その後にやってくるのはプロレタリア階級独裁国家である。」。
 この本から見る限り、自由と民主主義は共産主義も目指すものだが、それを実施できるのはブルジョア階級が独裁するであろう資本主義ではなくプロレタリア階級が独裁する共産主義であると言っているようだ。当時の欧州に限らず現代においてさえこの本が指摘している矛盾は現実に満ち溢れ、矛盾から生じる危険はますます増大しているかに思える。しかし、大事なことは共産主義がその解決になるのかと言うことである。ソ連の崩壊は一つの結果を示して入るが、それが単純に資本主義の勝利であるから安心して思考を停止してもよいということには全くならない。逆に益々人間社会の本質を突き詰めて考えることが人間と言う「種」(少し表現が突飛だが)に求められていると感じた。
  この本が予測した内容はさておいて(大体予測は当たらない)、その考察自体には学ぶべきところがあることを忘れてはならない。

2024年8月16日金曜日

日本の憲法の英語版の日本語訳を読んでみたら、いろいろなことが見えてきた

 『対訳 英語版でよむ日本の憲法』(柴田元幸訳、木村草太監修、アルク出版2021年)

ビンゴ・メイディーランド
柴田元幸さんは法律には素人のアメリカ文学研究者でプロの翻訳家、日本国憲法英語版は、日本国憲法公布の日に「英文官報号外」に掲載された「The Constitution of Jaoan」。柴田さんと木村教授の対談なども載っています。

読んでみようと思った動機は、日本国憲法が外国ではどのように読まれるモンだろうか、と思ったからですが、柴田さんの翻訳で読んだ日本国憲法は元の正文日本国憲法よりも妙に分かりやすく、そこから逆に辿って使われている言葉の意味を改めて考えてみたくなります。

例えば、第1章 天皇 第1条から出てくる「国民」という言葉は、大部分「people」と訳されているようですが、柴田さんはそれを「国民」と訳している箇所は殆ど無く、「人々」とか「人」と訳している。木村教授は、「peopleをどう訳すかは難題です。「国民」と訳すのが普通かもしれませんが、「国民」とするとcitizenやnationalの意味を帯びる可能性があります」と、柴田さんとの対談で述べている。ここには、日本国憲法では、国の民、主権者である市民、人間一般(第14条、法の下での平等は国民ではなく人間自体対象の筈)の概念が混在しいることが見えてくる。柴田さんが「peopleという言い方にも、もともと「民」と似たニュアンスがあります。英語で"you people"と言うと、ものすごく人を見下したような言い方ですね。」と言っていたのが印象的です。

例えば、第5章 内閣 第65条 「行政権は内閣に属する」という文章は「Executive power shall be vested in the Cabinet」と訳されているが、木村教授と柴田さんはこれを「内閣には、法律に従い国政を執行する権利を与える」と訳した。executive power と訳されているが、三権分立の中で「行政権」のexecutiveが何を意味するか明確ではないが、さりとて「執行権」としたところで、何を執行するかは不明なので、憲法の文章としてはこんな所だろうと。

対談の中で、木村教授は「柴田先生が自然に読んで、われわれ法学者が理解している内容と違っていたりすると、そこには(日本国憲法を)普通に読むだけでは分からない前提があるんだということをあらためて分かりました。」と述べていたが、103条全部にわたって読んでみると確かにそう言えるだろう、憲法作成の背景や歴史を含めて。