ヨハネパウロ2世 |
マルクスの物質代謝論は、大雑把に言えば生物学の代謝という概念を経済に転用した論で、自然界の物質を労働によって取り込みながら生きている人間の営みのこと。マルクスの経済理論において、実は土台となる概念らしい。そして、これは本書のテーマと関連している、「私たちはなぜ働くのか」と。
「なぜ働くのか」と問われれば、先ずは「生きるため」だろうが、問題は、働くことが強制されている、もうすこし言えば、気付かないうちに私たちは自由を奪われて働くことを強制されている一方、周りを見ればなぜか富裕な人たちもいる、というようなことなのだろう。このような現実がもたらされている原因は、マルクスが指摘したように、資本主義経済に基づいた社会の仕組みにあり、しかもそのような仕組みは私たちの意思とは関わりなく肥大化し続けている。ではどうするのか。問題に気付き、原因を正す方向に行動する他はないが、マルクスは以下のようなアイデアを提示しているのだという。
私たちが働くということを、資本主義経済の中での賃貸労働から、アソシエート(自由な意思により,自発的に,人格的な結合を形成すること)された労働へと変化させていくことがポイントだと。言い換えれば、私たち自身の生き方を変えていく、そしてそのことで、社会を支える仕組みを資本主義経済からまだ名付けられない経済へと変えていくことだと。
資本主義経済の社会で既に不可能になっている物質代謝は、アソシエートされた人々の集まって出来る経済社会においては可能性を見いだせそうだ。私たちがいつまでも「資本」に隷属して自由を奪われた強制労働によって資本の拡大再生産に手を貸し続けるかぎり、それは不可能だろう。ホッブズも人間社会の原理を、自然状態における「万人の万人に対する戦い」と表現したが、第一の原理は「平和の希求であり」それを可能にするものは人間理性だと言っていたな、そういえば。
著者は締めくくりとして、資本論第三部の一部を掲載している。「じっさい、自由の国は,必要と外的な合目的性によって規定される労働がなくなったところで、はじめて始まる。したがって、それは、当然に,本来の物質的生産の領域の彼岸にある。未開人が,自分の欲求を満たすために,自分の生活を維持し再生産するために,自然と格闘しなければならないように,文明人もそうしなければならず、しかも、すべての社会形態において、ありうべきすべての生産様式のもとで、そうしなければならない。かれの発達とともに、かれの諸欲求も増大するのだから、この自然必然性の国は増大する。しかし、同時に、この諸欲求を満たす生産諸力も増大する。この領域における自由は、ただ、社会化した人間、アソーシエイトした人間たちが、盲目的な力としての、自分たちと自然との物質代謝によってコントロールされることをやめて、この物質代謝を合理的に規制し、自分たちの共同的なコントロールのもとにおくということ、つまり、力の最小の消費によって、自分たちの人間性にもっともふさわしくもっとも適合した諸条件のもとでこの物質代謝をおこなうということである。しかし、これはやはりまだ必然性の領域である。この領域のかなたで、自己目的として認められる人間の力の発展が、真の自由の領域が始まるのであるが、しかし、それはただ、かの必然性の領域をその基礎としてのみ開花することが出来るのである。労働時の短縮が土台である。(資本論第三部1440~1441頁/⇒マルクス=エンゲルス全集版
第3巻 第7編 第48章
大月文庫第8冊目339頁)