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1946年9月、焦土と化した東京都内にて、食糧難と住宅難と就職難の中、運良く生き抜いた両親の新しき時代の一発目として生を受けるも、一年未満で感染症にて死にかける。生き延びたのは、ご近所に住む朝鮮人女性のもらい乳と父親がやっと手にした本の印税全部を叩いて進駐軍から手に入れたペニシリンのおかげであったらしい。ここまでは当然記憶にない。記憶になくても疑えないことである。 物心がついた頃には理系少年になっていた。それが何故なのか定かではないが、誤魔化しうるコトバより、誤魔化しえない数や図形に安堵を覚えたのかもしれない。言葉というものが、単なる記号ではなく、実は世界を分節し、意味と価値の認識それ自体をも可能にするものであることに気付きはじめたのは50歳を過ぎてからであった。 30年間程の企業勤めの後、現在は知の世界に遊ぶ自称哲学徒、通称孫が気になる普通の爺~じ。ブログには庭で育てている薔薇の写真も載せました。

2024年8月16日金曜日

日本の憲法の英語版の日本語訳を読んでみたら、いろいろなことが見えてきた

 『対訳 英語版でよむ日本の憲法』(柴田元幸訳、木村草太監修、アルク出版2021年)

ビンゴ・メイディーランド
柴田元幸さんは法律には素人のアメリカ文学研究者でプロの翻訳家、日本国憲法英語版は、日本国憲法公布の日に「英文官報号外」に掲載された「The Constitution of Jaoan」。柴田さんと木村教授の対談なども載っています。

読んでみようと思った動機は、日本国憲法が外国ではどのように読まれるモンだろうか、と思ったからですが、柴田さんの翻訳で読んだ日本国憲法は元の正文日本国憲法よりも妙に分かりやすく、そこから逆に辿って使われている言葉の意味を改めて考えてみたくなります。

例えば、第1章 天皇 第1条から出てくる「国民」という言葉は、大部分「people」と訳されているようですが、柴田さんはそれを「国民」と訳している箇所は殆ど無く、「人々」とか「人」と訳している。木村教授は、「peopleをどう訳すかは難題です。「国民」と訳すのが普通かもしれませんが、「国民」とするとcitizenやnationalの意味を帯びる可能性があります」と、柴田さんとの対談で述べている。ここには、日本国憲法では、国の民、主権者である市民、人間一般(第14条、法の下での平等は国民ではなく人間自体対象の筈)の概念が混在しいることが見えてくる。柴田さんが「peopleという言い方にも、もともと「民」と似たニュアンスがあります。英語で"you people"と言うと、ものすごく人を見下したような言い方ですね。」と言っていたのが印象的です。

例えば、第5章 内閣 第65条 「行政権は内閣に属する」という文章は「Executive power shall be vested in the Cabinet」と訳されているが、木村教授と柴田さんはこれを「内閣には、法律に従い国政を執行する権利を与える」と訳した。executive power と訳されているが、三権分立の中で「行政権」のexecutiveが何を意味するか明確ではないが、さりとて「執行権」としたところで、何を執行するかは不明なので、憲法の文章としてはこんな所だろうと。

対談の中で、木村教授は「柴田先生が自然に読んで、われわれ法学者が理解している内容と違っていたりすると、そこには(日本国憲法を)普通に読むだけでは分からない前提があるんだということをあらためて分かりました。」と述べていたが、103条全部にわたって読んでみると確かにそう言えるだろう、憲法作成の背景や歴史を含めて。


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