自己紹介

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1946年9月、焦土と化した東京都内にて、食糧難と住宅難と就職難の中、運良く生き抜いた両親の新しき時代の一発目として生を受けるも、一年未満で感染症にて死にかける。生き延びたのは、ご近所に住む朝鮮人女性のもらい乳と父親がやっと手にした本の印税全部を叩いて進駐軍から手に入れたペニシリンのおかげであったらしい。ここまでは当然記憶にない。記憶になくても疑えないことである。 物心がついた頃には理系少年になっていた。それが何故なのか定かではないが、誤魔化しうるコトバより、誤魔化しえない数や図形に安堵を覚えたのかもしれない。言葉というものが、単なる記号ではなく、実は世界を分節し、意味と価値の認識それ自体をも可能にするものであることに気付きはじめたのは50歳を過ぎてからであった。 30年間程の企業勤めの後、現在は知の世界に遊ぶ自称哲学徒、通称孫が気になる普通の爺~じ。ブログには庭で育てている薔薇の写真も載せました。

2024年9月8日日曜日

イマニエル・トッドが主張している家族とは何だろうね?

モッコウバラ
 イマニエル・トッドが主張している家族論についての分厚い本が比較的最近翻訳出版され、仲間の読書会でこを読むことになった(『我々はどこから来て、今どこにいるのか? 民主主義の野蛮な起源』)。上巻を読み終わり下巻に入ったところで、昔読んだレヴィ・ストロース『親族の基本構造』を思い出して、その時作成した文をもとに今回関係する部分についての感想を書いてみた。

親族とはなにかという基本的で単純な問いは(先ずは家族が基本になるからトッドの著作とも共通する部分があるだろう)、動物とは区別される人間社会の成立原理、へと行き着く。本書は、主として未開社会の観察と観察結果に対する著者独自の解釈法に基づいて、人間の社会の原理を解明しようとしている。この際の観察は、著者自身の体験もあるが大部分は他者の厖大な研究論文等の文章であり、独自の解釈法とは構造主義に基づいたものであろう。人類学についての構造主義の適用は(トッドは否定的なようだが)、多分、多様な未開社会における現象や時には旧約聖書や神話の記述において、分析された要素間の因果関係や継時的進化論などでは捉え損なうような、共通する普遍的なもの、構造がある、というようなものであろう。
この構造を直観する部分が著者の天才的なところだろう。例えば、数多ある社会現象の中からインセスト禁忌が重要な社会規範としてとりあげられており、それは社会的構造原理に由来する禁忌であるはずだという(自然の生理が由来なら禁忌は必要ないから)。もう少し深読みすると、著者は、社会は開かれているという本質を持ち、閉鎖された社会は存在できない、と洞察したのかもしれない。
更に、人間社会を作り上げている原理は「女性の交換」にある、と言う。もう少し説明してみると、婚姻の本質は交換にあり、婚姻の形式の基本は交叉イトコ婚(性の異なる兄弟姉妹の子供達同士の結婚)で、交換自体は互酬構造に基づいており、交換対象である女性は財で代替できない本質的価値を持ち、完全に記号と化してしまう語とは逆に、記号でありつつ同時に価値でもあり続けるものである、となる。こう言われても、普通はピンと来ないが、数多の未開社会における、我々からすれば奇異とも思える実例(ポトラッチとか)を紹介され、その構造が現代にも存在すると言われれば、次第にそうかもしれないな、とも思えてきて、そのこと自体も面白いと思う。

もう少し詳しいことは、別ブログ「爺~じの哲学系名著読解」に掲載しました。


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