自己紹介

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1946年9月、焦土と化した東京都内にて、食糧難と住宅難と就職難の中、運良く生き抜いた両親の新しき時代の一発目として生を受けるも、一年未満で感染症にて死にかける。生き延びたのは、ご近所に住む朝鮮人女性のもらい乳と父親がやっと手にした本の印税全部を叩いて進駐軍から手に入れたペニシリンのおかげであったらしい。ここまでは当然記憶にない。記憶になくても疑えないことである。 物心がついた頃には理系少年になっていた。それが何故なのか定かではないが、誤魔化しうるコトバより、誤魔化しえない数や図形に安堵を覚えたのかもしれない。言葉というものが、単なる記号ではなく、実は世界を分節し、意味と価値の認識それ自体をも可能にするものであることに気付きはじめたのは50歳を過ぎてからであった。 30年間程の企業勤めの後、現在は知の世界に遊ぶ自称哲学徒、通称孫が気になる普通の爺~じ。ブログには庭で育てている薔薇の写真も載せました。

2024年10月16日水曜日

エマニュエル・トッドの『我々はどこから来て、今どこにいるのか?アングロサクソンがなぜ覇権を握ったか 民主主義の野蛮な起源』

ハーブ ボリジ
 本書を読んでみることになったのは、仲間の読書会のテキストだったから。でも、『シャルリとは誰か?』『もう第三次世界大戦は始まってる』などで展開されてきた、現代社会や政治の事象に対する著者のユニークな解釈や、佐藤優などが時々引用していることもあって、もう少し著者の考え方を知りたいとも思っていた。本書の冒頭で、「この本は40年に亘る自分の研究の集大成だ」とも書いてあったので、上下二冊の大部だったが、一通り読んでみた。以下はその感想文。
 人類の社会や歴史の理解には、意識が捉える事象だけでは不充分で、意識の下にある「下意識」、更にはより深くにある「無意識」と呼べるような社会意識のレベルに立つ必要がある、と著者はいう。具体的には、社会の意識のレベルとは経済、社会の下意識のレベルとは教育、社会の無意識のレベルとは家族及び宗教、となる。この考えに基づいて、現在の社会の諸事象、国家のありよう、戦争や紛争などの諸問題に対して、どうしてそうなるのかが理解できないことが理解可能となってきて、更には将来予測の精度も向上する、と。フロイトの精神分析モドギ(著者もそう言っているが)の手法で説明されれば、ひょっとしてそうかもしれないと思いたくなるかもしれないが、ホントかどうかは別問題となろう。
 もちろん著者は検証不能な理論と根拠に基づいた学説を開陳しているつもりはないだろう。社会の意識レベルにすぎない経済学で政治・経済の諸現象を理解することが不十分であることを先ず明確にした上で、著者の考えを適用すれば説明できなかった諸現象をこの通り明確に説明できたと、事例を挙げて縷々説明をする。例えば、共産主義諸国の地理的分布図と家族構造(核家族、共同家族、相続形態、兄弟間や男女の平等性、などの組み合わせ)によって区分された地域の地理的分布図が見事に一致した、等々。一致しないときには、例えば民主主義の体裁をとっているネイションでも、実はそうでもない現象については、歴史を振り返って、連綿と続く家族や宗教の基本構造やその変移分析行い、例えば「ゾンビカトリシズム」などの概念を導入して、普遍性と変移性の組み合わせて探っていった整合的法則を見出して、それを根拠にして説明していく。そのさいの客観的データは、例えば、死亡率、出生率、識字率、学歴、等々のできるだけハッキリした数値を用いるようにしている。
 しかし、まだなかなか納得しにくい。納得できないのはこちらの知識が不足しているのかもしれないが、一見科学的手法のように見えても、自然科学に比較して圧倒的に少ない明確で有効な事例しか得られないはずの社会現象に対しては、なかなか納得するわけにはいかない。社会科学とは元々そういうものだろう。特に、歴史上の出来事に対する理解が少し深まったとしても、この手法が未来の予測には余り使えそうにないどころか、使いようによっては危険でもあろう。その感触は、別の著作で、日本国は自国と世界のために核武装するべきだと提言している著者の言い方は、前後の文脈からいくら肯定的に理解しようとしても、違和感を覚えることと同根に思える。
 

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