自己紹介

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1946年9月、焦土と化した東京都内にて、食糧難と住宅難と就職難の中、運良く生き抜いた両親の新しき時代の一発目として生を受けるも、一年未満で感染症にて死にかける。生き延びたのは、ご近所に住む朝鮮人女性のもらい乳と父親がやっと手にした本の印税全部を叩いて進駐軍から手に入れたペニシリンのおかげであったらしい。ここまでは当然記憶にない。記憶になくても疑えないことである。 物心がついた頃には理系少年になっていた。それが何故なのか定かではないが、誤魔化しうるコトバより、誤魔化しえない数や図形に安堵を覚えたのかもしれない。言葉というものが、単なる記号ではなく、実は世界を分節し、意味と価値の認識それ自体をも可能にするものであることに気付きはじめたのは50歳を過ぎてからであった。 30年間程の企業勤めの後、現在は知の世界に遊ぶ自称哲学徒、通称孫が気になる普通の爺~じ。ブログには庭で育てている薔薇の写真も載せました。

2017年9月26日火曜日

9月26日(火) カントの政治理論って、何だろ?『カント政治哲学講義』(ハンナ・アーレント)

 今日取り上げる本は、あの偉大な哲学者カントが考えた政治哲学についての、ハンナ・アーレントという女性哲学者(1906年~1975年)の講義録。

 ハンナ・アーレントはナチスによるドイツの全体主義がもたらした悲劇の理由を哲学的に探究しながら、志半ばで死去したユダヤ系ドイツ哲学者。イマニエル・カント(1724年~1804年)は超有名なドイツの哲学者で、日本の旧制高等学校で歌われたそうなデカンショ節(デカンショー、デカンショーで半年暮らしゃ、後の半年ゃ寝て暮らす、ヨイヨイ♫・・・)に出て来る三人の哲学者の一人で、その三大批判書つまり、平たく言えば「真理とは何か」を追求する『純粋理性批判』、「善悪」とは何かを問う道徳哲学『実践理性批判』、「美醜」の判断を問う『判断力批判』が夙に著名だ。個人的には、デカルト、カントは良いけど、ショーペンハウエルの代わりに、ルソーにして欲しかったけど、そうすると、デカンソー、デカンソーとなって、少し調子が出ないかもね。

 俗っぽい政治に対する哲学的考察を取り出すのはカントじゃないでしょ、というのが普通のイメージ。もちろん、岩波文庫に納められている『永遠平和のために』(1875年著)という本もあるが、どちらかというと政治哲学村の評判は、原理は良いかもしれないけど、いい歳した爺さんが何を青臭いとことを言ってんだろ、現実はそんなもんじゃないぜ、と言うような評価らしい。

 で、ギリシャとアリストテレスとカントとが大好きみたいなアーレントが、そのカントの政治哲学的原理をとりだした13回の講義録がこれ。全部の講義をひっくるめて簡単な感想を書いてみた。

 カントについて第一に感心するのは、著者によればカントが政治向きの話に正面から取り組み始めたのは65歳を過ぎてから、つまり、哲学村では既にボケの領域にあるといわれているそうな老カントは、フランス革命の最中にそのことを考え詰めていたらしい。この部分はジジババにとって励ましになるところ。アーレントはもちろん自分の思い込みではなくて資料を提示してそう言っている。では、どう考えて、どのような結論を出したのだろうか、カント爺さんは。ここでは一番大事そうだと爺~じ(私のこと)が思った二つのことを書いておこう。

 一つは、国家成立の問題が憲法の問題である(道徳や心情の問題ではないこと、また、国家とは個々の法規・ルールを破って自分だけ得をしようとする人間の集まりでもあるから)一方で、他方において公共性の問題(ここでは特に私的秘匿がないこと、流行の表現では情報公開)だという認識だ。もう一つは、政治哲学の根本原理はカントが美について考察した『判断力批判』に表現されていると、アーレントは言う、というところ。客観的な理論や道徳哲学ではなくて、何を美しいと感じるか、その判断にこそ政治哲学の本質が繋がっている、と。何を美しいかと感じるのは人それぞれだが、そうはいっても人類に共通した美の感覚があるだろう(歴史を耐えて伝え残される芸術作品の存在)、その判断力が拡張されて、政治の場において(過去と未来を取り込んだ上での)今ここにおいて必要な政策を判断する、人間の能力として新しく付け加えられるべき、リアルな判断力に変容するのだ、と。

2017年9月17日日曜日

9月17日(日) 科学を見直してしまう『構造主義科学論の冒険』(池田清彦)


 読書メモの方は爺~じの「本の要約・メモ」の方にアップした(A4で26ページ)。
かなり前に、フリーソフトのロジックツリーでまとめたが、そのソフトを持っていないと見ることが出来ないため、箇条書きになおしてみた。

 読書感想文は、5月17日(水)のところで書いたが、言い換えると、科学に対する理解の視点が転換される本だと思う。

 つまり、科学は外部にある客観的真理を発見するものではなくて内部にある同一性を追求する営みであると。

 だから、多分地球外生命がいたならば、別の物理学体系を作るのは間違いないし、互換性があるとしても別の数学を作るだろうなー。ホントかどうか知らないけど。

2017年9月8日金曜日

9月8日(金) 『空想より科学へ』(エンゲルス)いいね!感想

 読んだのは、大内兵衛先生が1946年に訳した岩波文庫版。訳者序で「われわれ日本の社会主義者は、われわれの祖先のうちにたゞにサン・シモン、フーリエ及びオーウェンをもたなかったのみではない、またドイツの社会主義者の如く、カント、フィヒテ及びヘーゲルの流れを汲むことの誇をもってゐない。その故に、さういふことを知るためにも本書を読む必要がある。」とある。

 私は学者でも社会主義者でもないけど、100年前に社会主義国家として史上初めて出現したソヴィエト社会主義連邦共和国が崩壊してから30年弱、目指すべき社会・経済のあり方が見えなくなっている現在において、本書は主義・主張にかかわらず読むべき古典であろうと思う。つまり、18世紀末から19世紀初めにかけてのサン・シモン、フーリエ及びオーウェンのいう空想的社会主義ではなくてエンゲルスの言う科学的社会主義を知ることである。しかしそれだけではない、今となっては、過去の社会主義者達が何を問題としてそれをどう解決しようとして、何を見誤ったのか、どうして見誤ったのか、を知るために。

 但し、そのことを知るためには、前近代から近代への思想的転換と社会経済構造の転換に対する基本的概念と知識が少し必要だろう。つまり、自由・平等・人権の尊重と言う思想、民主主義という政治制度、人々の経済を支える物資の生産と流通・消費の構造、についての基本的な概念と知識である。それから出来れば、誰もが疑えない、人類共通の経験として持っている自然科学・技術が、現実として持っている諸刃の力についての知識も。

 1783年に本書でエンゲルスが提示した科学的社会主義の目指す社会の構想は、まずは一切の社会的制度の基礎は生産とその交換にあるとする唯物史観に基づいたものだ。だから、そのような社会構想において、必要な知識は哲学ではなくて経済に求められなければならないとされ、その結論は、資本家が支配する資本主義社会は歴史必然的に崩壊してプロレタリアが支配する社会になる、というものだ。つまり、自由と平等を実現したいという動機と思想は良いとしても、どうすれば実現出来るのかという考えに欠けている空想的社会主義とは違って、科学的社会主義は、それを実現するための客観的な理論を提示した、というのだ。

もう少し詳しく言うと次のようになる。その経済とはマルクス経済学のことだ。マルクス経済学が主張するポイントは、生産物の価値の源泉は労働にあること、労働搾取によって剰余価値が発生すること、剰余価値によって資本は果てしない自己増殖運動を始めること、このような資本主義的生産様式は必然的に自己崩壊をすること、などである。一方、現実社会には、ひどい貧富の格差に基づいて、自由・平等という理念とはかけ離れた社会状況が存在している。マルクス経済学は、このひどい貧富の格差の根本原因を、もはや生産が社会的生産となったにもかかわらず、それを支える巨大な生産力は社会の所有ではなくて一部の資本家のものとなっていることにある、と診断し、ここに生産手段を所有する資本家階級とその生産手段によって実際に価値を生み出しているにもかかわらず自身の労働を搾取されている労働者階級という二つの対立する階級が生じ、資本主義は、その生産様式に内在する法則に従って破滅することになっているから、この様式に代わって、労働者(プロレタリアート)が支配する社会、つまり社会主義の社会(共産主義社会でも良いと思うが)となる、と予想した。

 この記述を現代に当てはめてみると、妥当だと思う部分と、そうではない部分があることがわかだろう。一番妥当ではなかった部分とは、理論で予測したことが現実として違っていた、というとても分かりやすい部分、つまり後のソ連の成立と崩壊はエンゲルスの予測とはまるで違っていたということだ。妥当な部分というのは、理論の中の個別な部分を除いて一言で言えば、資本主義の矛盾を克服するための一つの社会構想を、批判可能な理論として分かりやすく、具体的に提示してあること、そのこと自体にあると思う。

 理論というものは、経験によって修正されてこそ価値があるのだから、エンゲルスの指摘とは一見矛盾するようだが、上記のような唯物史観が哲学によって修正されてこそ、新しい経済学が生まれる余地があるのではないだろうか。

2017年9月7日木曜日

9月6日(水) 『純粋理性批判』先験的感性論アップしました

ピース
 詳しくは別ブログ(爺~じの”名著読解”)を参照してね。
 カントの理論は、理屈ではなくて感性の方を基盤にして出来ているらしいことを知ることが、先ず第一歩なのだ。それはどういう意味か?私も、哲学と来れば理屈だろう、と思っていたが、それは全然方向音痴であったと言うことなのである。

 理屈を言えるのは経験を積むから、というのは子どもを見てると良く分かるが、感性の方は人間として生まれたからには生来持っている何かを基盤にして可能となる能力だと考えるほかはない。後者のような考えを、カント語で先験的(ア・プリオリ)と呼ぶらしい。先験的感性論とは、先験的な感性について述べられていて、単純に言えば、何はともあれすべてのことに対して人が認識することの一番基本にあるのは、時間と空間で、それはア・プリオリに言えるのだと述べられている。

 自然科学ならともかく、カントが一番やりたかった人間の道徳をについて考えるための入口は、ここから始まっている。