読んだのは、大内兵衛先生が1946年に訳した岩波文庫版。訳者序で「われわれ日本の社会主義者は、われわれの祖先のうちにたゞにサン・シモン、フーリエ及びオーウェンをもたなかったのみではない、またドイツの社会主義者の如く、カント、フィヒテ及びヘーゲルの流れを汲むことの誇をもってゐない。その故に、さういふことを知るためにも本書を読む必要がある。」とある。
私は学者でも社会主義者でもないけど、100年前に社会主義国家として史上初めて出現したソヴィエト社会主義連邦共和国が崩壊してから30年弱、目指すべき社会・経済のあり方が見えなくなっている現在において、本書は主義・主張にかかわらず読むべき古典であろうと思う。つまり、18世紀末から19世紀初めにかけてのサン・シモン、フーリエ及びオーウェンのいう空想的社会主義ではなくてエンゲルスの言う科学的社会主義を知ることである。しかしそれだけではない、今となっては、過去の社会主義者達が何を問題としてそれをどう解決しようとして、何を見誤ったのか、どうして見誤ったのか、を知るために。
但し、そのことを知るためには、前近代から近代への思想的転換と社会経済構造の転換に対する基本的概念と知識が少し必要だろう。つまり、自由・平等・人権の尊重と言う思想、民主主義という政治制度、人々の経済を支える物資の生産と流通・消費の構造、についての基本的な概念と知識である。それから出来れば、誰もが疑えない、人類共通の経験として持っている自然科学・技術が、現実として持っている諸刃の力についての知識も。
1783年に本書でエンゲルスが提示した科学的社会主義の目指す社会の構想は、まずは一切の社会的制度の基礎は生産とその交換にあるとする唯物史観に基づいたものだ。だから、そのような社会構想において、必要な知識は哲学ではなくて経済に求められなければならないとされ、その結論は、資本家が支配する資本主義社会は歴史必然的に崩壊してプロレタリアが支配する社会になる、というものだ。つまり、自由と平等を実現したいという動機と思想は良いとしても、どうすれば実現出来るのかという考えに欠けている空想的社会主義とは違って、科学的社会主義は、それを実現するための客観的な理論を提示した、というのだ。
もう少し詳しく言うと次のようになる。その経済とはマルクス経済学のことだ。マルクス経済学が主張するポイントは、生産物の価値の源泉は労働にあること、労働搾取によって剰余価値が発生すること、剰余価値によって資本は果てしない自己増殖運動を始めること、このような資本主義的生産様式は必然的に自己崩壊をすること、などである。一方、現実社会には、ひどい貧富の格差に基づいて、自由・平等という理念とはかけ離れた社会状況が存在している。マルクス経済学は、このひどい貧富の格差の根本原因を、もはや生産が社会的生産となったにもかかわらず、それを支える巨大な生産力は社会の所有ではなくて一部の資本家のものとなっていることにある、と診断し、ここに生産手段を所有する資本家階級とその生産手段によって実際に価値を生み出しているにもかかわらず自身の労働を搾取されている労働者階級という二つの対立する階級が生じ、資本主義は、その生産様式に内在する法則に従って破滅することになっているから、この様式に代わって、労働者(プロレタリアート)が支配する社会、つまり社会主義の社会(共産主義社会でも良いと思うが)となる、と予想した。
この記述を現代に当てはめてみると、妥当だと思う部分と、そうではない部分があることがわかだろう。一番妥当ではなかった部分とは、理論で予測したことが現実として違っていた、というとても分かりやすい部分、つまり後のソ連の成立と崩壊はエンゲルスの予測とはまるで違っていたということだ。妥当な部分というのは、理論の中の個別な部分を除いて一言で言えば、資本主義の矛盾を克服するための一つの社会構想を、批判可能な理論として分かりやすく、具体的に提示してあること、そのこと自体にあると思う。
理論というものは、経験によって修正されてこそ価値があるのだから、エンゲルスの指摘とは一見矛盾するようだが、上記のような唯物史観が哲学によって修正されてこそ、新しい経済学が生まれる余地があるのではないだろうか。
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