自己紹介

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1946年9月、焦土と化した東京都内にて、食糧難と住宅難と就職難の中、運良く生き抜いた両親の新しき時代の一発目として生を受けるも、一年未満で感染症にて死にかける。生き延びたのは、ご近所に住む朝鮮人女性のもらい乳と父親がやっと手にした本の印税全部を叩いて進駐軍から手に入れたペニシリンのおかげであったらしい。ここまでは当然記憶にない。記憶になくても疑えないことである。 物心がついた頃には理系少年になっていた。それが何故なのか定かではないが、誤魔化しうるコトバより、誤魔化しえない数や図形に安堵を覚えたのかもしれない。言葉というものが、単なる記号ではなく、実は世界を分節し、意味と価値の認識それ自体をも可能にするものであることに気付きはじめたのは50歳を過ぎてからであった。 30年間程の企業勤めの後、現在は知の世界に遊ぶ自称哲学徒、通称孫が気になる普通の爺~じ。ブログには庭で育てている薔薇の写真も載せました。

2017年9月7日木曜日

9月6日(水) 『純粋理性批判』先験的感性論アップしました

ピース
 詳しくは別ブログ(爺~じの”名著読解”)を参照してね。
 カントの理論は、理屈ではなくて感性の方を基盤にして出来ているらしいことを知ることが、先ず第一歩なのだ。それはどういう意味か?私も、哲学と来れば理屈だろう、と思っていたが、それは全然方向音痴であったと言うことなのである。

 理屈を言えるのは経験を積むから、というのは子どもを見てると良く分かるが、感性の方は人間として生まれたからには生来持っている何かを基盤にして可能となる能力だと考えるほかはない。後者のような考えを、カント語で先験的(ア・プリオリ)と呼ぶらしい。先験的感性論とは、先験的な感性について述べられていて、単純に言えば、何はともあれすべてのことに対して人が認識することの一番基本にあるのは、時間と空間で、それはア・プリオリに言えるのだと述べられている。

 自然科学ならともかく、カントが一番やりたかった人間の道徳をについて考えるための入口は、ここから始まっている。

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