自己紹介

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1946年9月、焦土と化した東京都内にて、食糧難と住宅難と就職難の中、運良く生き抜いた両親の新しき時代の一発目として生を受けるも、一年未満で感染症にて死にかける。生き延びたのは、ご近所に住む朝鮮人女性のもらい乳と父親がやっと手にした本の印税全部を叩いて進駐軍から手に入れたペニシリンのおかげであったらしい。ここまでは当然記憶にない。記憶になくても疑えないことである。 物心がついた頃には理系少年になっていた。それが何故なのか定かではないが、誤魔化しうるコトバより、誤魔化しえない数や図形に安堵を覚えたのかもしれない。言葉というものが、単なる記号ではなく、実は世界を分節し、意味と価値の認識それ自体をも可能にするものであることに気付きはじめたのは50歳を過ぎてからであった。 30年間程の企業勤めの後、現在は知の世界に遊ぶ自称哲学徒、通称孫が気になる普通の爺~じ。ブログには庭で育てている薔薇の写真も載せました。

2017年12月20日水曜日

12月20日(水) わかりやすく親切かつ本質をついた哲学本『哲学のモノサシ』西研著


昔読んだ本のメモを時々開いてみてここに転記している。
カクテル


1996年に書かれたこの本は少年・少女が哲学を好きになる良書だ。読んでいると著者が私に話しかけているように感じるほどわかりやすく言葉が投げかけられてくる。

特に印象的な部分を二箇所下記に抜粋してみた。


(1)現象学は、「向こう側に存在するだろう唯一絶対の真理」を求めることから、問いの方向を大きくじぶんのほうへと転換した。<唯一の真理・正義は何か>ではなく<なぜわたしにはこれが真実だと思えるのか><なぜわたしはこれをよくないと感じるのか>と問う。---それとともに、他人を問うてみる。<なぜあのひとはこれをよくないことだというのだろうか>。

(2)だれかが(恋人なり友人が)じぶんの存在を受け入れている、という感覚が得られてはじめて、人はじぶんの感受性を肯定できるようになるのだ。そして、感受性の肯定ができてはじめて、その人は自分の感受性を検証しながら自覚的に自分のモノサシを育てていくことができるようになる(じぶん一人でではなく、他人と育てあうと考える方がいい)。

尚、現象学という哲学を知ろうとして、「現象学」と書かれている哲学書とか解説書を読むと、普通はかえってわからなくなるから、急いで読む必要はない。西先生が本書で書いたことを、まずはナルホドと思えれば良いと思う。

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