自己紹介

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1946年9月、焦土と化した東京都内にて、食糧難と住宅難と就職難の中、運良く生き抜いた両親の新しき時代の一発目として生を受けるも、一年未満で感染症にて死にかける。生き延びたのは、ご近所に住む朝鮮人女性のもらい乳と父親がやっと手にした本の印税全部を叩いて進駐軍から手に入れたペニシリンのおかげであったらしい。ここまでは当然記憶にない。記憶になくても疑えないことである。 物心がついた頃には理系少年になっていた。それが何故なのか定かではないが、誤魔化しうるコトバより、誤魔化しえない数や図形に安堵を覚えたのかもしれない。言葉というものが、単なる記号ではなく、実は世界を分節し、意味と価値の認識それ自体をも可能にするものであることに気付きはじめたのは50歳を過ぎてからであった。 30年間程の企業勤めの後、現在は知の世界に遊ぶ自称哲学徒、通称孫が気になる普通の爺~じ。ブログには庭で育てている薔薇の写真も載せました。

2018年1月2日火曜日

1月2日(火) 本年の初めは『プロ倫』です


 マルクスの資本論を四月頃には全巻読破する予定なのだが、関連して、つまり資本主義というものを40年ほど後に取り上げているという単純な意味で、マックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(1906年)の箇条書きメモを再読してみた。確かに同じ資本主義ということばを使ってもそのの捉え方が違うぞ。その違いをいつか記述してみたいが今は置いておく。

 ところでA4で10枚ほどの要約だから短いのは良いのだけど、内容はといえばとても誉められたものではない。といっても、恥を忍んで掲載しておく方がしないよりましだと思い、少し補足・修正して別のブログ爺~じの「本の要約・メモ」に掲載した。

 「プロテスタンティズムの倫理」と「資本主義の精神」というものがあって、この二つが関係しているということが書かれているのだが、どんな関係があるのだろう?つまり、カルヴァニズムというキリスト教プロテスタントの一派を特徴的づける教義の「予定説」(恩恵による選びの教説)を基にした生き方が「倫理」の方で、神が与えた「天職」に勤しむことが「精神」の方で、そこには関係があると。でも、この二つに関係があると信じることが出来るのはなぜだろう?という肝心なところは今一つ理解できていない。象徴的に言えば「働かざる者食うべからず」ということかも。これは間違いではないけど、これでおしまい、ではないでしょう。

 しかし、つぎのくだりなどは、もう少しマックス・ヴェーバーの社会学を理解したいと思わすのに充分であると思います。
「・・・不断の労働をともなう事業が「生活に不可欠なもの」となってしまっているからなのだ、と端的に答えるだろう。これこそ彼らの動機を説明する唯一の解答であるとともに、事業のために人間が存在し、その逆ではない、というその生活態度が、個人の幸福の立場から見ると全く非合理的だと言うことを明白に物語っている。」

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