自己紹介

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1946年9月、焦土と化した東京都内にて、食糧難と住宅難と就職難の中、運良く生き抜いた両親の新しき時代の一発目として生を受けるも、一年未満で感染症にて死にかける。生き延びたのは、ご近所に住む朝鮮人女性のもらい乳と父親がやっと手にした本の印税全部を叩いて進駐軍から手に入れたペニシリンのおかげであったらしい。ここまでは当然記憶にない。記憶になくても疑えないことである。 物心がついた頃には理系少年になっていた。それが何故なのか定かではないが、誤魔化しうるコトバより、誤魔化しえない数や図形に安堵を覚えたのかもしれない。言葉というものが、単なる記号ではなく、実は世界を分節し、意味と価値の認識それ自体をも可能にするものであることに気付きはじめたのは50歳を過ぎてからであった。 30年間程の企業勤めの後、現在は知の世界に遊ぶ自称哲学徒、通称孫が気になる普通の爺~じ。ブログには庭で育てている薔薇の写真も載せました。

2018年5月31日木曜日

5月31日(木) ニーチェ『道徳の系譜』① 序言、第一論文の一~三

マルコポーロ

 和光大パイデイアの石川輝吉さんの社会人講座で、ニーチェ『道徳の系譜』の講読が始まった。かなり前に一度読んだのだが、今回は講読の途中経過を「読書日記」に書いておくことにした。一年後にまとめて、別ブログに掲載するつもり。今日はその1回目。
 同時に読み進めている本が六冊あるので大変。でも、それらを日誌に記載していく方法を採用すると大体毎日ネタには困らないことに気づいた。が、はたして実行できるか?


ニーチェ 道徳の系譜(1887)

(ちくま学芸文庫版。新太正三訳)

「 」内は本文引用。( )内は私の補足。★印は私の一言

序言
★善悪という価値判断の意味と価値を、その起源に溯って、一から考えようと言う宣言。
「かくして問題はこうなる、すなわち、人間はいかなる条件のもとに善悪というあの価値判断を考え出したか?しかしてこれら価値判断それ自体はいかなる価値を有するか?それらはこれまでに人間の成長を妨げたか、それとも促進したか?それらは生の危機、貧化、退化の徴候であるか?それとも逆に、それらのうちには生の充実・生の力・生の意志が、またその勇気、確信、未来があらわれているのか?」

第一論文 「善と悪」、「よい(優良)とわるい(劣悪)」
★ニーチェは、偉そうに理屈をこねるドイツ観念論哲学(カント、ヘーゲルなど)よりも、浅薄だが事実を見ようとするイギリスの経験論哲学(ロック、ヒュームなど)の方がまだましだと、そちらにヒントを求めた。
「すなわち、われわれの内部世界の<恥部>をされけだし、人間の知的矜持が極力見られたくないと願っているその箇所に、真に活動的な因子、指導的な因子、発展のための決定的な因子を探り出そうとしている(イギリス哲学者たち)。」

★善悪の判断は<よい><わるい>という感性に基づくもの、そして<よい>という感覚の起源は高貴で強い人々自身が感じ取ったもので優良、<わるい>はその反対で劣悪とイメージされるようになり、ここに支配者(優良)と被支配者(劣悪)の対立が起こるという見立て。イギリス経験論・功利主義哲学者は、高級な人々が低級な人々に利益を施す非利己的な行為が低級な人々によって賞賛されることが<よい>の起源であるのに、そのことが忘れられているなどと格好をつけているが、<よい>は自分たちがそう感じていることなのだ。
「<よい>という判断は、<よいこと>をしてもらう人々からおこるのではない!その判断のおこりは、むしろ<よい人>たち自身にあった。すなわち高貴な者たち、強力な者たち、高位の者たち自身にあった。・・・高貴との距離のパトス(その時の感情)、すなわち低級な種族つまり<下層者>にたいする高級な支配者種族の持続的・優越的な全体感情と根本感情、―――これこそが<よい>(優良)と<わるい>(劣悪)との対立の起源なのである。」

★ちょっとした挿入箇所。ハーバード・スペンサー(19世紀イギリスの哲学者。「適者生存」という言葉の創始者)の考えを引き合いに出して、イギリス経験論(この場合は自然科学的合理性)の良いところと足りないところを述べている。多分、善悪の判断の起源である<よい><わるい>という人の感性は自然法則では説明できない、と言いたいのだろう。

2018年5月7日月曜日

5月7日(月) H.アーレント『人間の条件』の研究会が始まった

ベルサイユの薔薇
まだ無名ではあるが、H.アーレントの研究者を講師に招いて、仲間と『人間の条件』(ドイツ語からの森一郎先生の翻訳が最近『活動的生』のタイトルで出たので、そちらも並行し読みながら)を読み始めた。
 著者は、残念ながら1975年に69歳で亡くなっているのだが、彼女が政治というものを哲学的にどのように捉えていたのか、その本当のところを知りたいと思ったのがその動機だ。少なくとも西洋の伝統的形而上学的な考え方ではなく、人間の実存からの思考のはずだからだ。
 まだ、第一章まで読んだところだが、アーレントの政治哲学の基盤となっている部分が覗えて先が楽しみだ。人間の知識が己自身を滅亡させるほどの現実をもたらしたこの不安に満ちた現代において、人間の本質を問うのではなく、人間が人間たる条件を問うこと、それがはじめの問いだ。

2018年5月5日土曜日

4月30日(月) 『資本論』完読祝い

良い香りの「芳純」
仲間と始めた『資本論』全三巻の講読会が4月30日に終了した。一人で読むのは続かないだろうと仲間に呼びかけ、はじめは3人くらい集まれば始めるつもりであったが、結局平均7名くらいは継続してくれた。読書会の回数は31回、期間にして3年10ヶ月、回り持ちでレジュメを作って残してある。最後は意地で終わらせた感じではあったが、確かに完読した。現代では人気がなくなったとは言え、その考え方の一部は現代国家の政策にも採り入れられており、やはり名著として読み継がれる価値があると思った。
 私自身のまとめは別途作成し、第一巻については別ブログ「爺~じの哲学系名著読解」に26回に分割して各章毎に、第二巻については「爺~じの「本の要約・メモ」」に一度に、まとめてある。第三巻については一度にまとめて作成中。
 本書を一言で紹介しろと言われたら何と答えたら良いだろう。例えばこういうのはどうだろうか。マルクスは19世紀の西欧において起こっている社会の不幸を目の当たりにして、同じ人間達なのにどうしてこんなことになっているのだろうか、どうすれば良くなるのだろうか、と問い、人間の基本的営みである経済活動の研究を通してその答えを出そうとした。本書は、まず経済学の本である。しかし、富が生み出され、分配され、増殖し、また恐慌が発生して不幸が襲うという現象の説明には、当然のこととして、政治・社会の力関係を理解しなければならないし、将来の社会構想の一部分も述べなければならないことになるから、それらのことも本書には記述してあるが、そのまま現代には通用しないのはマルクスのせいではない。
 人間社会における経済活動は、生活に必要なものをつくり出してお互いに交換し合う(多くは貨幣を媒介して)人間活動の一つ、ということになるだろう。マルクス経済理論の根幹は、大きく捉えれば労働価値説と剰余価値説となる。前者は既に17世紀末頃からは西洋世界で一般に信じられている説なので基本的には新しい考えではないが、後者は、労働から生み出された価値のうち、一部が労働する人のものではなくて労働する人に賃金を支払って雇い入れる側の人びとの手に渡る仕組みとなっているのだ、という説。利子や地代などについても、上記の考えから、一言で言えば剰余価値の分け前として説明される。
 もう一つ、マルクスの考えには次のような前提があると思う。経済活動の生み出したものの内には価値というものが備わっていて、それが経済活動のいろいろな場面でいろいろな形態として目に見えるものとして現れてくる。例えば、商品、貨幣、支払手形、等々。そしてそれらには、元々備わっている価値とは別に、目に見えないある力が備わっている。資本と呼ばれるものである。この資本が社会的諸関係によって様々な形態をとりながら運動しており、そこには法則がある。つまり、一番基本にある概念としての商品に備わっている価値(価格はその表現)は、人が作りだした理念であって、言ってみれば哲学で昔から問題にして生きた、真・善・美のような類なのかも知れない。とすると、いくら科学の装いを纏っても、その部分に関しての経済学としての疑義は申し立てられそうだ。とても難しそうだけど。