マルコポーロ |
和光大パイデイアの石川輝吉さんの社会人講座で、ニーチェ『道徳の系譜』の講読が始まった。かなり前に一度読んだのだが、今回は講読の途中経過を「読書日記」に書いておくことにした。一年後にまとめて、別ブログに掲載するつもり。今日はその1回目。
同時に読み進めている本が六冊あるので大変。でも、それらを日誌に記載していく方法を採用すると大体毎日ネタには困らないことに気づいた。が、はたして実行できるか?
ニーチェ 道徳の系譜(1887年)
(ちくま学芸文庫版。新太正三訳)
「 」内は本文引用。( )内は私の補足。★印は私の一言
序言
★善悪という価値判断の意味と価値を、その起源に溯って、一から考えようと言う宣言。
「かくして問題はこうなる、すなわち、人間はいかなる条件のもとに善悪というあの価値判断を考え出したか?しかしてこれら価値判断それ自体はいかなる価値を有するか?それらはこれまでに人間の成長を妨げたか、それとも促進したか?それらは生の危機、貧化、退化の徴候であるか?それとも逆に、それらのうちには生の充実・生の力・生の意志が、またその勇気、確信、未来があらわれているのか?」
第一論文 「善と悪」、「よい(優良)とわるい(劣悪)」
一
★ニーチェは、偉そうに理屈をこねるドイツ観念論哲学(カント、ヘーゲルなど)よりも、浅薄だが事実を見ようとするイギリスの経験論哲学(ロック、ヒュームなど)の方がまだましだと、そちらにヒントを求めた。
「すなわち、われわれの内部世界の<恥部>をされけだし、人間の知的矜持が極力見られたくないと願っているその箇所に、真に活動的な因子、指導的な因子、発展のための決定的な因子を探り出そうとしている(イギリス哲学者たち)。」
二
★善悪の判断は<よい><わるい>という感性に基づくもの、そして<よい>という感覚の起源は高貴で強い人々自身が感じ取ったもので優良、<わるい>はその反対で劣悪とイメージされるようになり、ここに支配者(優良)と被支配者(劣悪)の対立が起こるという見立て。イギリス経験論・功利主義哲学者は、高級な人々が低級な人々に利益を施す非利己的な行為が低級な人々によって賞賛されることが<よい>の起源であるのに、そのことが忘れられているなどと格好をつけているが、<よい>は自分たちがそう感じていることなのだ。
「<よい>という判断は、<よいこと>をしてもらう人々からおこるのではない!その判断のおこりは、むしろ<よい人>たち自身にあった。すなわち高貴な者たち、強力な者たち、高位の者たち自身にあった。・・・高貴との距離のパトス(その時の感情)、すなわち低級な種族つまり<下層者>にたいする高級な支配者種族の持続的・優越的な全体感情と根本感情、―――これこそが<よい>(優良)と<わるい>(劣悪)との対立の起源なのである。」
三
★ちょっとした挿入箇所。ハーバード・スペンサー(19世紀イギリスの哲学者。「適者生存」という言葉の創始者)の考えを引き合いに出して、イギリス経験論(この場合は自然科学的合理性)の良いところと足りないところを述べている。多分、善悪の判断の起源である<よい><わるい>という人の感性は自然法則では説明できない、と言いたいのだろう。
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