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1946年9月、焦土と化した東京都内にて、食糧難と住宅難と就職難の中、運良く生き抜いた両親の新しき時代の一発目として生を受けるも、一年未満で感染症にて死にかける。生き延びたのは、ご近所に住む朝鮮人女性のもらい乳と父親がやっと手にした本の印税全部を叩いて進駐軍から手に入れたペニシリンのおかげであったらしい。ここまでは当然記憶にない。記憶になくても疑えないことである。 物心がついた頃には理系少年になっていた。それが何故なのか定かではないが、誤魔化しうるコトバより、誤魔化しえない数や図形に安堵を覚えたのかもしれない。言葉というものが、単なる記号ではなく、実は世界を分節し、意味と価値の認識それ自体をも可能にするものであることに気付きはじめたのは50歳を過ぎてからであった。 30年間程の企業勤めの後、現在は知の世界に遊ぶ自称哲学徒、通称孫が気になる普通の爺~じ。ブログには庭で育てている薔薇の写真も載せました。

2019年3月15日金曜日

3月15日(金)  アーレント『活動的生』⑦第二章 公的なものの空間と、私的なものの領域 6 社会の成立

ハンナ・アーレント『活動的生』(森一郎訳、みすず書房)

「 」内は本文引用、< >内はアーレントのキーワード(必要に応じて)
カクテル

第二章 公的なものの空間と、私的なものの領域

6 社会の成立

この節の一言⇒私的領域の公的社会に対し個人はどうするの?

この節では、近代以降に新しく出現した<社会>という領域とはどのようなものなのか、が語られる。アーレントの言う<社会>という概念は新しい概念であり、彼女の政治哲学におけるキーワードの一つだろう。従って当然分かりにくいのだが、一言で言ってしまえば下記のようになると思う。しかし、多分これでは分からないだろう。続いて書いた*印の箇条書きの分と文脈から理解を補うほかはない。本文にも、英文で著者か書いた『人間の条件』の日本語訳には書いてなかったり、意味が同じとは言えないような部分もあり、併せ読んでも難解な部分が多々ある。

<社会>は、私的な家政の領域でも公的なポリスの領域でもない新しい人間集団のあり方を指す概念である。<社会>は私的領域が巨大に拡張したものでありながら、私的なものと対峙するものであり、それまでは私的なものが対峙していたはずの公的なものは次第に内面の自由が保障される私的領域へと押しやられるようなものである。<社会>とは、その個々の内部において共通の利害関心によって束ねられた、同じ態度ふるまいを求められる、最終的には画一主義に基づく、統治者のいない自主的な統治形態である。「<社会>とは、とにかく生きることというただ一つの究極目的のために、人間同士が互いに依存し合うこと、ただそのことのみが、公的意義を獲得するような共存の形態である。」(pp.57)

<社会>は、近代個人の発見、家族の崩壊とその拡大吸収、私的領域からの自由労働解放、近代科学の手法によって出現し発展してきた。ルソーによって自覚的に発見された内面性の自由を核心とする近代個人は、その社会自体が本質的に持っている水平化傾向に対する反発から生じたのだが、誤解してはならないのは、この水平化傾向は近代の理念とされている平等とは無関係なことである。
しかし何故そうなってきたのか、「それは、<社会>によって、生命プロセス自体が、多様このうえない形態において公的なものの空間に導き入れられたからである。」(pp.56)という。著者のパースペクティブはここでまた焦点を、生物プロセスの循環の世界へと遠方へ移される。

最後に、近代以降出現してきた<社会>は、個々の人間の卓越性が住む場所を奪うとともに、人類の進歩のお陰でわれわれ自身が住んでいる世界という場所を急激に変えているが、この世界という空間の変化自体が問題であることが指摘される。社会科学は人間のふるまい方の変化だけを、人間的実存に関する心理学的解釈だけを問題にしているにすぎないからであり、公的なものは、卓越性がそれに相応しい場所を見出すことができる限りで、世界の空間となることが出来るからである。

*「家政という内なるものが、それに属する活動、配慮、組織形態とともに、家の暗がりから、公的に政治的な領域の光あふれる外に出てきたとき、社会的なものの空間が成立した。」(pp.46)
*現代のわれわれにとっての私的なものとは、内面性の領域を言い換えたものに、ほかならず、古代ギリシャでは全く見知らぬものであった
*内面的なものの最初の自覚的発見はジャン-ジャック・ルソーで、彼をして内面的なものへ導いたのは、社会の中で人間の心が耐えがたく歪められることに対する反抗であった
*内面的なものも社会的なものも家屋敷や公的場所のような明確な領域を持てないから、それらは主観的な何かとして現れる。ルソーは両者を人間的実存の形式として捉えた。近代的個人は自分自身の社会的存在に対する心のこの反抗において生まれた。
*近代的個人は、社会の内で居心地よく感じることも、社会の外部に生きることも、どちらも出来ないという二重の無力さから生じる無限の内的葛藤状態のうちへ巻き込まれていく
*このルソーの発見の真正さは、以降の多くの人により確証されており疑いの余地はない。18世紀の中頃から19世紀の23が過ぎようとする頃まで、詩や音楽や小説が発展して、社会的なものを真の内実とする独立した芸術形式となった。公的な芸術形式、とりわけ建築は没落の憂き目に遭った。これらのすべては、内面的なものと社会的なものがいかに相互に密接に関係し合っているかを示している
*社会に対する反抗の対象は、とりわけ、今日われわれが画一主義と名づけている社会の水平化傾向である。この社会の水平化傾向はあらゆる社会の徴表であって、平等の原理に基づくものではない
*この水平化傾向に対する反抗が始まったのは、トクヴィル以来往々にしてわれわれが画一主義に対する責任を負わせる平等の原理が、社会体や政治制度においてじわじわと本領を発揮するよりも以前であった(⇒トクヴィル批判も含意されている)
*<社会>は、それに属する人々全員に、一個の大家族を構成する成員のように振る舞うことを常に要求する。なぜなら、社会的なものの興隆と家族の崩壊が期を一にして起こり、それらの家族は、その生活水準を同じように維持できる集団としての個々の社会に吸収されたからである(⇒そのような個々の社会は階級を作ったはず)
*従って、そのような個々の社会の構成員は、共通の利害関心を持つことにおいて水平化しているのであって、対等同格を旨とする平等という状態とは無関係であり、むしろ家父長の専制的権力の下での家族の全構成員の平等と同質である
*利害関心が一致する多くの家族が加算されて一個の集団と化した社会においては、その利害関心の力も加算されて強力になり、その力自体が家長の権力に代わる役割を果たすようになる。「まったき自発性において完全な一致が達せされる、われわれになじみの画一主義は、この発展の最終段階にすぎない。」(pp.50)
*一者の支配という君主制的原理は、古代では家政に典型的な組織形態と見なされ、絶対王政の宮廷ではその家政に代表されるのだが、近代社会においては一者の支配ではなくて、その代わりに誰も支配も統治もしないが支配自体は存在するという事態に至る
*誰も支配しないという現象は、いかなる人格とも結びついていないからといって専制的ではないということではない。国民国家の発展の初期段階においては啓蒙専制的な絶対君主制が、最終段階では官僚制の支配がそのことをよく教えている
*「最終的にこの現象にとって決定的なのは、ひとえに、社会がそのすべての発展段階において、家政と家族の領域がかつてそうしたのとまったく同様、<行為>を排除するということである。<行為>の代わりとなるのが、態度ふるまい(=Sich-Verhalten⇒自らとる態度、「忖度」とか「空気を読む」という訳もいいかも)である。」(pp.50)
*<社会>がこの態度ふるまいを規整するために指定する無数の規則は、個々人を社会的に規格化しては社会の務めを果たせる者に仕立て、自発的な行為も卓越した業績も阻止するという点に帰着する
*ルソーにとって問題だったのは因習に囚われた上流社会のサロンだった。個人と社会的地位とのこの同一視にとっては、半封建制的、19世紀の階級社会、現代の大衆社会等、どのような秩序の枠組みにおいて行われるかは比較的どうでもよいことだ
20世紀には最終的に、大衆社会が社会的階級と形成された集団を吸収してその内部を水平化した。大衆社会は、社会の外部に立つ集団がもはや存在しない段階である
*公的なものの領域を社会が征服したという事実は、そのことが政治的にも法的に承認されたことであり、そこでは卓越性と独自性の発揮は自動的に個々人の私的関心事と化している
*近代的平等(Egarität)は社会の画一主義に基づいている。Egaritätは古代ギリシャのポリスにおいて周知であった同等(Gleichheit)とはあらゆる点で異なっている。
Gleichheitはポリスの公的空間において、同意同格の「同等の人々」に伍してして生を送ることの許された特権的小規模集団に属することを意味し、そこでは誰しも卓越性を試す可能性を持ち、この可能性のためにこそ公務の負担と重さを進んで引きうけた
*<社会>の成立と踵を接して起こった科学である国民経済学もこの画一主義に基づいている。かつての経済学は、人間が経済においても依然として行為する存在であると想定していたが、いまや科学によって、態度ふるまいの形式を研究して斉一的に体系化することが可能となった
*統計学にとっては<行為>という偏差は取るに足りないことになってしまい、そこからは経済学の本当の意義を見出すことは出来ない。それは丁度、歴史の進展自体を中断させる希な出来事がその進展の本当の意義を示すのと同様である。
*数量の大きな領域では、統計的法則が妥当する。政治においていえば、政治的構成された共同体(ゲマインシャフト)の人口が多いほど、非政治的で利益社会(ゲゼルシャフト)的な要素が、公的領域の内部で優位を占める事態が増えることを意味している
*ギリシャ人達は統計学を知らなかったが、ポリスが存立するのは市民の数が限界内に抑えられているときだけであるという事実ならよく知っていた。彼らは、ギリシャ文明とは異質な、画一主義、行動主義、自動機構を特徴とするペルシャ文明を知悉していたからである
*現代において、<社会>は日常的なものの「幸福」しか知ろうとしない。それゆえ、社会科学のうちに、自分自身の実存に見合った「真理」を求めて見出す
*均一化された態度ふるまいは、統計学的、科学的に取り扱うことが出来る。だが、アダムスミスの「神の見えざる手」を含めて、古典派経済学が設定した仮定と理論、つまり利害関心の自動調和的な自由主義的仮定の下で、対立し合う利害関心の調和を繰り返すという理論では十分とは言えない
*マルクスと自由主義的経済学者達との相違は、彼が対立し合う利害関心という事実を真面目に受けとめ、そこから「人間の社会化」は利害関心の調和化に自動的に至るという結論(⇒資本の自己運動と資本主義的体制の自動的崩壊)を引き出した首尾一貫性である
*マルクスはまた、「一切の経済学理論の根底に存する「共産主義的虚構」を実際に確立しようとする彼の提案が、彼の先行者達の理論よりも、とりわけ気概に富む点で傑出していた」のも同様である。」(pp55)(⇒多分、同様というのは首尾一貫性についてだろう)
*当時はまだ困難だったのだが、マルクスが理解していなかったのは、共産主義社会の萌芽はすでに国民経済のリアリティーの中に予め形成されていたということ、そしてこの萌芽の開花が、階級の利害関心に因って起こるのではなく、古臭くなっていた君主制国民国家の構造によって妨害されていたということである
*社会が完全に発展し、他の一切の非社会的要素に勝利を収めれば、社会は必然的に「共産主義的虚構」を生み出す。この虚構の徴表は、そのなかではげんじつに「見えざる手」による支配がなされ、その支配者は一個の誰でもない者だという点にある
*現代の大衆社会の状況は「あたかも、ほかならぬ人類が、人間性を死滅させることが出来るかのようである。」(pp.57)
*「<社会>とは、とにかく生きることというただ一つの究極目的のために、人間同士が互いに依存し合うこと、ただそのことのみが、公的意義を獲得するような共存の形態である。」(pp.57)
*「活動が私的に行われるか公的に行われるかは、決してどうでもよいことではない。明らかに、公的空間の性格は、いかなる活動が公的空間を満たすか、に応じて変化する。他方で、活動それ自身も、私的になされるか公的になされるか、に応じてその本性を変える。」(pp.58)
*<社会>の出現に伴って労働は公的領域へ解放されたが、それが生命プロセスの必然的活動であるという性格は寸毫も変わっていない。その結果、労働プロセスは生命の永遠回帰の円環から解放されて急激に進歩する発展のうちに駆り立てられた。
*「社会はいわば、自然的なもの自体の不自然な成長とでもいうべきものを解き放ったのである。」(pp.58) 。「自然的なもの自体の不自然な成長」とは普通、労働生産性の絶えざる加速と記述される
*<社会>やその膨張は、一方では私的かつ内面的なものの、他方では狭義の政治的なものの、無力さを明らかにした
*分業とそれに続く生産性の上昇は、労働が公的なものであるという条件の下ではじめて成し遂げられるものである。というのは、分業という労働の組織化の原理が明らかに私的なものではなく公的なものであるからである
*卓越性はという言葉は、ギリシャ語でもラテン語でも、徳が発揮される場という意味であって、そのような場は、つねに公的なものの領域であり、現前する他者と自分との隔たりを生み出す形式的枠組みと空間を必要とする
*<社会>においては、卓越性は個人ではなくて人類の進歩のお陰とされるから匿名化される。だからといって公的業績と個人の卓越性との関係は否定し去ることは出来ないのは、労働が私的ではなく公的となり、行為と言論が私的で内面的領域へと劣化しつつ閉じ込められたからである
*「われわれが労働と制作により獲得するものと、労働と制作によって作られたこの世界のうちでわれわれ自身が活動する当の仕方との間の奇妙な不一致については、しばしば指摘されてきた。」(⇒奇妙な不一致とは、簡単に言うとチャップリンの「モダンタイムス」のような事態のことか)
*奇妙な不一致について一般に言われているのは、科学技術の進歩に人類の進歩が追いつかない(⇒というよりも、日常生活のリアリティーが追いつかないことだろうと思うが)というだろうが、それは依って立つ視点がずれた判断である(⇒といいたいのだろうと思う)
*(⇒この視点のズレは、現代社会に対する批判が問題にしているのは「人間のふるまい方が変化している」ことを問題とし、この問題を解くために社会科学が科学的方法である「心理学」を人間に適用しようとするからである)
*問題とすべきは「人間がそこに住み、そのうちを動いている世界が変化していること」である
*心理学的解釈なら公的空間の存在や世界のリアリティーも問題にすることは出来ず、そのような解釈をする能力はただ教えれば身につくもので卓越性は必要とせず、公的なものを形づくる当のものは、社会科学的な心理学的解釈で埋め合わせることは出来ない
*「まただからこそ、公的なものは人間がおたがいしのぎを削り、卓越性がそれにふさわしい場所を見出すことのできる、そうした世界の空間となるのである。」(⇒だからこそ、の「だから」は推測するに、生命の必然ではなく人間の自由が行為という活動を実現するのだ、ということなのだろうが、この節の文脈からは不分明)

2019年3月10日日曜日

3月10日(日) アーレント『活動的生』⑥第二章 公的なものの空間と、私的なものの領域 5 ポリスと家政

ハンナ・アーレント『活動的生』(森一郎訳、みすず書房)

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ベルサイユの薔薇

第二章 公的なものの空間と、私的なものの領域

5 ポリスと家政

この節の一言⇒古代のギリシャに公私の区分の源流を訊ねて

私的と公的という二つの領域を区分するという意識や思想および、この区分立てに基づく生活空間は、少なくとも古代都市国家の開始から現在に至るまで存在してきた。それ以前、あるいは古代都市国家の外にも当然に社会は存在しただろうが、そこには生きるための必然が強制する暴力の支配する世界、あるいは別の言い方をすれば全てが私的な空間であっただろう。
しかし、この二つの区分立ての内実は歴史と共に変遷し、近代以降においては、古代ギリシャにおいては公理のごとく当然とされていたこの区分立てを理解することすら異常に困難になっている。そのことを理解するためのキーワードは、公的と私的の二つの領域とは別に出現してきたもう一つの領域、<社会>という中間的領域の概念である。近代においては、ギリシャのポリスとは逆に、政治は社会の一機能であるということが公理と化した前提の一つにすぎなくなっている。
古代ギリシャにおいては、公的空間は「ポリス的なものの空間」であり、そこでの活動は「万人に共通な世界に定位した活動」であり、自由の概念はこの空間において成立するものであった。私的空間は「家政の領域」であり、そこでの活動は「生命の維持に奉仕する活動」であり、必然の概念はこの空間において成立するものであった。

・政治的なものを社会的なものと同一視すると言う誤解は、ギリシャ語の概念がキリスト教的思想に適合させられたことと同じだけ古いが、近代以降に<社会>という近代的概念が生じたことが事態を一層決定的に複雑化した
・近代の開始以来、いかなる人民組織も政治共同体も、大きく成長した家政機構のイメージで捉えられ、そのイメージを対象とする科学的思考はもはや政治学ではなくて国民経済学もしくは社会経済学と呼ばれている
・都市国家は私的なものの犠牲の上に生じたのだろうが、そのことが徹底していた古代ギリシャにおいてさえ、市民の私的領域はポリスによる破壊から守られていた。「なぜなら、自分自身のものと本当に呼べる場所がなければ、共通世界のどこにも場所を持たないに等しいからである。」
・古代ギリシャでは、家政において生活の必要を賄うことがポリスにおいて自由を手に入れるための条件であったから、政治とは、社会の安寧のために必要であると解することは到底出来るはずがなかった
・前記の社会とは、中世では信仰者の社会、ロックでは有産者の社会、ホッブズでは営利社会、マルクスでは生産者の社会、現代の西側諸国では定職者の社会、社会主義や共産主義の社会では労働者の社会である
・前記のいずれの事例でも、政治が持つ権力を制限することを正当化するのは社会の自由であり、そこでは自由が社会的なものに位置づけられ、強制や暴力は政治的なものに場所を指定され、かくして国家の独占物となる
・ギリシャの哲学者たちは、強制と暴力は私的領域ででのみ正当化されると考えていたが、それは、例えば奴隷を支配するという暴力を行使してこそ、人間は生きている限り押しつけられる必然から解放されて、世界の自由へと赴くことが出来るからであった
・古代ギリシャ人にとっては、この世界の自由とは、彼らが幸福(エウダイモニア)と呼んだものにとっての条件でり、それは世界における客観的状態を全体的に形づくるもの、つまり健康や裕福と、どうしても結びついていなければならなかった
・奴隷は単なる貧乏人とは違って、生命維持という肉体上の必然に加えて、人間による暴力の支配を受けるという二重の不幸に甘んじねばばらず、自由人にとっては、安定した所得と結びついた奉仕義務は、自由を制限するものと感じられていた
・ポリス以前の暴力による強制状態は、17世紀の思想家達が呼ぶ「自然状態」とは全然違っている、というのは、彼らは「国家はこれはこれで、一切の暴力と権力を独占し、「万人をひとしなみに恐れさせておく」ことにより、「万人に対する万人の戦争」終息させるからである。」と考えていたからであろう
・(⇒著者はポリス以前の人間社会を、人間の条件の視点から推定して記述しようとしているのに対して、ホッブズ等の言う人間の「自然状態」は国家権力の正当性を主張するためのイデオロギー、あるいは捏造されたフィクションである、と言っているのでは)
・現代人は、支配-被支配、権力-国家―統治といった概念の組み合わせこそ、政治的なものだと解しているが、そのような政治秩序の概念の総体は、かつては逆に、ポリス以前と見なされていた
・ポリスにおいては同等の者のみが存在し、家政の秩序は同等でないことに基づいていた、つまり同等とは、自分と同等なものとのみ係わりを持つことだったから、われわれのイメージする平等とは殆ど共通性を持たない。同等は、近代になると、正義の要求である平等を意味することになるが、古代においては逆に、つまり平等でないことが前提されている自由というものの本質をなすものだった
・政治は社会の一機能に過ぎず、行為、言論、思考は、社会的利害関心の上部構造をなす、とする見方は、マルクスの発見でも捏造でもなく、近代においては疑うことの困難な公理と化した前提の一つに過ぎない(⇒公的領域であるはずの政治は、ポリス社会においては私的領域である家政とみなされるであろう<社会>の一機能に成り下がっている)
・近代における<社会>の成立共に、かつては私的領域に属していた全ての関心事は、今や万人にかかわりのあることとして、「集合的」関心事となった。「かくして現代世界において、この二つの領域は、たがいにたえず入り混じり、一方から他方へ移行し合う。あたかも、不断に流れる生命プロウズスそのものの流れに浮かんでは消える波にすぎないかのように。」
・家政とポリスの間には、日々勇気を持って跨ぎ越えねばならない裂け目があったが、近代において消失した。中世には、この乗り越えるべき裂け目自体は聖と俗の区分によって生じていたが、古代と中世ではその意義も意味も異なっていた
・古代と中世の本質的な相違は、教会が彼岸に結びついていたことに基づいている。その結果、聖の方を公的に等置するのは可能としても、それによって私的領域に押しやられた俗の方は本当の意味での世俗的、つまり公的領域には入りようがなかった。人間の全活動が私的領域に押しやられたのが中世の目立った特徴である
・中世における、人間の全活動の私的性格化は、あらゆる人間関係の私的性格化をもたらし、その影響は中世都市の職業組織(⇒商人組合のギルドや手工業者組合のツンフト)や初期の商業組合(カンパニー、一緒にパンを食べる人達)にまで溯ることが出来る
・「共通善」(⇒支配の正統性の根拠とされる政治思想の一つ)という中世の概念は、公的に政治的な領域の存在を表すのでは全くなくて、人々が皆、次のことを承認していたことの証しである。つまり、私人は共通の利害を持ちうる、その利害は精神的なものでも物質的なものでもよい、各個人がひたすら自分自身の関心事に専念できるのは彼らのうちの誰か一人が万人に共通する利害の面倒を見ることを引きうける、ということ、これである
・「共通善」の承認は本質的にキリスト教的な態度(⇒中世の政治的態度+全ての人間活動が私的領域に押しやられている)であるのだが、この態度が近代の態度と区別される根拠は「共通善」が承認されているか否かではなく、むしろ私的領域の排他的独占と、われわれが現在<社会>と呼んでいる奇妙な中間領域の欠如である
・公的領域と私的領域の中間にあって、私的利害に公的意義が帰されている領域こそが、われわれが<社会>と呼んでいるものである
・トロイヤ戦争のような冒険に乗り出す時のように、ポリス的空間に乗り込もうとするものは誰でも、何よりも先ず、自分自身の生命を危険にさらす用意がなければならなかった。命にむやみに執着するのは奴隷根性の証拠と見なされた(⇒原注に、古代の奴隷についての解説が記載されている)。かくして勇気は、ポリス的枢要徳とされた
・ギリシャ思想は、ギリシャ人の政治意識の根底に存し、公私の区分立てを比類なき明晰さと精確さで表現した。生活の糧や生命プロセスの維持という目的に仕えるだけの活動は、公的空間に現れることを認められなかった。その結果、アテナイは事実上、「消費者プロレタリアート」の住む「年金生活者の都市」と化した
・アリストテレスはポリスの生を、「正しく善く生きること」と呼んだが、生が「善い」と呼べるには、生活の必然から解放され、生存本能をある意味で克服した結果、生命プロセスの奴隷に成り下がった状態から相当程度抜け出ることに成功する限りであった
・しかし一方、ポリスと家政を隔てる境界がすでにぼやけ始めてもいることは、プラトンがポリスに関する対比や例示を私生活からの具体例をもって好んで示していることからも覗える
・「善く生きること」を目指すという点においての、ソクラテス学派の教えは、その動機こそ公的生の重荷から解放されたいという願望にあったが、この願望を正当化するには、自由なポリス的生ですら家政的生の必然の支配に服していることを示さねばならなかった(⇒ヘーゲルの言う普遍と個別の弁証法の元ネタか)
・ソクラテス学派のこの教えは、当時としては全く革命的な考え方だった(⇒人間に内在する実存に価値を認める考え方において)。ポリス市民にとっては、家政の領域内に生きることの唯一の存在理由は、ポリスのうちで「善く生きること」だったからである

2019年3月7日木曜日

3月7日(木) アーレント『活動的生』⑤第二章 公的なものの空間と、私的なものの領域 4 人間は社会的動物か、それとも政治的動物か

ハンナ・アーレント『活動的生』(森一郎訳、みすず書房)

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バレリーナ


第二章 公的なものの空間と、私的なものの領域

4 人間は社会的動物か、それとも政治的動物か

この節の一言⇒節の標題と同じ

この節では、古代ギリシャのポリスにおけるポリス的生き方が記述される。記述する視点は活動的生の三契機、とりわけ<行為>の部分である。著者は、歴史上のある条件のもとで出現した古代ギリシャ市民のポリス的生活に、活動的生の<行為>が顕現していることを発見したのだろうと思う(⇒その記述された内容はにわかに信じられないと同時に憧れさえ抱きそうになる)。ローマ時代になると、古代ギリシャ市民にとっての政治的生き方は、ローマ人にとっては社会的生き方と同じようなものと理解されていく。



・アリストテレスの人間規定「人間とはポリス的生き物である」のセネカのラテン語訳では「ポリス的生き物」が「社会的動物」となる。最終的にはトマスは「ポリス的」=「社会的」と記述する

・「社会的」という言葉はラテン語にしかなく、それに相当するものはギリシャ人の言語にも思想にもない

・ラテン語の「社会的」という語には、初めは限定的にであったが政治的意味が含まれており、後に「社会的」であること、すなわち社会の中で生きることは人間の本性に属すると考えられるようになった

・ギリシャ人は、ラテン語の「社会的」という意味を人間的なものに特有な基本条件の一つとは考えられず、動物として共通のものと考えていた

・ギリシャ人にとっては、政治的組織を作る能力は、家を中心にして営まれる自然的共生と区別されるだけではなく対立したものであった

・アリストテレスによれば、ポリスの創設は自然的な部族団体をすっかり解消した後に行われたのであり、またこれは歴史的事実でもある

・ギリシャ人にとって真にポリス的なものは、行為と言論の二つの活動だけとみなされており、それはプラトン、さらにホロメスの時代にまで溯る

・ギリシャ人にとっては、思考とは言論から生じるものでその逆ではなく、言論と行為とは等根源的なものであった。しかるべき瞬間にしかるべき言葉を見出すということ自体が、すでに行為だからである。「沈黙しているのは暴力だけである。つまり、口がきけないから暴力をふるうのだ」

・プラトンに始まる政治哲学にしても、ポリスの言語本位の経験世界から生まれた。ところが、次第に行為と言論は切り離されていって、眼前の出来事に対する応答や抵抗時の際立ったやり方であった言論が、説得手段としての弁論となった

・ギリシャ人にとっては他者を説得する代わりに命令すること、説得に代わって暴力で強制することは、ポリス以前の人間関係のあり方であった

・ポリス以外の生活、つまり家や家庭の生活では、家長は家や家庭に属するものに対して専制的な権力を行使した

・ギリシャ人にとっては、アジアの野蛮な帝国は、家の場合と同じに考えられた

・アリストテレスは、人間は政治的動物であると規定したが、その拠り所の経験はポリスの生活の経験であり、人間的共生の自然領域の外側であった

・アリストテレスのもう一つの著名な人間規定に、「人間とはロゴスを持つ生き物である」というのがあって、ラテン語では「人間は理性的動物である」と訳されているが、この訳は社会的動物という概念と同じく根本的な誤解に基づいている。なぜなら、アリストテレスにとって人間の最高の能力とは、語りつつ議論し、議論しつつ思考すること、ではなくて、観想の能力であったからである

・アリストテレスの人間規定だと一般に信じられているものは、実はポリスの住人であるかぎりでの人間の本質に関する、ポリス住民のありふれた見解にすぎない。奴隷や野蛮人は

「ロゴスを欠いている」人々という言葉で呼ばれたが、これはポリスの外で生活する、語ること自体が無意味である人々という意味である

2019年3月6日水曜日

ダーウィン『種の起源』 近代科学の典型的な合理的思考法を原点に戻って学んでみよう。結果だけ知ったつもりになってもさして意味は無い

「進化論」という「論」自体やその影響については、今日でもよく話題になるので、それのもととなったダーウィン『種の起源』を読んでみた。著者の頭に詰め込まれている厖大な知識の脈絡を追うのは結構大変。私の興味は個々の事実ではなくて、どうしてダーウインがそう考えるに至ったのかを知る気分になることだが、それでもそれなりに集中しないと分からない。当たり前だが、ダーウインの記憶力と推理力は抜群だ。
あゆみ

  1859年に出版された本書の結論だけを書けばとても簡単、いわゆる自然淘汰説だ。一番基本は、生物もまた自然の法則に従っているということ、つまり神が創ったのではないこと(当時は聖書の記述にしたがって、生物は種ごとに神が創ったと信じられていたらしい)。次には、よく「進化論」と呼ばれている考え方で、生き物は、長い時間をかけて、自然淘汰の作用による変化伴う由来をもっているということ。ここで、自然淘汰の作用とは、生存競争によって世代を重ねるにつれて生き残っていくグループとそうでないグループが生じてくることを言う。そのことは、生物の諸器官にしろ行動様式にしろ、進化の個々の段階においては個々の生物グループにとって有益なものであると見なせること、またごくわずかではあってもそれらは変異を生じるうること、有益な変異が子孫に継承されること、などが認められれば、生物史を貫く法則であろうと推論が出来る。

  ダーウインの推論は、観察と実験から得られた数多の事実に基づいた合理的な思考によるものだ。この数多の事実はどうやって見つけたのかと言えば、自分で直接行ったものもあるし、当時の学者やナチュラリストや育種家などが行った厖大な蓄積の中から、合理的な意図によって選別したのだろう。観察や実験(人工的育種も含めて)の動機は、学者やナチュラリストにとっては新種の発見自体などに、育種家は有用な植物や動物を創り出すことなどにあったのだろう。

  厖大な知見に基づいた推論を追っていくのも本書を読む一つの醍醐味ではあろうが、合理的な意図とか、事実自体が何であるかとか、事実と事実の関係に潜む規則の推定等々は容易ではない。特に、私のように、虫や魚や鳥等々の身体の部位やその性質や行動様式について知らないばかりか、あまり考えたことのない人にとっては尚更である。しかし、ダーウインの残した業績は後の生物研究に重要な指針を与え、また、普通の人々にとっては大いなる誤解を含めて重要な影響を与えていることは理解できる。

  界⇒門⇒綱⇒目⇒科⇒属⇒種⇒亜種⇒変種⇒品種⇒亜品種、という分類は右から左へ生物の由来を溯った体系を示している。例えば、ヒトの分類学的位置づけは、動物界、脊椎動物門、哺乳類綱、霊長目、ヒト科、ヒト属、ヒト(種)となる(現世の人類はホモ・サピエンス・サピエンス)。一つの生き物は、壮大なピラミッド式体系の一つに位置づけられた。生物の分類は身体の形式や行動様式や稔性等々に基づいていたが、そのそれぞれが由来を持つ変化の結果であることが判明することで、一つの体系となった。しかも何故、生物のグループが連続ではなくて区分できるのかも理解できる。つまり、変異で生じた中間的グループが、自然淘汰によって絶滅したからである、と。そのことは生命の化石が見つかる数億年前からの地質学的知見によって、ほんの一部だけ確かめられ、もっと確かめたければそれはこれからも果てしなく続くだろう。よく、進化論によれば人間の祖先は猿だったと言う人がいるが、本書を読めば不正確な表現であることがわかる。そういう人には、何故「目」というところで先祖が停止していると思うか、と訊ねるのがいいと思う。

  最後に、最終章(14章 要約と結論)で述べられているダーウインの推論のうちで二つを紹介する。一つは妥当でもう一つは問題であると思う。一つは「生物を変化させる原因の中で最も重要なのは、物理的条件の変化、それも恐らく物理的条件の突然の変化とはほぼ無関係である。」という推論(種の創世説への反論のようだが)。この推論は、人間の心が関係性の中で変化しうることの身体論的説明として妥当だろう。もう一つは「遠い将来を見通すと、さらにはるかに重要な研究分野開けているのが見える。心理学は新たな基盤の上に築かれることになるだろう。それは、個々の心理的能力や可能性は少しずつ必然的に獲得されたとされる基盤である。やがて人間の起源とその歴史についても光が当てられることだろう。」という推論。この推論は、人間の心が自然科学的に解明されるという誤謬推理であろう。この誤謬に気付かなければ重大な問題が発生しかねない。この点に関して言えば、本書より70年ほど前に書かれた『純粋理性批判』(カント著)で指摘されている、人間の理性についての洞察を知ることがとても大切だと思う。

3月6日(水) ダーウイン『種の起源』【感想】ダーウインだって推理しすぎると当然間違えるよね

ダーウイン『種の起源』(上・下)渡辺政隆訳 光文社文庫
芳純

【感想文】
「進化論」という「論」自体やその影響については、今日でもよく話題になるので、それのもととなったダーウィン『種の起源』を読んでみた。文庫本上下二冊だが、著者の頭に詰め込まれている厖大な知識の脈絡を追うのは結構大変。私の興味は個々の事実ではなくて、どうしてダーウインがそう考えるに至ったのかを知る気分になることだが、それでもそれなりに集中しないと分からない。当たり前だが、ダーウインの記憶力と推理力は抜群だ。
1859年に出版された本書の結論だけを書けばとても簡単、いわゆる自然淘汰説だ。一番基本は、生物もまた自然の法則に従っているということ、つまり神が創ったのではないこと(当時は聖書の記述にしたがって、生物は種ごとに神が創ったと信じられていたらしい)。次には、よく「進化論」と呼ばれている考え方で、生き物は、長い時間をかけて、自然淘汰の作用による変化伴う由来をもっているということ。ここで、自然淘汰の作用とは、生存競争によって世代を重ねるにつれて生き残っていくグループとそうでないグループが生じてくることを言う。そのことは、生物の諸器官にしろ行動様式にしろ、進化の個々の段階においては個々の生物グループにとって有益なものであると見なせること、またごくわずかではあってもそれらは変異を生じるうること、有益な変異が子孫に継承されること、などが認められれば、生物史を貫く法則であろうと推論が出来る。
ダーウインの推論は、観察と実験から得られた数多の事実に基づいた合理的な思考によるものだ。この数多の事実はどうやって見つけたのかと言えば、自分で直接行ったものもあるし、当時の学者やナチュラリストや育種家などが行った厖大な蓄積の中から、合理的な意図によって選別したのだろう。観察や実験(人工的育種も含めて)の動機は、学者やナチュラリストにとっては新種の発見自体などに、育種家は有用な植物や動物を創り出すことなどにあったのだろう。厖大な知見に基づいた推論を追っていくのも本書を読む一つの醍醐味ではあろうが、合理的な意図とか、事実自体が何であるかとか、事実と事実の関係に潜む規則の推定等々は容易ではない。特に、私のように、虫や魚や鳥等々の身体の部位やその性質や行動様式について知らないばかりか、あまり考えたことのない人にとっては尚更である。しかし、ダーウインの残した業績は後の生物研究に重要な指針を与え、また、普通の人々にとっては大いなる誤解を含めて重要な影響を与えていることは理解できる。
買った本につていた栞の系統図は、界⇒門⇒綱⇒目⇒科⇒属⇒種⇒亜種⇒変種⇒品種⇒亜品種、という分類だが、この図は右から左へ生物の由来を溯った体系を示している。例えば、ヒトの分類学的位置づけは、動物界、脊椎動物門、哺乳類綱、霊長目、ヒト科、ヒト属、ヒト(種)となる(現世の人類はホモ・サピエンス・サピエンス)。一つの生き物は、壮大なピラミッド式体系の一つに位置づけられた。生物の分類は身体の形式や行動様式や稔性等々に基づいていたが、そのそれぞれが由来を持つ変化の結果であることが判明することで、一つの体系となった。しかも何故、生物のグループが連続ではなくて区分できるのかも理解できる。つまり、変異で生じた中間的グループが、自然淘汰によって絶滅したからである、と。そのことは生命の化石が見つかる数億年前からの地質学的知見によって、ほんの一部だけ確かめられ、もっと確かめたければそれはこれからも果てしなく続くだろう。
よく、進化論によれば人間の祖先は猿だったと言う人がいるが、本書を読めば不正確な表現であることがわかる。そういう人には、何故上記の図の「目」というところで先祖が停止していると思うか、と訊ねるのがいいと思う。
最後に、最終章(14章 要約と結論)で述べられているダーウインの推論のうちから、次の二つを紹介する。一つは妥当でもう一つは問題であると思う。一つは、生物を変化させる原因の中で最も重要なのは、生物同士の関係であって「物理的条件の変化、それも恐らく物理的条件の突然の変化とはほぼ無関係である。」という推論(種の創世説への反論のようだが)。この推論は、人間の心が関係性の中で変化しうることの身体論的説明として妥当だろう。もう一つは「遠い将来を見通すと、さらにはるかに重要な研究分野開けているのが見える。心理学は新たな基盤の上に築かれることになるだろう。それは、個々の心理的能力や可能性は少しずつ必然的に獲得されたとされる基盤である。やがて人間の起源とその歴史についても光が当てられることだろう。」という推論。この推論は、人間の心が自然科学的に解明されるという誤謬推理であろう。この誤謬に気付かなければ重大な問題が発生しかねない。この点に関して言えば、本書より70年ほど前に書かれた『純粋理性批判』(カント著)で指摘されている、人間の理性についての洞察を知ることがとても大切だと思う。