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1946年9月、焦土と化した東京都内にて、食糧難と住宅難と就職難の中、運良く生き抜いた両親の新しき時代の一発目として生を受けるも、一年未満で感染症にて死にかける。生き延びたのは、ご近所に住む朝鮮人女性のもらい乳と父親がやっと手にした本の印税全部を叩いて進駐軍から手に入れたペニシリンのおかげであったらしい。ここまでは当然記憶にない。記憶になくても疑えないことである。 物心がついた頃には理系少年になっていた。それが何故なのか定かではないが、誤魔化しうるコトバより、誤魔化しえない数や図形に安堵を覚えたのかもしれない。言葉というものが、単なる記号ではなく、実は世界を分節し、意味と価値の認識それ自体をも可能にするものであることに気付きはじめたのは50歳を過ぎてからであった。 30年間程の企業勤めの後、現在は知の世界に遊ぶ自称哲学徒、通称孫が気になる普通の爺~じ。ブログには庭で育てている薔薇の写真も載せました。

2019年3月6日水曜日

ダーウィン『種の起源』 近代科学の典型的な合理的思考法を原点に戻って学んでみよう。結果だけ知ったつもりになってもさして意味は無い

「進化論」という「論」自体やその影響については、今日でもよく話題になるので、それのもととなったダーウィン『種の起源』を読んでみた。著者の頭に詰め込まれている厖大な知識の脈絡を追うのは結構大変。私の興味は個々の事実ではなくて、どうしてダーウインがそう考えるに至ったのかを知る気分になることだが、それでもそれなりに集中しないと分からない。当たり前だが、ダーウインの記憶力と推理力は抜群だ。
あゆみ

  1859年に出版された本書の結論だけを書けばとても簡単、いわゆる自然淘汰説だ。一番基本は、生物もまた自然の法則に従っているということ、つまり神が創ったのではないこと(当時は聖書の記述にしたがって、生物は種ごとに神が創ったと信じられていたらしい)。次には、よく「進化論」と呼ばれている考え方で、生き物は、長い時間をかけて、自然淘汰の作用による変化伴う由来をもっているということ。ここで、自然淘汰の作用とは、生存競争によって世代を重ねるにつれて生き残っていくグループとそうでないグループが生じてくることを言う。そのことは、生物の諸器官にしろ行動様式にしろ、進化の個々の段階においては個々の生物グループにとって有益なものであると見なせること、またごくわずかではあってもそれらは変異を生じるうること、有益な変異が子孫に継承されること、などが認められれば、生物史を貫く法則であろうと推論が出来る。

  ダーウインの推論は、観察と実験から得られた数多の事実に基づいた合理的な思考によるものだ。この数多の事実はどうやって見つけたのかと言えば、自分で直接行ったものもあるし、当時の学者やナチュラリストや育種家などが行った厖大な蓄積の中から、合理的な意図によって選別したのだろう。観察や実験(人工的育種も含めて)の動機は、学者やナチュラリストにとっては新種の発見自体などに、育種家は有用な植物や動物を創り出すことなどにあったのだろう。

  厖大な知見に基づいた推論を追っていくのも本書を読む一つの醍醐味ではあろうが、合理的な意図とか、事実自体が何であるかとか、事実と事実の関係に潜む規則の推定等々は容易ではない。特に、私のように、虫や魚や鳥等々の身体の部位やその性質や行動様式について知らないばかりか、あまり考えたことのない人にとっては尚更である。しかし、ダーウインの残した業績は後の生物研究に重要な指針を与え、また、普通の人々にとっては大いなる誤解を含めて重要な影響を与えていることは理解できる。

  界⇒門⇒綱⇒目⇒科⇒属⇒種⇒亜種⇒変種⇒品種⇒亜品種、という分類は右から左へ生物の由来を溯った体系を示している。例えば、ヒトの分類学的位置づけは、動物界、脊椎動物門、哺乳類綱、霊長目、ヒト科、ヒト属、ヒト(種)となる(現世の人類はホモ・サピエンス・サピエンス)。一つの生き物は、壮大なピラミッド式体系の一つに位置づけられた。生物の分類は身体の形式や行動様式や稔性等々に基づいていたが、そのそれぞれが由来を持つ変化の結果であることが判明することで、一つの体系となった。しかも何故、生物のグループが連続ではなくて区分できるのかも理解できる。つまり、変異で生じた中間的グループが、自然淘汰によって絶滅したからである、と。そのことは生命の化石が見つかる数億年前からの地質学的知見によって、ほんの一部だけ確かめられ、もっと確かめたければそれはこれからも果てしなく続くだろう。よく、進化論によれば人間の祖先は猿だったと言う人がいるが、本書を読めば不正確な表現であることがわかる。そういう人には、何故「目」というところで先祖が停止していると思うか、と訊ねるのがいいと思う。

  最後に、最終章(14章 要約と結論)で述べられているダーウインの推論のうちで二つを紹介する。一つは妥当でもう一つは問題であると思う。一つは「生物を変化させる原因の中で最も重要なのは、物理的条件の変化、それも恐らく物理的条件の突然の変化とはほぼ無関係である。」という推論(種の創世説への反論のようだが)。この推論は、人間の心が関係性の中で変化しうることの身体論的説明として妥当だろう。もう一つは「遠い将来を見通すと、さらにはるかに重要な研究分野開けているのが見える。心理学は新たな基盤の上に築かれることになるだろう。それは、個々の心理的能力や可能性は少しずつ必然的に獲得されたとされる基盤である。やがて人間の起源とその歴史についても光が当てられることだろう。」という推論。この推論は、人間の心が自然科学的に解明されるという誤謬推理であろう。この誤謬に気付かなければ重大な問題が発生しかねない。この点に関して言えば、本書より70年ほど前に書かれた『純粋理性批判』(カント著)で指摘されている、人間の理性についての洞察を知ることがとても大切だと思う。

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