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1946年9月、焦土と化した東京都内にて、食糧難と住宅難と就職難の中、運良く生き抜いた両親の新しき時代の一発目として生を受けるも、一年未満で感染症にて死にかける。生き延びたのは、ご近所に住む朝鮮人女性のもらい乳と父親がやっと手にした本の印税全部を叩いて進駐軍から手に入れたペニシリンのおかげであったらしい。ここまでは当然記憶にない。記憶になくても疑えないことである。 物心がついた頃には理系少年になっていた。それが何故なのか定かではないが、誤魔化しうるコトバより、誤魔化しえない数や図形に安堵を覚えたのかもしれない。言葉というものが、単なる記号ではなく、実は世界を分節し、意味と価値の認識それ自体をも可能にするものであることに気付きはじめたのは50歳を過ぎてからであった。 30年間程の企業勤めの後、現在は知の世界に遊ぶ自称哲学徒、通称孫が気になる普通の爺~じ。ブログには庭で育てている薔薇の写真も載せました。

2019年3月10日日曜日

3月10日(日) アーレント『活動的生』⑥第二章 公的なものの空間と、私的なものの領域 5 ポリスと家政

ハンナ・アーレント『活動的生』(森一郎訳、みすず書房)

「 」内は本文引用、< >内はアーレントのキーワード(必要に応じて)
ベルサイユの薔薇

第二章 公的なものの空間と、私的なものの領域

5 ポリスと家政

この節の一言⇒古代のギリシャに公私の区分の源流を訊ねて

私的と公的という二つの領域を区分するという意識や思想および、この区分立てに基づく生活空間は、少なくとも古代都市国家の開始から現在に至るまで存在してきた。それ以前、あるいは古代都市国家の外にも当然に社会は存在しただろうが、そこには生きるための必然が強制する暴力の支配する世界、あるいは別の言い方をすれば全てが私的な空間であっただろう。
しかし、この二つの区分立ての内実は歴史と共に変遷し、近代以降においては、古代ギリシャにおいては公理のごとく当然とされていたこの区分立てを理解することすら異常に困難になっている。そのことを理解するためのキーワードは、公的と私的の二つの領域とは別に出現してきたもう一つの領域、<社会>という中間的領域の概念である。近代においては、ギリシャのポリスとは逆に、政治は社会の一機能であるということが公理と化した前提の一つにすぎなくなっている。
古代ギリシャにおいては、公的空間は「ポリス的なものの空間」であり、そこでの活動は「万人に共通な世界に定位した活動」であり、自由の概念はこの空間において成立するものであった。私的空間は「家政の領域」であり、そこでの活動は「生命の維持に奉仕する活動」であり、必然の概念はこの空間において成立するものであった。

・政治的なものを社会的なものと同一視すると言う誤解は、ギリシャ語の概念がキリスト教的思想に適合させられたことと同じだけ古いが、近代以降に<社会>という近代的概念が生じたことが事態を一層決定的に複雑化した
・近代の開始以来、いかなる人民組織も政治共同体も、大きく成長した家政機構のイメージで捉えられ、そのイメージを対象とする科学的思考はもはや政治学ではなくて国民経済学もしくは社会経済学と呼ばれている
・都市国家は私的なものの犠牲の上に生じたのだろうが、そのことが徹底していた古代ギリシャにおいてさえ、市民の私的領域はポリスによる破壊から守られていた。「なぜなら、自分自身のものと本当に呼べる場所がなければ、共通世界のどこにも場所を持たないに等しいからである。」
・古代ギリシャでは、家政において生活の必要を賄うことがポリスにおいて自由を手に入れるための条件であったから、政治とは、社会の安寧のために必要であると解することは到底出来るはずがなかった
・前記の社会とは、中世では信仰者の社会、ロックでは有産者の社会、ホッブズでは営利社会、マルクスでは生産者の社会、現代の西側諸国では定職者の社会、社会主義や共産主義の社会では労働者の社会である
・前記のいずれの事例でも、政治が持つ権力を制限することを正当化するのは社会の自由であり、そこでは自由が社会的なものに位置づけられ、強制や暴力は政治的なものに場所を指定され、かくして国家の独占物となる
・ギリシャの哲学者たちは、強制と暴力は私的領域ででのみ正当化されると考えていたが、それは、例えば奴隷を支配するという暴力を行使してこそ、人間は生きている限り押しつけられる必然から解放されて、世界の自由へと赴くことが出来るからであった
・古代ギリシャ人にとっては、この世界の自由とは、彼らが幸福(エウダイモニア)と呼んだものにとっての条件でり、それは世界における客観的状態を全体的に形づくるもの、つまり健康や裕福と、どうしても結びついていなければならなかった
・奴隷は単なる貧乏人とは違って、生命維持という肉体上の必然に加えて、人間による暴力の支配を受けるという二重の不幸に甘んじねばばらず、自由人にとっては、安定した所得と結びついた奉仕義務は、自由を制限するものと感じられていた
・ポリス以前の暴力による強制状態は、17世紀の思想家達が呼ぶ「自然状態」とは全然違っている、というのは、彼らは「国家はこれはこれで、一切の暴力と権力を独占し、「万人をひとしなみに恐れさせておく」ことにより、「万人に対する万人の戦争」終息させるからである。」と考えていたからであろう
・(⇒著者はポリス以前の人間社会を、人間の条件の視点から推定して記述しようとしているのに対して、ホッブズ等の言う人間の「自然状態」は国家権力の正当性を主張するためのイデオロギー、あるいは捏造されたフィクションである、と言っているのでは)
・現代人は、支配-被支配、権力-国家―統治といった概念の組み合わせこそ、政治的なものだと解しているが、そのような政治秩序の概念の総体は、かつては逆に、ポリス以前と見なされていた
・ポリスにおいては同等の者のみが存在し、家政の秩序は同等でないことに基づいていた、つまり同等とは、自分と同等なものとのみ係わりを持つことだったから、われわれのイメージする平等とは殆ど共通性を持たない。同等は、近代になると、正義の要求である平等を意味することになるが、古代においては逆に、つまり平等でないことが前提されている自由というものの本質をなすものだった
・政治は社会の一機能に過ぎず、行為、言論、思考は、社会的利害関心の上部構造をなす、とする見方は、マルクスの発見でも捏造でもなく、近代においては疑うことの困難な公理と化した前提の一つに過ぎない(⇒公的領域であるはずの政治は、ポリス社会においては私的領域である家政とみなされるであろう<社会>の一機能に成り下がっている)
・近代における<社会>の成立共に、かつては私的領域に属していた全ての関心事は、今や万人にかかわりのあることとして、「集合的」関心事となった。「かくして現代世界において、この二つの領域は、たがいにたえず入り混じり、一方から他方へ移行し合う。あたかも、不断に流れる生命プロウズスそのものの流れに浮かんでは消える波にすぎないかのように。」
・家政とポリスの間には、日々勇気を持って跨ぎ越えねばならない裂け目があったが、近代において消失した。中世には、この乗り越えるべき裂け目自体は聖と俗の区分によって生じていたが、古代と中世ではその意義も意味も異なっていた
・古代と中世の本質的な相違は、教会が彼岸に結びついていたことに基づいている。その結果、聖の方を公的に等置するのは可能としても、それによって私的領域に押しやられた俗の方は本当の意味での世俗的、つまり公的領域には入りようがなかった。人間の全活動が私的領域に押しやられたのが中世の目立った特徴である
・中世における、人間の全活動の私的性格化は、あらゆる人間関係の私的性格化をもたらし、その影響は中世都市の職業組織(⇒商人組合のギルドや手工業者組合のツンフト)や初期の商業組合(カンパニー、一緒にパンを食べる人達)にまで溯ることが出来る
・「共通善」(⇒支配の正統性の根拠とされる政治思想の一つ)という中世の概念は、公的に政治的な領域の存在を表すのでは全くなくて、人々が皆、次のことを承認していたことの証しである。つまり、私人は共通の利害を持ちうる、その利害は精神的なものでも物質的なものでもよい、各個人がひたすら自分自身の関心事に専念できるのは彼らのうちの誰か一人が万人に共通する利害の面倒を見ることを引きうける、ということ、これである
・「共通善」の承認は本質的にキリスト教的な態度(⇒中世の政治的態度+全ての人間活動が私的領域に押しやられている)であるのだが、この態度が近代の態度と区別される根拠は「共通善」が承認されているか否かではなく、むしろ私的領域の排他的独占と、われわれが現在<社会>と呼んでいる奇妙な中間領域の欠如である
・公的領域と私的領域の中間にあって、私的利害に公的意義が帰されている領域こそが、われわれが<社会>と呼んでいるものである
・トロイヤ戦争のような冒険に乗り出す時のように、ポリス的空間に乗り込もうとするものは誰でも、何よりも先ず、自分自身の生命を危険にさらす用意がなければならなかった。命にむやみに執着するのは奴隷根性の証拠と見なされた(⇒原注に、古代の奴隷についての解説が記載されている)。かくして勇気は、ポリス的枢要徳とされた
・ギリシャ思想は、ギリシャ人の政治意識の根底に存し、公私の区分立てを比類なき明晰さと精確さで表現した。生活の糧や生命プロセスの維持という目的に仕えるだけの活動は、公的空間に現れることを認められなかった。その結果、アテナイは事実上、「消費者プロレタリアート」の住む「年金生活者の都市」と化した
・アリストテレスはポリスの生を、「正しく善く生きること」と呼んだが、生が「善い」と呼べるには、生活の必然から解放され、生存本能をある意味で克服した結果、生命プロセスの奴隷に成り下がった状態から相当程度抜け出ることに成功する限りであった
・しかし一方、ポリスと家政を隔てる境界がすでにぼやけ始めてもいることは、プラトンがポリスに関する対比や例示を私生活からの具体例をもって好んで示していることからも覗える
・「善く生きること」を目指すという点においての、ソクラテス学派の教えは、その動機こそ公的生の重荷から解放されたいという願望にあったが、この願望を正当化するには、自由なポリス的生ですら家政的生の必然の支配に服していることを示さねばならなかった(⇒ヘーゲルの言う普遍と個別の弁証法の元ネタか)
・ソクラテス学派のこの教えは、当時としては全く革命的な考え方だった(⇒人間に内在する実存に価値を認める考え方において)。ポリス市民にとっては、家政の領域内に生きることの唯一の存在理由は、ポリスのうちで「善く生きること」だったからである

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