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1946年9月、焦土と化した東京都内にて、食糧難と住宅難と就職難の中、運良く生き抜いた両親の新しき時代の一発目として生を受けるも、一年未満で感染症にて死にかける。生き延びたのは、ご近所に住む朝鮮人女性のもらい乳と父親がやっと手にした本の印税全部を叩いて進駐軍から手に入れたペニシリンのおかげであったらしい。ここまでは当然記憶にない。記憶になくても疑えないことである。 物心がついた頃には理系少年になっていた。それが何故なのか定かではないが、誤魔化しうるコトバより、誤魔化しえない数や図形に安堵を覚えたのかもしれない。言葉というものが、単なる記号ではなく、実は世界を分節し、意味と価値の認識それ自体をも可能にするものであることに気付きはじめたのは50歳を過ぎてからであった。 30年間程の企業勤めの後、現在は知の世界に遊ぶ自称哲学徒、通称孫が気になる普通の爺~じ。ブログには庭で育てている薔薇の写真も載せました。

2021年10月23日土曜日

10月23日(土) 『超加速経済アフリカ』(椿進著 東洋経済)を読んでみた

パスカリ
 本書はアフリカ経済のイメージを根底から覆すものであった。アフリカの広さは中国やアメリカが何個も入るほど広大で、気候は避暑地(軽井沢とか)のように心地よく、平均年齢は二十歳で、経済は半世紀ほど前の日本である、とデータを提示して著者は言う。

避暑地みたいとは、人が沢山住んでいる大きな都市は高地にあるからといわれれば、確かに人類発祥の地アフリカだもんね、と思うし、平均年齢が二十歳なのは近年各種途上国援助で幼児死亡率が激減したからとなれば、なるほど、と思う。

しかし、経済が1970年位の日本と同じくらいの水準(ひとりあたりのGDP )だというのは、にわかには信じられないがデータはそうなっている。もちろん、50カ国以上もあるそうなアフリカの各国ごとに事情は異なるにしても、半世紀ほど前のアフリカと言えば、それまで植民地であった地域が第二次大戦後に形は独立したが統治は不十分で国家間の関係も不安定、内戦・飢餓・疫病等々で悲惨な状況にあって、政治・経済は世界に対してさしたる影響を及ぼしてはいないと、思い込んでいた節がある。日本が30年も経済停滞している間に、世界のグローバルな交流はアフリカの諸国家を現実に変身させつつある。

世界のグローバルな交流が劇的な変化を可能にした理由の一つは技術にあった。間を飛ばして、端的な例をあげれば、庶民が貨幣ではなくスマホで暮らしていることだろう。砂漠の遊牧民もスマホで購入し、海外で働いて得たお金を家族に送るのにもスマホですることができる、つまり銀行がなくても貨幣を持っていなくてもスマホさえあれば庶民は暮らせる。なぜそんなことができるのか、それはアフリカ社会には既得権がないから先進技術が実現できるのだと。

外国の投資については、中華人民共和国が一帯一路がらみのインフラ投資などでダントツ、欧米諸国も先端技術の実験場としても、将来をにらんでそこそこの投資を始めているが、日本は圧倒的に少ないとのこと。欧米は植民地であったアフリカとの繋がりで有利かもしれないが中国はそうではないし、以前の日本は相対的にはそれなりの投資をしていたらしいから、やはり失われたうん十年はここにも現れているのかもね。

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