『雨森芳洲 元禄享保の国際人』(上垣外憲一著、中公新書 1989年)
つるヒストリー |
12月に歴史の会で対馬に行くので参考にと、植村さんが教えてくれた本。寛文8年(1668年)京都の医者の息子として生まれた雨森芳洲は、京都で儒学を学び、15歳で江戸に出て木下順庵門下生として朱子学を学んだ俊英で、21歳で対馬藩に仕えてから88歳で没するまで生涯そこで過ごした、いわば歴史に埋もれた一学者であったと言えるだろう。しかし、実は日本思想史上希有な普遍的思想家・哲学者あった。著者の上垣先生は比較文化・朝鮮交流史の専門家で、芳洲の生涯、基本思想、施策、エピソードを見事に紹介している。
芳洲は、長崎で唐語を学を学び、30歳で対馬藩朝鮮方佐役を拝命し、当時は殆ど無かったネイティブな朝鮮語を学び、1711年と1719年には朝鮮通信使に随行して江戸を往復して日朝外交上重要な役割を果たしていた。しかし、1721年53歳の時にいろいろあったようで朝鮮方佐役を辞任する。その後、30年以上にわたって著作や教育に従事し、82歳から和歌の勉強を志して古今和歌集を1000回読むことをきめて84歳頃にこれを達成した。
対馬ははるか昔から朝鮮と日本の間の関係をとりもってきた場所であり、江戸時代においては、長崎の中国・オランダ貿易、薩摩の琉球貿易と並んで、公認貿易の拠点であった。将軍家宣の時代に幕府に登用されて政策の要をになうこととなった著名な新井白石は11歳年長の同門であったが、雨森芳洲は、対馬藩に仕える語学堪能で便利な外交専門家として重用されるだけであった。しかし、芳洲は、江戸や長崎など日本の中だけで漢学等の学問を学ぶだけではなく、朝鮮外交という仕事を通じて朝鮮・中国などの異文化の人びととの政治・文化・経済的な交流をすることによって、人間・社会に対する深い考察を行った思想家であった。
文化の異なる人びとが、現実の要請に応じて行ってきた交流・交渉の経験が、国や民族を超えて人間一般に通用するような普遍性のある思想を生み出した、希有な日本人の事例であったと言えるのだろう。丁度古代ギリシャにおけるイオニア自然哲学者達のように。
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