自己紹介

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1946年9月、焦土と化した東京都内にて、食糧難と住宅難と就職難の中、運良く生き抜いた両親の新しき時代の一発目として生を受けるも、一年未満で感染症にて死にかける。生き延びたのは、ご近所に住む朝鮮人女性のもらい乳と父親がやっと手にした本の印税全部を叩いて進駐軍から手に入れたペニシリンのおかげであったらしい。ここまでは当然記憶にない。記憶になくても疑えないことである。 物心がついた頃には理系少年になっていた。それが何故なのか定かではないが、誤魔化しうるコトバより、誤魔化しえない数や図形に安堵を覚えたのかもしれない。言葉というものが、単なる記号ではなく、実は世界を分節し、意味と価値の認識それ自体をも可能にするものであることに気付きはじめたのは50歳を過ぎてからであった。 30年間程の企業勤めの後、現在は知の世界に遊ぶ自称哲学徒、通称孫が気になる普通の爺~じ。ブログには庭で育てている薔薇の写真も載せました。

2024年11月9日土曜日

情報技術の発展の生み出す社会は? 東浩紀『一般意思 2.0 ルソー、フロイト、グーグル』の感想文

ハニーブーケ
 ポストモダン風の本(著作者)には余り興味が無いのであまり読まないのだけど、仲間の読書会読書会で採り上げられたので読んでみた感想文。

 多様な価値が共存してグローバルに交流する(SNS等も含む)、いままで経験したことのないような極めて複雑な現代社会では、それを意識的に制御するのは従来のようなやり方・政治ではますます不可能となっていくだろう、と言うのが先ず著者の見立て。だが著者はルソーの「一般意思」を足がかりにして未来の夢を語っていく。ルソーの「一般意思」を現代風にバージョンアップして「一般意思 2.0」として社会に実装することが可能な世界に向かって進んでいるから、と言うのがその理由。またそのような世界においても存在するであろう国家は、国民生活の安全保障を担うだけの小さな存在となっていて、未来の人々は自身の欲望に従って安全に生きることが可能となっていくだろう、と。
 
 その「一般意思 2.0」とは、多様な価値観がそのままで存在しうる、物質と情報によって数値化されうる、つまり公の行為の選択は多様な私の欲望の無意識の合意としての計算結果により無事に決めうる、だから政治もそれに必須のコミュニケーションの必要性が最小となり、だから国家は極小となり、存在根拠が私の「欲望」であるような、新しいユートピアを拓く根本思想なのだ。

  ルソーにたいする著者の理解は面白いが、人は一人では生きることが出来ないとすれば、全世界から一人の世界までの間にある無数の集団に属しているから、それが前提になると、そもそもコミュニケーションも政治も前提されているし、欲望の根拠も怪しくなるのでは、この新しいユートピアでは。なんかつまらなそうな社会だ。

 でも大量破壊兵器で人類が全滅したり,気候変動のおかげで発生する諸災害の不幸を嘆きながらジワジワと全滅したりしない限り、そうなるのかも、あーヤダヤダ。

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