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モッコウバラ |
孫達が読書を好きになりますように♪ 文字通り、読書の日記です。時々感想も書きました。新しく読んだ本だけでなく、昔読んだ本についても思いだして書いてあります。 自分の無知を、読書で埋めることは楽しいですね
自己紹介

- 磯岡豊
- 1946年9月、焦土と化した東京都内にて、食糧難と住宅難と就職難の中、運良く生き抜いた両親の新しき時代の一発目として生を受けるも、一年未満で感染症にて死にかける。生き延びたのは、ご近所に住む朝鮮人女性のもらい乳と父親がやっと手にした本の印税全部を叩いて進駐軍から手に入れたペニシリンのおかげであったらしい。ここまでは当然記憶にない。記憶になくても疑えないことである。 物心がついた頃には理系少年になっていた。それが何故なのか定かではないが、誤魔化しうるコトバより、誤魔化しえない数や図形に安堵を覚えたのかもしれない。言葉というものが、単なる記号ではなく、実は世界を分節し、意味と価値の認識それ自体をも可能にするものであることに気付きはじめたのは50歳を過ぎてからであった。 30年間程の企業勤めの後、現在は知の世界に遊ぶ自称哲学徒、通称孫が気になる普通の爺~じ。ブログには庭で育てている薔薇の写真も載せました。
2025年4月20日日曜日
高坂正堯先生論壇デビュー作「現実主義者の平和論」
2025年4月13日日曜日
『天災から日本史を読みなおす(2014)』磯田道史 中公新書【感想】
ブログの断捨離中で、10年ほど前のをこちらに引っ越しました。
ハニーブーケ |
『武士の家計簿』以来著者のファンである。著者が、歴史は生身の人間の生活から読み解かれるものである、と考えているように思われるからである。そして、古文書を専門的な技術と総合的な知識を駆使して、経験に基づいて解釈するという実に科学的(本来の意味における)な方法によって貫かれているからである。
東日本大震災を契機に書かれた本書は、日本列島において過去に発生した自然災害の歴史も、適切な古文書を探して解読していけば相当なことが判ることを改めて教えてくれた。だが、同時に不幸な歴史は時とともに忘れ去られていくという史実も思い出させてくれた。地震、津波、噴火、異常気象のもたらす異常な風水害、これらは日本列島においては特に頻度も程度も高い。にもかかわらず、過去から学ぶことが出来ずに悲劇が繰り返されるのはなぜだろう?
いま一歩突っ込んで考えれば、誰が学びそれを生かして実行するのか、またそうする動機はなにか?関連して悲劇に見舞われる人々の差異は?等々。本書はこれらの解明の第一歩になると思うが、その次のステップも視野に入っている。
2014年、広島市の八木地区において、そこが「蛇落地」と呼ばれていた場所に作られた団地で発生した大規模な土砂崩れによって多くの犠牲者が出た。このことに関連して、本書で次のように書かれている。「この時代の日本人は技術と経済成長の信者であった。自然はコントロール出来ると、人間優位を驚くほど信じた。土砂崩れにしろ、原発事故にしろ、この時代の思想のツケを後代の我々は、いま払っている。(改行)この地の領主が「自然に勝てる」と思い始めたのは、戦国時代のことであったらしい。・・・」。八木を治めた香川一族の子孫が著した古文書には、先祖が享禄五年(1532年)に大蛇を退治した、と自慢気に書き残されている。町史に載っている「蛇落地観音像」の写真のお顔は慈悲深く「みているうちに、なんともやりきれなくなってきた。」
とても哲学的な政治論の源流。『リヴァイアサン』(ホッブズ)第一部
ブログの断捨離中につき、10年ほど前のをここに引っ越しました。
パスカリ |
その考え方は簡単に言うと次のようになる。人間は、自然状態においては、自身の生命を維持するためには何をしても許されるべきである。だが、人間というものは、相互不信に陥れば恐怖に囚われるものである。よって、自然状態において相互不信に陥れば、各人が各人に対して戦うという状況が起り、互いに殺し合い滅亡する。だからそれを回避するには、生存を保証するルールを守らせるだけの力を持った共通な権力(国家)を作る以外にはない。
注意しなければならないのは、よく引き合いに出される「万人の万人に対する戦い」が政治思想としてホッブズの一番基本的な考え方であると誤解することです。一番基本的な政治思想は「平和を希求すべし」(第一の自然法の基本部分)ということであって、そのことを可能にするものは、人間の理性である、という思想にあります。尚、「万人の万人に対する戦い」という言葉は『リヴァイアサン』ではなく、それより前に書かれた『市民論』に使われています。
やはり読み継がれてきた古典は、自分で原典に触れて、全部では無くても大事な箇所をゆっくりと読むと勉強になります。そこから、他の人の考え(先入見)になるべく惑わされずに、また当時の個別事情に惑わされずに、普遍的なものを読み取るところに面白さがあると思えます。なにしろ時代背景、現実条件が全然違うのですから。付け加えれば、その違いの理解は歴史の知識があればあるだけ深まることは容易に推測できます。
※もう少し詳しく知りたい時には、以下のリンクで別のブログをみてね
2025年4月12日土曜日
床屋談義の域を少し超えようかと、 高坂正堯先生の『国際政治 恐怖と希望』を熟読してみた
はじめに読んだのは、2019年の春頃のkindle版だったが、内容は驚くほど覚えていない。kindleに入っていることすら忘れている。
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ピース |
今回は違う、というのは仲間の読書会の担当者ということになって、昨今の国際情勢を少し理解、といっても床屋談義からちょっと進んだ程度だろうが、と真面目に思い選んだ本だからだ。ところが真面目選んだからにはと真面目に読んでみると記述の意味が不明だ!どうしていそう言えるの、もし高坂先生と質問したら、もう少し勉強してから質問しろ!と言われるに違いない。その通り。国際情勢についての情報や解説はジャーナリズムから洪水のようにあふれ出てくるが、人の話を右から左へと会話することはできても、その意味を考えてみようと勉強したことはないのだから。確かに今まで読んだ好きな哲学書はとても役立つのだが、それだけでは分からない。現実を知らないと言えばそれまでだが、イヤ面白かった。高坂先生の現実主義を考えてみる機会が与えられた。
詳しくはこちらを見てね⇒爺~じの本の要約: 高坂正堯『国際政治 改版---恐怖と希望』中公新書1966年