自己紹介

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1946年9月、焦土と化した東京都内にて、食糧難と住宅難と就職難の中、運良く生き抜いた両親の新しき時代の一発目として生を受けるも、一年未満で感染症にて死にかける。生き延びたのは、ご近所に住む朝鮮人女性のもらい乳と父親がやっと手にした本の印税全部を叩いて進駐軍から手に入れたペニシリンのおかげであったらしい。ここまでは当然記憶にない。記憶になくても疑えないことである。 物心がついた頃には理系少年になっていた。それが何故なのか定かではないが、誤魔化しうるコトバより、誤魔化しえない数や図形に安堵を覚えたのかもしれない。言葉というものが、単なる記号ではなく、実は世界を分節し、意味と価値の認識それ自体をも可能にするものであることに気付きはじめたのは50歳を過ぎてからであった。 30年間程の企業勤めの後、現在は知の世界に遊ぶ自称哲学徒、通称孫が気になる普通の爺~じ。ブログには庭で育てている薔薇の写真も載せました。

2025年4月20日日曜日

高坂正堯先生論壇デビュー作「現実主義者の平和論」

このデビュー作は1963年というから30歳頃のもの。寅さん風に言えばさしずめアンタ、インテリだね、の論壇知識人と言えば現実主義の反対、つまり理想主義の方々のような気がするが、理系少年であった私は、その筋の本は読んだこともなかったからそれが誰だったのかはあまり覚えていない。しかし、毎日配達されてくる新聞は朝日新聞、オヤジが毎月買ってくるのが文藝春秋なので、世間一般の思想的風潮は何となく感じ取っていて、それは日本国の平和憲法擁護に代表されるような理想主義的風潮だったと思う。
モッコウバラ

先日このブログで書いた、『国際政治 恐怖と希望』はもう少しあとの著作だが、「理想主義」の危うさを批判し「現実主義」(リアリズム)を説いている。
ところで、国際政治や国際平和をリアリズム抜きに考えることに意味があるのだろうか?と考えてみれば、現実主義者の平和論、とわざわざ言う理由を推察できそうだ。カントも「理性の誤謬推理」を指摘しているし、フッサールもで、「まず現象の記述からはじめよ」(『現象学の理念』)と言っているし、あっこれは直接関係ないけどそう思う。
高坂先生は、世界に冠たる平和憲法の特に憲法9条の非武装条項は日本が追求すべき絶対平和という価値であると評価し、非武装中立論も国家の価値の問題を組み入れているところを評価している。でもそれは、理想主義ではなく現実主義に基づいたものであるところが肝となっている。ここで、国家の価値というコトバが高坂先生の考え方というか歴史観のキーワードであることが読み取れる。それは56歳の頃の講演録(『歴史としての二十世紀』2023年)に、異なる文明との遭遇の箇所で「それぞれの国の国民あるいは民族には、一般的な精神があり、それから離れるとその国民・民族の能力は落ちてしまう・・・」という記述にあるように、各国家には、チョット危ういニュアンスと本人が仰っているけど「民族の精神」という価値があると述べられていることから明らかだ。だが、同時に各国に共通な普遍的な価値あるいは正義は無くなりそうだが、この問題を説くには、言い換えれば世界平和を望むなら、理想主義では無くて現実主義でなければならない、ということなのでしょう。

2025年4月13日日曜日

『天災から日本史を読みなおす(2014)』磯田道史 中公新書【感想】


ブログの断捨離中で、10年ほど前のをこちらに引っ越しました。

ハニーブーケ

『武士の家計簿』以来著者のファンである。著者が、歴史は生身の人間の生活から読み解かれるものである、と考えているように思われるからである。そして、古文書を専門的な技術と総合的な知識を駆使して、経験に基づいて解釈するという実に科学的(本来の意味における)な方法によって貫かれているからである。

 東日本大震災を契機に書かれた本書は、日本列島において過去に発生した自然災害の歴史も、適切な古文書を探して解読していけば相当なことが判ることを改めて教えてくれた。だが、同時に不幸な歴史は時とともに忘れ去られていくという史実も思い出させてくれた。地震、津波、噴火、異常気象のもたらす異常な風水害、これらは日本列島においては特に頻度も程度も高い。にもかかわらず、過去から学ぶことが出来ずに悲劇が繰り返されるのはなぜだろう?

 いま一歩突っ込んで考えれば、誰が学びそれを生かして実行するのか、またそうする動機はなにか?関連して悲劇に見舞われる人々の差異は?等々。本書はこれらの解明の第一歩になると思うが、その次のステップも視野に入っている。

2014年、広島市の八木地区において、そこが「蛇落地」と呼ばれていた場所に作られた団地で発生した大規模な土砂崩れによって多くの犠牲者が出た。このことに関連して、本書で次のように書かれている。「この時代の日本人は技術と経済成長の信者であった。自然はコントロール出来ると、人間優位を驚くほど信じた。土砂崩れにしろ、原発事故にしろ、この時代の思想のツケを後代の我々は、いま払っている。(改行)この地の領主が「自然に勝てる」と思い始めたのは、戦国時代のことであったらしい。・・・」。八木を治めた香川一族の子孫が著した古文書には、先祖が享禄五年(1532年)に大蛇を退治した、と自慢気に書き残されている。町史に載っている「蛇落地観音像」の写真のお顔は慈悲深く「みているうちに、なんともやりきれなくなってきた。」

とても哲学的な政治論の源流。『リヴァイアサン』(ホッブズ)第一部

 ブログの断捨離中につき、10年ほど前のをここに引っ越しました。

パスカリ

この本は、イギリスにおいて、清教徒革命の頃(17世紀中頃)に書かれたものです。ホッブズは、人間を国家(リヴァイアサン)の素材であると認識し、まず人間の洞察から始めている。第一部はその箇所に該当しているが、有名なホッブズの政治哲学の考え方はこの第一部の十三章から十六章にかけて示されている。

その考え方は簡単に言うと次のようになる。人間は、自然状態においては、自身の生命を維持するためには何をしても許されるべきである。だが、人間というものは、相互不信に陥れば恐怖に囚われるものである。よって、自然状態において相互不信に陥れば、各人が各人に対して戦うという状況が起り、互いに殺し合い滅亡する。だからそれを回避するには、生存を保証するルールを守らせるだけの力を持った共通な権力(国家)を作る以外にはない。

注意しなければならないのは、よく引き合いに出される「万人の万人に対する戦い」が政治思想としてホッブズの一番基本的な考え方であると誤解することです。一番基本的な政治思想は「平和を希求すべし」(第一の自然法の基本部分)ということであって、そのことを可能にするものは、人間の理性である、という思想にあります。尚、「万人の万人に対する戦い」という言葉は『リヴァイアサン』ではなく、それより前に書かれた『市民論』に使われています。

やはり読み継がれてきた古典は、自分で原典に触れて、全部では無くても大事な箇所をゆっくりと読むと勉強になります。そこから、他の人の考え(先入見)になるべく惑わされずに、また当時の個別事情に惑わされずに、普遍的なものを読み取るところに面白さがあると思えます。なにしろ時代背景、現実条件が全然違うのですから。付け加えれば、その違いの理解は歴史の知識があればあるだけ深まることは容易に推測できます。

 

※もう少し詳しく知りたい時には、以下のリンクで別のブログをみてね

爺~じの哲学系名著読解: 11月 2015




2025年4月12日土曜日

床屋談義の域を少し超えようかと、 高坂正堯先生の『国際政治 恐怖と希望』を熟読してみた

 はじめに読んだのは、2019年の春頃のkindle版だったが、内容は驚くほど覚えていない。kindleに入っていることすら忘れている。

ピース

今回は違う、というのは仲間の読書会の担当者ということになって、昨今の国際情勢を少し理解、といっても床屋談義からちょっと進んだ程度だろうが、と真面目に思い選んだ本だからだ。ところが真面目選んだからにはと真面目に読んでみると記述の意味が不明だ!どうしていそう言えるの、もし高坂先生と質問したら、もう少し勉強してから質問しろ!と言われるに違いない。その通り。国際情勢についての情報や解説はジャーナリズムから洪水のようにあふれ出てくるが、人の話を右から左へと会話することはできても、その意味を考えてみようと勉強したことはないのだから。確かに今まで読んだ好きな哲学書はとても役立つのだが、それだけでは分からない。現実を知らないと言えばそれまでだが、イヤ面白かった。高坂先生の現実主義を考えてみる機会が与えられた。

詳しくはこちらを見てね⇒爺~じの本の要約: 高坂正堯『国際政治 改版---恐怖と希望』中公新書1966年