自己紹介

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1946年9月、焦土と化した東京都内にて、食糧難と住宅難と就職難の中、運良く生き抜いた両親の新しき時代の一発目として生を受けるも、一年未満で感染症にて死にかける。生き延びたのは、ご近所に住む朝鮮人女性のもらい乳と父親がやっと手にした本の印税全部を叩いて進駐軍から手に入れたペニシリンのおかげであったらしい。ここまでは当然記憶にない。記憶になくても疑えないことである。 物心がついた頃には理系少年になっていた。それが何故なのか定かではないが、誤魔化しうるコトバより、誤魔化しえない数や図形に安堵を覚えたのかもしれない。言葉というものが、単なる記号ではなく、実は世界を分節し、意味と価値の認識それ自体をも可能にするものであることに気付きはじめたのは50歳を過ぎてからであった。 30年間程の企業勤めの後、現在は知の世界に遊ぶ自称哲学徒、通称孫が気になる普通の爺~じ。ブログには庭で育てている薔薇の写真も載せました。

2025年5月24日土曜日

今道友信先生の哲学史、あとから読む方がよく分かることが分かった

フランポアーズ・バニーユ
 読んだのは22年前に読んだ記録がある今道友信先生の『西洋哲学史』。外出時の電車の往復にと、本棚にあった手軽な文庫本を持参して読み始めたら、面白くてすぐ読み終わってしまった。どうして今道先生の哲学史だったのかというと、当時先生が講師をしていたカルチャーセンターの哲学史講座を受講していた時、受講内容は忘れてしまったものの、碩学だけど素人に分かりやすく説明してくれる良心的な人だという記憶があったからだろう。

本書は、今道先生の面目躍如な西洋哲学史だった。こんどは面白く読めたのは自分が一応ソクラテスからハイデガー等までを結構繰り返し読んできたからだろう。取り上げられていた哲学者たちの諸説とその関係は網羅的に解説されている。哲学の名著を読んで面白いと思う経験がないのに、哲学史を教養として読もうとしても殆ど無意味なことは、考えてみれば当たり前だということに気がついた。もうひとつ、哲学史は碩学の著作でないといけませんね。

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