自己紹介

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1946年9月、焦土と化した東京都内にて、食糧難と住宅難と就職難の中、運良く生き抜いた両親の新しき時代の一発目として生を受けるも、一年未満で感染症にて死にかける。生き延びたのは、ご近所に住む朝鮮人女性のもらい乳と父親がやっと手にした本の印税全部を叩いて進駐軍から手に入れたペニシリンのおかげであったらしい。ここまでは当然記憶にない。記憶になくても疑えないことである。 物心がついた頃には理系少年になっていた。それが何故なのか定かではないが、誤魔化しうるコトバより、誤魔化しえない数や図形に安堵を覚えたのかもしれない。言葉というものが、単なる記号ではなく、実は世界を分節し、意味と価値の認識それ自体をも可能にするものであることに気付きはじめたのは50歳を過ぎてからであった。 30年間程の企業勤めの後、現在は知の世界に遊ぶ自称哲学徒、通称孫が気になる普通の爺~じ。ブログには庭で育てている薔薇の写真も載せました。

2025年6月9日月曜日

世界政治を提唱する坂本義和先生の回想録『人間と国家上・下』(岩波新書)

ピース(蕾)
 平凡社世界百科事典には、「国際政治」という項目とは別に「世界政治」という項目も載っています。いずれも坂本先生が執筆で、後者は前者の5~6倍の文字数で書かれており、力の入れようが窺えます。先生が出版社から「国際政治」の項目に対する執筆依頼が来た際に、もう時代は「世界政治」の時代だから、この題で引き受けると仰ったそうで、なるほど。


1962年に高坂正堯先生が坂本先生の研究室を訪ねてきて、東大前の喫茶店で3時間ほど話し合ったことに触れられていた。当時、ジャーナリズムによって理想主義者の坂本先生と現実主義者の高坂先生という安易な対比がされていたそうで、このお二人が3時間話し合われた内容には興味を引かれますが、「話していて、この人(高坂先生)は「戦争の傷」を骨身にしみていないという印象を禁じえませんでした。」という坂本先生の感想は、自分は現実主義者ではないがリアリストだと述べていても、やはり理想主義者の言葉だと思えます。

どうも、両先生の考えの相違は、「国家」の捉え方にあるとも言えるのではないでしょうか。また、坂本先生の言う世界市民が、国民国家である主権国家間の権力闘争を超えて、平和な世界を確実なものとする条件は何なのだろう、という問いの立て方は妥当だろうと思っていますが、その問い自体は既に現実主義に基づくものだろうと思えます。

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