自己紹介

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1946年9月、焦土と化した東京都内にて、食糧難と住宅難と就職難の中、運良く生き抜いた両親の新しき時代の一発目として生を受けるも、一年未満で感染症にて死にかける。生き延びたのは、ご近所に住む朝鮮人女性のもらい乳と父親がやっと手にした本の印税全部を叩いて進駐軍から手に入れたペニシリンのおかげであったらしい。ここまでは当然記憶にない。記憶になくても疑えないことである。 物心がついた頃には理系少年になっていた。それが何故なのか定かではないが、誤魔化しうるコトバより、誤魔化しえない数や図形に安堵を覚えたのかもしれない。言葉というものが、単なる記号ではなく、実は世界を分節し、意味と価値の認識それ自体をも可能にするものであることに気付きはじめたのは50歳を過ぎてからであった。 30年間程の企業勤めの後、現在は知の世界に遊ぶ自称哲学徒、通称孫が気になる普通の爺~じ。ブログには庭で育てている薔薇の写真も載せました。

2022年6月4日土曜日

『マハン 海上権力史論』北村謙一訳 原書房

パパメイアン
  本書は1890年に著された海軍戦略の最重要文献と言われている名著で、「陸の地政学」と言われているマッキンダーの『デモクラシーの理想と現実』(1919年)と並び称せられているそうです。出口治明さんによれば、このマハン(アメリカ海軍軍人、歴史家)の地政学の考え方を知るには第1章(シーパワーの要素)だけ読めばいいと書いてあったので、緒論と第1章だけを読んでみた。尚原書は14章あるが、本訳書は抄訳で全8章の構成となっている。そのうちの緒論と1章と8章(原書では14章、1778年の海洋戦争の評論)が全訳。第2章~14章は、17世紀から18世紀(200年間程)に起こったヨーロッパにおける海戦の歴史で、目次の項目だけみても、随分沢山の海戦をしたことが伺える。その歴史から教訓つまり一般原則あるいは海の地政学といわれるものが導かれているようだ。

 ということで、その一般原則から二点だけ書いてみた。一つは、当時の主力であったであろう帆船から新技術による蒸気船へと変化するだろうことによって戦術が変わってくるが、その際に参考になる歴史的教訓があるという。それは、蒸気船は昔のガレー船との同じく風に左右されないことだ、と。確かにこれは歴史的に似た条件があれば、どんなに古い教訓であっても参考になるという意味で普遍性があるだろう。もう一つはかなり説得性がある。つまり、海軍は商船保護のために存在していたという教訓だ。つまり、具体的には植民地獲得と経営の決め手になったのは海軍だという教訓である。従ってシーレーンが地政学上きわめて重要であることが導かれる。その点に関して、大体19世紀半ばまでの300年間にわたる、スペイン、オランダ、フランス、イギリスなどの違いが述べれられている。もちろん当時は最後にイギリスが覇権を握ったのだが、要するに国民性だと。つけくわえれば、冒険心はあっても価値を収奪するだけの国は滅び、価値を自ら創り出す国が強いのだと。これは国家の戦略に関わることで、兵隊の数がものを言う陸軍とは違って、海軍においては大きく影響したはずであろう。







2022年5月19日木曜日

5月18日(水) 『教養としての地政学』出口治明著 日経BP

フレンチレース
 本書は、著者の博学と経済人としてのリアルな経験をベースにした、とても面白い語り下ろしの本です。世界史上に出現してきた多くの国々の興亡、またその理由がとても簡潔に解説されているので、楽しく読むことができます。もっとも時代が下って現代になってくると、楽しいだけでなく、生き延びる知恵を持たねば、と緊張感が漂ってきますが、過去の地政学的知見がどのくらい有効なのかは、変化が早くて複雑かつ危うい現代に対しては、よく吟味することが必要でしょう。

「はじめに」で著者は地政学について次のように語っています。「地政学とは、本来、天下国家を論じる学問ではなく、人間の生きる知恵と関係するような学問だと僕は考えてます。そのあたりのことを中心に話したいと思います。」それには理由がありそうです。つまり、かっての地政学がドイツや日本で悪い意味で流行っていたことがあり、世界情勢が不安定になってきている現代において地政学の再流行の兆しが見えるからでしょう。

地政学の古典には、マハンの『海上権力史論』(海の地政学)とマッキンダーの『デモクラシーの理想と現実』(陸の地政学)があるので、この二つ著作の概要も語られています。著者は地政学のことを次のように説明しています。「ある国や国民は、地理的なことや隣国関係をも含めて、どのような環境に住んでいるのか。その場所で平和に生きるために、なすべきことは何か。どんな知恵が必要か。そのようなことを考えること学問です。」また、地政学が存在する前提を「国は引っ越しできない」、という短い言葉で説明しています。

世界の国の興亡史各論における、その国々が置かれている自然環境上(地理上)の規定に加えて、「生き延びる知恵、あるいは知恵のなさ」の歴史的事実や因果関係について簡潔な説明がなされていいます。世界史や人文地理の分野における説明には、地名、地理上の位置、事実の時間関係、人名、血統図、などが沢山出てくるので理解しにくいのですが、それをあまり感じさせない程巧みな説明です(⇒説明の妥当性は別の興味の問題としてあります)。

それらの個別の事実や事象から一般性を抽出してみると、いくつかの基本的な事柄が浮かび上がってきました。その国が現実のおかれている地理上の特徴以外に、資源や気候などの自然条件の他、血縁、マンパワー、合理的思考、宗教、文化、偶然、などです。これらの項目は独立でもなく、それらの組み合わせから生じる諸事態、例えば経済力、軍事力などを挙げれば沢山あるでしょう。

著者の挙げているキーワードの一つに、「サンドイッチの具」というのがあります。これは、敵対する国によって地理的に挟まれた状態になると戦いで負けてしまうという意味で、陸の地政学に特に当てはまるとのことです。つまり、サンドイッチの具にならないように、敵味方を選定して謀略を企てたり戦争をしかけたり、あるいは婚姻関係を結んだりする知恵を絞るのが地政学だと。海の地政学では、やはり交易です。ローマの賢人キケロは「戦争は要するにお金」だと言ったとか。大航海時代以降は新しい市場が開拓されて、いわゆる地球規模でのシーレーンが重要となり、その確保戦争に勝利したスペインは大国になりましたが、暗愚な君主が続いて衰退したそうです。

いろいろな面白いエピソードが語られています。例えば、大した戦争もせず、謀略も巡らさず、ただ結婚した相手が死んだり病気になったりしたことで、わずか三代でオーストリアやスペイン及び南アメリカやメキシコまでを支配するに至ったハプスブルグ家には「ハプスブルグよ、汝は結婚せよ」という言葉が残されているそうです。ハプスブルグ家の暗愚な君主達は結局スペインを衰退させますが、血縁・血統・出自が地政学上のキーワードの一つになっていた証拠でもあるのでしょう。つまり、人々が納得する統治原理だったからでしょう。専制国家の時代には国家の統治に関与する人々がきわめて少数なために、特に大きな要素だったのでしょう。

合理的思考が地政学としても大切な要素であるのは、思い込みではなくて現実の事実や事象を基にして考えるからなのでしょう。要するに世界は妄想でも来世でもなく現実なのですから(⇒国家は幻想である、と言った人もいますが)。宗教やイデオロギーに囚われずに交易による利益で覇権を獲得した諸都市国家から現代の国民国家にいたるまで、これは通用しそうです。

国家政略についてのエピソードも面白いです。プロイセンの宰相ビスマルクなどの優れた知略ものエピソードも面白いのですが、専制君主の信じられないほどの暗愚な行為についてのエピソードはそれにまして面白そうですね。暗愚な人が国家の指導者ではなくて普通人であるという事態は一般的なのですから、彼等が指導者になってしまうことが地政学的には大問題なのだろうと思いました。


2022年5月13日金曜日

5月12日(木) ロシア・ソヴィエト哲学史(ルネ・ザパタ著、原田佳彦訳)

夢香
 動機は、ロシアのウクライナ侵攻。ヨーロッパと陸続きというより、ヨーロッパの中では後進地域であるとはいえヨーロッパの一部であるロシアには、西欧近代の思想や制度の原理を生み出した西欧哲学思想が全く根付いていないのかもしれない、とフト思った。もちろん、ロシアについての理解が不足しているからなのだが、この無知を埋めるための基本的分野がここかもしれないと。

ということで、ネットで検索して選んでみたのが本書なのだが、面白いことに、本書の著者がどのような人なのかは、訳者も分からないと書いてある。それでも、白水社文庫クセジュに収録され、JapanKnowledgeには「文庫クセジュベストセレクション」に選定されて閲覧対象となっている。20世紀初頭のロシア革命によって誕生したソヴィエト連邦が約70年後に崩壊するまでの哲学史の部分は、今はあまり興味がないから読んでいない。

まず、本書の「はじめに」を読んでみると、あらかたの状況が見えてくる。その冒頭に「ルネッサンス期のヨーロッパに存在していたような哲学は、ロシアではずっと遅れ、18世紀になって、エカテリーナ二世治下、ロシア文化の西欧化という歴史的文脈のなかに、その姿を現すのである。」と書かれ、最後の方には「ロシアの思想家たちが文学と文芸批判とに付与した第一級の重要性を強調しておこう。それは、文学言語の形成と文学の隆盛と哲学の誕生が、ロシア民族意識の出現という、一層広範な歴史的文脈の中で同時的に起こった過程だという事実に起因する。」と書かれている。

読書日誌なので、内容の紹介は印象に残った箇所の一部分だけの抜粋だけで勘弁してもらうことにしよう(ついでに、これからも)。と言うことで以下。
・11世紀から1459年(ロシア正教会が東方正教会のなかで独立を宣言し、モスクワ大公の支配下となった)にかけて、ロシア的霊性はその特徴的性格を持つようになった。
・こうして(⇒東ローマ帝国の滅亡とキリスト教正教帝国というローマ帝国の滅亡)、モスクワ公国を中核とするロシアは(⇒第三のローマとして)、15世紀からすでにこの二重の使命を与えられることになる。
・1654年、ウクライナがロシア帝国に併合された後、キエフはロシアにおける西欧哲学思想普及の中心地になっていく。
・ピョートル大帝(在位1689-1725)は近代国家の基礎を築き、ロシア文化を極端なまでの西欧化に曝した。
・ロシア哲学の開花=成熟に果たしたエカテリーナ二世(在位1761-96)の役割は、きわめて重要なものである。彼女はヨーロッパ---とりわけフランス---の哲学者たちの著作と思想の普及を奨励し[・・・]。これ(⇒ブガチョフの反乱1772-75)以降、カテリーナは貴族階級の権利を強化することに没頭する。女帝は熱狂的なヴォルテール主義を棄て、世界主義と西欧の腐敗堕落に対して、ロシアの過去の光栄をたたえる偏狭な民族主義に結びつく。
・19世紀はナポレオン戦争の終結とともに始まる。ドイツ戦役とフランス戦役が、若き貴族たちにとって真の研修旅行になったのである。遅れたロシアが、孤立し、いまなお農奴制の軛の下にあるロシアに対して、輝きに満ちた文明の明示のように見えるヨーロッパが、ロシアの若き貴族達の前にそびえ立っている。
・「我がロシアの現状を見るに、われわれに対しては、人類の普遍的法則が無効とされているかのようである。世界に孤立したわれわれは、世界に何も与えず、世界から何も得てこなかった。」「存在するのはただ、実際に思索と霊魂への関心によって導かれるようなキリスト教社会(⇒ロシア正教)だけである」(⇒どちらも、ピョートル・チャダーエフ著『哲学書簡』1829年)。
・(⇒その後、哲学・思想界は大きくはスラブ派と西欧派などに分かれて進展するも、ニコライ一世治世末期に弾圧され、死刑、シベリア流刑、または沈黙、の暗黒の7年(1848-55)を迎える。ドストエフスキーは死刑宣告をされるが減免されシベリア流刑となる)
・長かったクリミア戦争(1853-56)でロシア軍が敗北した結果、専制体制は窮地を脱するため譲歩し、農奴制を廃止する(1861年2月19日の農奴解放令)が、しかし、諸改革の策定とその実施に際して、この国のエリート達が実際にそこに参画することを保障するいかなる機構も設置されなかった。
・(⇒その後、思想界は自由主義、進歩主義、虚無主義等も加わっての分裂状態に陥る。同時期、ドストエフスキー、ツルゲーネフ、トルストイ、等の文豪は多大な影響を及ぼす。1870-80年代になって人民主義が出てきて、マルクス、エンゲルスと繋がるが、ロシアにおけるマルクス主義は一層教条的で普及の歴史は長く複雑であった)

ロマノフ王朝という専制国家の必要性においての西欧化であるならば、弊害が生じれば暴力によって禁止されることは、もちろん哲学も例外ではない。ロシアという地域は、ヨーロッパの一部として200年以上も西欧化の努力を継続した。しかし、結局はヨーロッパ文明の礎であるルネッサンスを経験しないままに、20世紀に入るやいなや社会主義国家ソヴィエト連邦になって、さらに80年近く近代文明・文化から取り残されたのではないだろうか。そして、ソ連崩壊後の今日、「ロシア的霊性」の顕在化は何をもたらすのだろうか。





2022年4月30日土曜日

4月28日(木)『マッキンダーの地政学』(曽村保信訳 原書房)

モッコウバラ
 ロシアによるウクライナの侵略という事態が発生した。まるで150年ほど前の出来事かと見紛う一方、今まであまり興味を引かれなかった地政学について少し興味が出てきて、元外交官で作家の佐藤優氏が地政学の原典と位置づけて推薦していた本書を読んでみたが、現代においても地理的条件が戦争を規定することを改めて考えさせられた。

本書の底本は「Halford J. Mackinder, Democratic Ideals and Reality, 1942」(元々の初出は第一次世界大戦末期頃)、日本語訳は『デモクラシーの理想と現実』(曽村保信訳 原書房 1985年)で出版されていた。本書は2008年に「デモクラシーの理想と現実」を副題にして名称を『マッキンダーの地政学』と変えて新装復刊されたもの。

古来人類は途切れることなく戦争をしてきた。何故だろうか?という哲学的問いがまず思い浮かぶが、人々の気持ちという観点からの答えは、「不安に基づく不信」による、という説明が私としては一番気に入っている。17世紀半ば頃にイギリス人のホッブズという哲学者が著した『リヴァイアサン』に述べられている。だから、戦争を回避する原理は信じ合える人々が安心して暮らせる世界を築くこと、となる。

2500年前のギリシャの哲学者プラトンは『国家』という著作で、人々の衣食住という必要性から生まれた国家同士が戦争をするようになるのは「人々が贅沢になって財貨を求める」からだと言っている。だから、戦争を回避するには、贅沢を求めない人々になるか、財貨がどの国も潤沢になるか、のどちらかとなる。

哲学的問いに対する答えはそれぞれもっともに思えるが、現実に戦争があり得る世界では、哲学的答えを現実にする努力と並行して、戦争への対処法は何かという別の問い方もあるだろう。その場合、そのような問いに答えるための、戦略的で合理的な学問があり得るのかもしれないが、地政学とはその種の学問なのだろうと思った。

まず著者は地理学の先生でもあるから、地政学においては、世界におけるその国が置かれている地理的条件が一番大事だと言っている。もちろん、古代から現代に至るまでの歴史において、人々が描くことができた実質的な世界は拡張され続けてきたから、時代が異なれば地理的条件も異なってくるが、地政学的法則は普遍的だという。

500年ほど前の大航海時代になって遂に、丸い地球の表面が、陸地と海が繋がった一つの世界であることを人々は体感した。その後、科学技術と産業革命とデモクラシー的な制度が創出され、それらに基づいた西欧近代国家も出現してきた。人々は自然を改変し社会の仕組みも創り上げてきたが、地政学の基本的法則は普遍的だと著者は述べているようだ。

著者の地政学理論の根拠は、古代エーゲ海文明から第一世界大戦までの粗方3000年くらいに及ぶ歴史の経験と、近代西洋文明が創り出した根本仮説、つまり世界には普遍的な法則が存在するという根本仮説となるだろう。

この地政学の法則が現代でも通用するように、もうすこし歴史を細かく区切って考察がされるが、500年ほど前の大航海時代から現代までを対象とした地政学においては、その法則が予想する結果の持つ意味合いが、デモクラシーの理想と現実との違いという観点からも浮かび上がってきているように思える。

キーワードは、ランドパワーとシーパワー、世界島、ハートランド。よくでてくる概念は、国家を構成する人々(~人、~族、~民族、等々)の区分け、組織力、社会管理、バランス、理想家、自由、デモクラシー、専制国家、など。

ランドパワーとシーパワーというキーワードによって、古代からの世界を通観すれば、その時々の世界における世界的戦争はこの二つ勢力の鬩ぎ合いであったことが示される。つまり、これは地政学上の普遍的法則だと。その二つのパワーの主な特徴は、古代の地中海世界においても、現代においても、シーパワーは交易による富と知恵の蓄積を元手に機動力に優れ、河川や海を利用して内陸に攻め入ったり、各地に拠点を作ってランドパワーを封じたりすることができること、ランドパワーはマンパワーと生産力に優れ、その力によってシーパワーが存在する条件をなしていること。

世界島というキーワードは、世界が次第に拡張してくると、シーパワーの人々にとって「世界」自体が「島」と捉えられてくることを表現している。つまり、拠点を作り島を包囲すれば支配が可能になるのだから、世界も支配も可能になると考えはじめるのだ、と。

ハートランド(心臓地帯)というキーワードは、世界を独占的に支配する可能性を秘めた地域を指す言葉で、シーパワーを支配したランドパワーの国家が存在する地域とも言える。だから、歴史が進み世界が拡大すればハートランドの地域も変遷する。著者は現代におけるハートランドの可能性として具体的に二つの地域を挙げている。一つは現在はロシアという国がある場所(北ハートランド)とアフリカ大陸の南半分(南ハートランド)。

関連して、第一次世界大戦の講和会議に出席中の戦勝国の政治家に対して守護天使が囁く言葉として著者が書いた印象的記述の引用⇒p177「東欧を支配する者はハートランドを制し、ハートランドを支配する者は世界島を制し、世界島を支配する者は世界を支配する」。

当時(第一次世界大戦直後)の著者は、イギリスやアメリカや日本はシーパワーとしてフランスなどの西欧諸国の味方をして、ドイツを中心とするランドパワーに勝利したが、将来的にドイツがハートランドを制する可能性に言及しているように見えることは面白いが、著者が言いたいのは、今あるどこかの国がハートランドを制する、ではなく、ハートランドを制する者が世界を制する、ということに注意が必要だろう。




2022年3月5日土曜日

3月2日(水) 『ぼくが遺骨を掘る人「ガマフヤー」になったわけ』 具志堅隆松 著 2012年

ピース
 本書を知る契機は 三月後半に沖縄旅行を計画しているときでした。沖縄では太平洋戦争末期の1945年3月末から3ヶ月ほどの間に日米両軍による地上戦が行われました。戦死者は日本の戦闘員は9万人程、米国の上陸戦闘員1万2000人、そして民間人が15万人以上といわれています。因みに、日本軍兵力は10万人(内2万人は臨時要員)、上陸した米軍兵力18万人、当時の沖縄県の人口は59万人位でした。

 民間人がこれほど多いのは、沖縄県に配属された日本軍の目的が、日本国民である沖縄の住民の命を守るためではなく、沖縄という場所と住民の労働力を、次に予想される日本本土への米軍の侵攻を止める手段として利用することであったからでしょう。

 日本軍は島の南部の首里に頑強な地下本部を設置し、各地に抗戦の陣地を築きました。そして足手まといになる住民達を島の最南部へと移住させ、圧倒的な物量をもって中央部西海岸に上陸してきた米軍と、絶望的な戦いを行いました。そして最後は、首里の本部を放棄し、最南部へと追い詰められて殆どの兵力を失って敗北しました。

 島の南部に移住させられた住民達は、はじめは自然洞窟内(ガマ)に待避していましたが、敗走してきた日本軍が移動してくるとガマは要塞陣地の代わりとなり、住民はガマの中で兵隊と混在したり、外に追い出されたりしました。その結果、戦闘に巻き込まれて多くの住民がそこでも亡くなりました。

 沖縄出身の著者は、沖縄戦死者の遺骨を1982年以来30年間掘り続けている。遺骨が特定されて家族の元に帰ることを願って。しかも、その殆どの時期は1人で。ボランティアの協力によって行われた遺骨収集事業が那覇市の共催で行われたのは2008年。その名も「平成20年度那覇市平和事業 那覇市真嘉比地区・市民参加型遺骨収集」。本書には著者が遺骨収集で経験してきた、リアルな死が物語る諸事実が記述されている。その内容はここには記載しないが、その代わり、冒頭の「読者の皆様へ」に書かれている文章の末尾を以下に転載します。

「若い人たちに伝えたいことがあります。これからの長い人生、力の強い者についていくのではなく、弱い者に寄り添い、ともに歩んでください。それが社会がよりよくするだけでなく、人生をきっと充実したものにしてくれるはずです。」2012年8月 具志堅隆松



2022年2月12日土曜日

岩波講座 日本歴史 第15巻 近現代Ⅰ(2014/2/19)殖産興業政策の展開(神山恒夫)

 このシリーズは、その前のシリーズ「日本通史」の続編・改訂版として刊行された学術的出版物です。15~19巻で取り扱う近現代史については、そういう事情もあってこの「日本歴史」の方で少し詳細な読書メモとして別ブログに連載する予定ですが滞ってます。なので、とりあえず通読の上簡略化してこちらの読書日誌に書くことにしました。

 本メモは、著者の学術的な記述を元に私が「多分こういうことなのだろう」と解釈して、簡単に纏めたものです。

殖産興業政策の展開(神山恒夫)

芳純

 明治維新直後から、帝国議会開設(1890年11月29日に大日本帝国憲法が施行されると同時に開設)間の20年ほどの間、旧封建社会が崩壊し、統一通貨すらなかったなかで進められた殖産興業政策の展開が記述されている。

 その進展は急を要し、政府内における権力争いが盛んななか、政策は年・月単位で刻々と変化していく。でも、統一国家としてのこの政策を遂行しなければならないという意思は揺るがずに進められた。その結果、近代的産業基盤を支える諸企業や金融システム、勧業諸会は、基本的機能と能力を持つに至った。


はじめに

本稿では、明治前期(明治維新-帝国議会開設)の殖産興業政策について、財政・金融政策全体の動向に留意しながら検討する。

 一 直接的勧業政策の重視

 1 明治初期の経済政策

明治維新直後に政府は直ちに殖産興業政策を開始したが、その積極基調の政策は、通貨制度等の経済基盤が未整備であったために、外国貿易も国内経済も目論見通りには進まず挫折した。

1871年の廃藩置県に伴い大蔵大輔に就任した井上馨は、通貨の混乱を解消して長期的な経済発展の基盤を整備するため、消極基調の政策を採り、緊縮財政を展開したが、財政収支均衡による歳出削減が政府内の反発を招き1873年5月に辞職を余儀なくされて、これも挫折した。しかし、この間においても勧農事業を含む殖産興業の方針は政府中枢組織によって優先的に進められた。

 2 大隈財政と内務省

井上に代わり財政・金融政策を担当した大隈重信は、貿易収支改善には民間産業育成と交通機関や金融制度の整備が必要であると考え、積極財政と通貨増発により積極基調の政策を推進した。大隈財政によって、常用部予算は1873年1月期歳出額の4600万円から1875年度では6800万円に急増し、財源不足となった1876年度予算は減額されたが、6300万円であった。

1873年12月に設立した内務省は、大久保利通内務郷のもとで殖産興業政策を実施した。1874年1月に、大蔵省の一部業務を引き継ぎ勧業寮が設置されたが、勧農政策範囲にある農産加工品が中心であった。12月頃には、勧業寮は新たな事業拡大を図るとともに、勧農寮を新設して組織的な生産、技術の自主的向上を図った。1875年5月、大久保内務郷は内務省の優先すべき政策構想を提示し、勧業寮の事業拡大や運営内容適正化を図り、民業奨励重視の殖産興業政策が本格的に展開された。

こうして、1876年度までは常用部予算、工部省予算、内務省勧業寮関係予算も拡大して行ったが、1877年に入ると、地租課税率の減額と西南戦争の勃発によって財政事情が悪化し、内務省と工部省との重複解消や事業組み替え等に加え、常用部予算も大幅減額で4900万円となり、殖産興業政策の予算も大幅減となった。

このような状況のなかで、1878年3月に内務省は、官営開発への華士族の転用、地方への殖産興業資金貸与を提案し、更に殖産興業政策に関する内務省と工務省の予算増額の要求があったため、1878年3月に起業公債の発行が決まった。

 二 間接的勧業政策への転換

1 大久保没後の政策転換と「勧農要旨」 

西南戦争後も大隈は積極基調-積極財政の積極財政方針を継続したので1880年度の最終予算額は6400万円に達した。ところがインフレが激しくなったので積極基調・緊縮財政方針に変更したのだが、1881年度常用部当初予算額は69000万円であった。

大隈財政末期では、直接的勧業政策の弊害と間接的産業政策への展開が課題となっていた。それが問題として浮上してきた直接契機は、1879年に松方が、殖産興業政策の当事者である勧農局長として示した方針「勧農要旨」だった。

1878年5月に大久保が暗殺されると、伊藤博文が内務郷になり、1880年2月に松方が内務郷に品川弥二郎が勧農局長に就任する。こうして大久保内務郷時代に重視された直接的勧業政策の縮小が図られ、間接的勧業政策に重点を置く殖産興業政策が推進された。

2 政策転換の実態

直接的勧業政策から間接的勧業政策への転換は、制度やその運営の不備、政府内の権力争い、財政難、治安維持の必要性、財政資金の民間貸し付けへの批判、等も絡み、個別にはさまざまな経過を辿った。特に、規模も大きく官業払い下げのさきがけとなる富岡製糸所払い下げが却下された件は典型例。

積極基調に基づく積極的な殖産興業資金の供給を維持するために金融機関の整備が模索された。商務局主導での前田正名による「帝国銀行」設立提案(1879年9月)、横浜正金銀行による海外荷為替業務の開始(1880年10月)、正貨蓄積を重視する点で商務局と方針を異とする松方による「勧業銀行」設立提案など。

三 間接的勧業政策の定着

明治14年(1881)政変で松方が大蔵郷に就任すると、銀本位制を目指して消極基調・緊縮財政方針を取り、直接紙幣消却などで通貨収縮を図り、1882年に開業した日本銀行は銀行紙幣整理を担当したが兌換券発行はまだ実施できなかった。

緊縮財政は、紙幣整理と両立する範囲で運営され、軍拡・鉄道公債は認められたが、初期の収入分は国庫積立とされた。1885年に日銀の銀兌換券発行、翌年は政府紙幣の銀兌換が始まり、銀本位制が成立したことで、松方は積極基調・緊縮財政方針へ転換をした。このような中で、直接的勧業政策を縮小して間接的勧業政策に重点を置く殖産興業政策が定着してきた。

勧業・補助金など産業育成に対する財政支出は交通・通信などの限定し、官業払い下げや農商務省による生産者・商人の組織を通しての財政資金提供ではなく、日銀を中心とする金融機関の整備で対応する方針を取った。しかし、当初は兌換券発行ができない日銀は資金難に陥り金融疎通の効果は上がらなかった。

兌換制度が定着して金融市場が安定すると企業が勃興して資本主義化が本格化してきた。民間資金需要については、民間銀行が株式を抵当に資金を貸し付けることで、日銀は公債抵当金融を中心に国内民間金融を拡大することで対応した。

松方は日銀や民間銀行は短期商業金融に専念させ、長期金融は特殊銀行を設立する構想を持っていたので、日銀の抵当金融拡大方針には批判的であった。しかし、日清戦争で銀行設立が伸ばされたため日銀のこのやり方を認めざるを得なかった。

1889年3月に準備金による海外荷為替が廃止されたため、同年10月に横浜正金銀行に低利資金を供給して正貨で返済させることで、日銀は正貨貯蓄の責を負うことになった。こうして日銀が金融政策の中心となり財政と金融の分離が進行した。

官業払い下げは、民への条件が厳しく進まなかった。それは、財政資金回収が重視されたからであったが、1884年7月の鉱山払い下げ決定と同年10月の概則廃止を契機に、官業の払い下げが本格化した。

官業は鉄道・電信・兵器などの限定した分野に対して拡充する方針であったため、1885年12月の内閣制導入に伴い工部省は廃止され、交通・通信を担当する逓信省が設立され(鉄道は内閣直属)、払い下げを受けた政商は鉱工業に進出して財閥に発展する基盤を獲得した。

勧農事業に関する間接的勧業政策は以下のような進展を見せた。1881年に設置された農商務省は地方の府県勧業課などを中心にして勧業諸会の拡充に努めるほか、1884年11月には、同業者の自主的な合意形成を前提にした恒常的組織として、物産改良などを進める同業組合の設立に着手した。しかし実際には、同業組織は監督する府県の裁量権が大きなものにならざるを得なかった実情があった。方向は同じとしても、政府関与の程度に差が生じた。それでも、勧業諸会・商人組織は進展し在来技術改良に効果を上げていた。

前田商務局長(35歳)は、間接的勧業政策を進めるべく1885年1月に農商務省改革に着手し、これの手段として興業銀行設立も企画したが、12月に非職となった。直輸出奨励・在来産業育成を重視ていた前田は、正貨蓄積を優先する松方とは興業銀行設立の基本にある金融政策に齟齬があったのである。


2021年11月10日水曜日

11月10日(水) 上垣内憲一『暗殺・伊藤博文』犯人は安重根ではないかもしれない。

 何しろ証拠薄弱、疑問山積、動機はやまほどある・・・。
ハイビスカス

 このテーマで上垣内憲一さんの著書を読もうと思ったのは、知人から紹介されて先日はじめて読んでみた『雨森芳洲』(中公新書)の記述から、著者の緻密な誠実さが伝わってきたからであった。

 この事件は、単なる歴史の一コマではないのに、どうして事実を真剣に調べることに抵抗があるのだろうか?近現代史であればあるほど「政治的バイアス」があるからだろう。だが、噂ではなくまずは事実を大切にするという感性はとても大切だと思う、特に民主主義においては。

 伊藤博文の暗殺犯は一般に流布しているような安重根ではないかもしれない。なぜなら、驚くべきことに、採取可能であったはずの直接的証拠も信憑性のある間接的資料も残されてはいない。

 推定される動機は二つある。一つは当時の支配者であった日本国政府に対する被支配者であった朝鮮国の人びとによる抵抗である。安重根説はこちらに属するから、彼は韓国では英雄として位置づけられ、そう教えられているらしい。

 しかしもう一つの動機がある。それは、当時の東アジア情勢をめぐる、日本政界の最高実力者で朝鮮総督歴任者(だから暗殺対象者となった)である伊藤博文と日本陸軍との路線対立である。こちらの場合で可能性が高いのは、当時世界トップクラスの謀略工作の専門家で、日本の韓国憲兵隊長明石元二郎少将(過酷な朝鮮弾圧で知られている)の指揮の下でこの暗殺が遂行されたのではないかというのが著者の説である。

 明治維新以後の40年間ほどの間に、日本国の対朝鮮・清国・ロシアの外交政策は、日清・日露の二つの戦争を挟んで次第に軍事力に依存するようになっていった。維新の立役者が次第に亡くなっていくなか、元勲の一人であり当時の最高指導者であった伊藤博文は、当然、日本国の運営方針に深く関わっていた。政界NO2の山県有朋を最高指導者に頂く日本陸軍勢力は、伊藤暗殺の翌年に実行された韓国併合も、対ロシア政策の要としての満州地域支配の手段であると考えており、一貫して外交を重視する伊藤の存在はこの政策実行の大きな障害となっていた。

 アメリカのケネディ大統領暗殺に関する一連の事件も深い闇に閉ざされていると多くの人が感じている。伊藤博文暗殺事件の真相の究明は今となっては困難かもしれない。しかし、ここ20年くらいの日本の政治状況を見ると、この暗殺事件は、歴史が今の社会に鳴らす警鐘のように聞こえるのは考えすぎだろうか。国家における諸権力の都合による事実の隠蔽という意味で。