ピンクパンサー |
この本を一言で言えば、「構造主義科学論」という観点によって科学の本質へと導いてくれる本、ということになる。
科学は(人間の主観と切り離された客観的)真理を追求するのではなく、同一性の追求をめざすものである、と先ず著者は指摘する。つまり、科学は人間精神の外にある「真理」を追究してきたつもりだったが、実は「同一性」という人間精神の中にあるものを追求する営みであった、ということなのであろう。
しかし、少し考えてみると、一人一人の人間についてみれば実にいい加減としか言いようがない人間精神の営みが作り出した、例えば宇宙船やコンピュータ等々の事物が、実に設計通りの機能を発揮するようになっているのはなぜだろうか、という疑問が浮かんでくる。それは、科学の理論が客観的なものへと変わっていく構造を持っているからである、というのがこの本から読み取れることである(別の視点から観れば、宗教や他の理論そうなっていないということだろう)。
一般に、科学の理論は「帰納」「現象」「演繹」を基盤にしていると考えられているが、著者によれば、それらの基盤は脆弱であり、より深い基盤は「構造」にあると言っているのだと思う。例えば、「帰納」によって法則が可能なのは「一回起性の出来事」の中に予め共通な事実が含まれていることが前提されているし、「現象」が観察で可能なのは現象自体が人間精神と別に在ることが前提されているからで、「演繹」が前提している「因果関係」は、一般には自身がそこに含まれる必然性を含んでいるから論理破綻している、という様に。
著者が提唱する「構造主義科学論」はこれらの問題を克服出来る可能性を持っているかもしれない、という。では、その「構造主義科学論」とは何なのであろうか。その説明として著者はいろいろな言い方をしているが、わかりやすい言葉に少しアレンジして言ってみると「外部に自存する不変な実体に根拠を置かないでも科学というものは構築できるという科学の理論」となるのだろう。ここで、外部や自存というのは人間精神に対しての言い方で、例えば神とか自然、不変というのは普通に考えている時間が経過しても変わらないということ、実体というのは人間が在ると思っている事物や法則のこと、と考えれば大体良いと思う。一番短い説明は「科学理論は構造である」、一番言い当てて(コードして)いそうなのは「科学とは、現象を構造によってコードし尽くそうとする営みである」だろう。だが、これだけ読んでもなんだか分からない。分かるには、著者の理論の基底になっている哲学思想、特にフッサールの現象学とソシュールの言語理論及び後期ヴィトゲンシュタインの言語哲学の基本を理解することが必要となる。これらの哲学用語を用いると、もう少し具体的な説明が可能になる。例えば、著者は「経験によって感じることの出来るすべての何かを現象」と呼び、ここを信じて起点としている(フッサール現象学の理解が背景にある)、「シニフィエが代入された記号と記号の関係形式を一般に「構造」という」(「シニフィエ」はソシュール言語論の用語)、「科学は見えるものを見えないものによって言い当てようとするゲームである」(「ゲーム」は、後期ヴィトゲンシュタインの哲学用語「言語ゲーム」が由来だろう)、など。
読んでみて気付いたのだが、この本は科学の歴史を理解するためのとても良い教科書になっている。科学史の本には事実や知識は書かれていても、その思想についてはあまり書かれていない。しかし、この本は、「構造主義科学論」という観点を置くことによって、科学の知識ではなく本質に迫ることが出来るようになっている。だから、ギリシャの自然哲学から始まって、ニートン力学、アインシュタインの相対性理論、素粒子物理学、量子論、更に著者得意の生物学の分野に至るまでの科学の歴史が「ナルホドそうだったのか」、あるいは「もう少し科学を勉強してみたい」と思うように書かれている、と思う。
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