自己紹介

自分の写真
1946年9月、焦土と化した東京都内にて、食糧難と住宅難と就職難の中、運良く生き抜いた両親の新しき時代の一発目として生を受けるも、一年未満で感染症にて死にかける。生き延びたのは、ご近所に住む朝鮮人女性のもらい乳と父親がやっと手にした本の印税全部を叩いて進駐軍から手に入れたペニシリンのおかげであったらしい。ここまでは当然記憶にない。記憶になくても疑えないことである。 物心がついた頃には理系少年になっていた。それが何故なのか定かではないが、誤魔化しうるコトバより、誤魔化しえない数や図形に安堵を覚えたのかもしれない。言葉というものが、単なる記号ではなく、実は世界を分節し、意味と価値の認識それ自体をも可能にするものであることに気付きはじめたのは50歳を過ぎてからであった。 30年間程の企業勤めの後、現在は知の世界に遊ぶ自称哲学徒、通称孫が気になる普通の爺~じ。ブログには庭で育てている薔薇の写真も載せました。

2017年10月24日火曜日

10月24日(火) 『秩父事件』(井上幸治著1968年中公新書)概要

 本書を読んでいるうちに、秩父事件に直接に、間接に携わったそれぞれの人々が、この事件の前後数年間に時系列的に何をしたのだろうかと思い、足りないデータを補いながら表を作り始めてみた。そうすると、本書に書かれている人物像は、なるほどそうだったのか、と納得が深まっていった。
 ここでは、その概要を書いた。各人物像と事件前後の数年間にわたる彼らの行動実績は、別のブログ爺~じの「本の要約・メモ」に掲載しました。


秩父事件の概要

リモンチェッロ
 秩父事件とは、明治17年(1884年)の秋も深まる頃、埼玉県西部の山並みに囲まれた秩父地方で発生した農民集団(困民党)による暴動事件のことを指す。この暴動事件は、規模と質からみて単なる一揆などというものとは異なっていた。困民党が動員した農民たちは一万人近くに及び、その戦闘力は、未だ武器調達や戦闘訓練という点においてはまるで不十分とはいえ、良く組織された民兵とさえ言えるものであった。

 このような困民党蜂起の条件は、簡単に言えば三つある。一つは経済的条件。この時期に発生した不況が、秩父地方や峠を隔てて繋がっている群馬の南部地方や長野の東部地方の養蚕業を直撃したこと、その不況時における政府の政策が、養蚕業を主な生業とする人々、つまりこの地方の農民に、高利貸からの借入、ひいては破産を強いたことである。一つは人々の考え方の変化、それは自由民権という思想が、自分たちの生きる権利の正当性を目覚めさせたことである。もう一つは、この自由民権思想を農民たちに教えた自由党員たちが、端的に農民たちの梯子を外したためであろう。つまり、梯子を外した彼らにとっては議会を設立し、憲法を制定し、国政に参加することが自分たちの目的であって、選挙権すら持てない、いわば99%の人々の死活がかかった生活を救うことが目的ではなかったのであろう。

 ところで、梯子を外された困民党のリーダーたちは、誰かに梯子をかけてもらったとは思っていなかったのかもしれない。だが、回避できない現実を突きつけられたその時、彼らは一体何を思ったのだろうか。それはそれぞれの人々が事件の前後にとった言動の記録から想像するほかはない。

 だが、なにより注目すべきは、蜂起の正当性を、農民たち自身が明治時代の自由民権運動の思想、つまり自由や平等という西欧近代啓蒙思想に求めていたところにある。しかし、この事件の肯定的部分よりもむしろ否定的部分の方が秩父の人々の心性に今なお深く沈殿しているように感じられる。『秩父事件』の末尾で著者こう言っている。「しかし、秩父事件の記憶は、日本の歴史のなかで、民主主義の理想が生きているあいだは、ある積極的な発言をし続けるだろう。」と。

秩父事件の人間像

 『秩父事件』にはいろいろな人たちが出て来る。同じ自由党員であっても、困民党の運動に直接影響を与えた人々、困民党の運動を知っていてもかかわりを持とうとしなかった人々、自ら困民党に参加した人々がいた。困民党として蜂起した人々のなかにもさまざまな人たちがいた。自由党員の人たち、程度の差はあれ自由民権思想に啓蒙されて困民党蜂起を指導遂行した農民の人々、もちろん一万人近いその他の人々は、村々で行われた「駆け出し」で動員された貧困に苦しむ農民たちである。この最後の人々は、役所で証文が焼かれたり、高利貸が打ち壊されたりして自分たちの借金が棒引きになるから、あるいは困民党に従わねば自分たちが焼き打ちされると脅されて、蜂起に参加した人々であろう。

 板垣退助は、明治7年、薩長藩閥政治に代わって憲法の制定と議会の開設を求めて「民選議院設立建白書」を政府に提出して却下されたことを契機に自由民権運動を始め、明治14年、「国会開設の詔」が出されたことを契機に自由党を設立した。だが、次第に地方の急進派を抑えられなくなりその3年後の9月に起こった自由党左派による加波山事件(政府転覆を狙ったといわれている)直後に自由党を解散する。その間、明治15年に暴漢に襲われて負傷し、同年末から半年ほど外遊しているが、急進化する地方組織を統一した運動方針の下に指導する意思あるいは力が党本部にはあったのか疑問が残る。

 困民党武装蜂起の決定は明治1710月12日だが、蜂起日時の決定は、山の中での幹部の激論を経て、前日の10月31に日といわれている。秩父郡全域をあらかた困民党勢力下に置き大宮郷(今の秩父市)から政府機能を奪取したのは113日でその数およそ8000名。だがその直後、軍の派遣等で次第に強まる政府の圧力下での誤情報等による判断ミスが続き、指揮統制力の壊滅が始まる。そしてついに周辺地域の一斉蜂起の望みが絶たれたことも明白となって、翌日114日には本隊は実質崩壊する。その後分隊は尚存続し、尚各地で「駆け出し」による人集め、時には官憲と戦闘などのゲリラ活動を行い、最後に残った人々は秩父から峠を越えて山中谷沿いに武州街道から十石峠を越えて信州へ向かった。その数500600名。彼らを率いる自称参謀の菊池貫平の行動は、これから進む先にある一斉蜂起の希望を捨て去らない革命ロマンに対する楽観主義を彷彿とさせる。

 そして遂に、11月9日、八ヶ岳山麓、佐久甲州街道沿の信州馬瀬にて、圧倒的な装備を持つ高崎鎮台兵一中隊100名による20分弱の十字砲火を浴びながら13名の死者を出し、東馬流の井出氏邸に置いた本陣は壊滅した。翌日残った200人程は尚隊列を組んで甲州を目指して南下したが、後方遠方からの憲兵の狙撃を受け、前日からの恐怖に農民達は潰走し、八ヶ岳山麓や秩父山地へとそれぞれの思いを抱えて逃げ散っていった。その後、3821人が刑罰を受け、その内12人が死刑判決であった。逃げ延びた者数名、獄中死した者多数。



0 件のコメント:

コメントを投稿